2003年10月2日 11:15 AM
前回、と言っても8月初旬にまとめて投稿して以来1ヶ月半以上経ってしまいましたが、書いた内容がある人には過激に、ある人には私が何か批判され傷ついているように思われ、心配されたり、激励されたりしましたので、今回はやんわりとパークリッジの教会(アメリカ人会衆)について書いてみたいと思います。サーキットの10月号と一部ダブりますがご了承下さい。
パークリッヂ合同メソジスト教会は1909年9月12日に創立され今年で94周年を迎えました。16人でスタートしました。創設メンバーは熱心なメソジストで、当初近隣の町にあるメソジスト教会に行ってましたが、当時はバスや車とて無く、1日数本の電車に乗って日曜日の礼拝に行ってました。ですから1本電車をミスすると何時間も待たされ、礼拝に間に合わなかったり、帰りが遅くなったりしました。そういう時は子供づれで男性も女性も正装した格好で徒歩片道2時間以上かけて歩いて通っていました。今と違って舗装されていない馬車道、雨や雪の時はぐちゃぐちゃになり行けなくなります。そんな中で創設者の一人、ブリスコー婦人が「ああ、自分の町にメソジスト教会があったらどれほど素敵だろう!」と口癖のように呟いていました。その思い、祈りが神に届き、近隣の牧師と巡回伝道士(サーキット・ライダー)が集まって教会誕生に至りました。
メソジスト教会は歴史の中で何度か合同し、名前がメソジスト・エピスコパル教会、北、南メソジスト教会(南北戦争時の分裂期)、第一メソジスト教会を経て合同メソジスト教会になりました。その間、確実に会員が増えて、第二次大戦後すぐの繁栄期=1950年代には礼拝2回持たれ、2回とも満席(礼拝堂は満席で120名ですから少なくとも200名以上集っていた)、教会学校も子供が100人以上になりました。その後、公民権運動、ベトナム戦争、女性解放自由運動などで、社会的意識が高まる反面、世俗化が進み宗教離れが増え、途中教会分裂も経験し現在会員100名弱、実質礼拝数40~50になってしまいました。
しかし、それでも残った人達は、この町で生まれ、この町で育ち、大学や仕事で一時的にこの町を離れたものの、また戻ってきて教会に連なっている人達です。彼らはどこに行っても「自分はパークリッヂ合同メソジスト教会の会員です。」と誇りを持って言い切ります。これはメソジストに限らず、多くの教会で見られます。諸々の事情で他の町に移っても、彼らはまずメソジスト教会を探し、そこに行きます。無い場合は教理、雰囲気の近い教会を探します。それほど自分達がメソジストであること、そのアイデンティティーを大事にします。勿論、彼らはメソジストであるとうこと=クリスチャンであるといことをいつも忘れません。
日本人のクリスチャンは全般的にどうも教会に連なるという意識が弱いような気がします。自分の好き嫌い、傾向や雰囲気で教会を選び、気に入らないと他教会へ行くみたいなところがありませんか?「自分の教会」意識が薄く、教会に属してそこから主の交わり、社会への奉仕、貢献をするというところになかなか至りません。何だか根無し草のようです。
アメリカ人にも若い世代にはそういう傾向が見られます。どうも都市に多いようです。都市型の信者の場合、大多数が他の町や州から出てきた人が多く、その都市で生まれ育って、そこで根付いてということが無いから、上述のような自分の町の教会という意識が根付かないのかもしれません。
その意味で、何十年も小さな郊外の町に生き、自分の教会を守り続けている人達の信仰は学ぶものがたくさんあります。
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2003年8月1日 11:02 AM
偏見には人種差別、性差別、職業差別、学歴、生まれ、出身地等、様々なものがありますが、どれも個人が持って生まれてきたものではなく、後天的に社会、共同体の中で培われ植え込まれています。つまり人間は生まれながらに偏見を持っているわけではなく、その人の育った環境、社会の中でそれらを知ってか知らずか身に付けてしまうわけです。
そもそも偏見とは?と考えますと、誰かにとって、その人(達)の利益を守ったり、エゴを満足させるに都合の良いものであり、その人達が大抵は世の支配者、為政者であるが為に、偏見を中間層にも浸透させ、弱者が犠牲になる、そういった構造を守るものと言えるのではないでしょうか。例えば白人がマジョリティーである社会では、白人の権利、優越性を固持(誇示)しようとする。その為、黒人やアジア人が差別される。これが奴隷制などとなるともっと非人道的でしたが、為政者、マジョリテイーにとっては偏見云々以前の問題にもならないことだったわけです。
日本の部落問題も江戸までの武家社会、それ以前の貴族社会、天皇制の中で形成された力の構造の中で意図的に形成されてきた差別偏見が中間層にそのまま広められ定着してしまい、階級性に翻弄され考えることをしネくなった人々がそれを愚かにも続けているものです。これは故住井すゑ氏の「橋のない川」を読んでいただいた方が良く分かると思いますので、ここまでにしておきます。(同名の映画は短い時間で全てを描こうとしていて、気持ちは分かるのですがあまり良くありません。)
そういった大きな社会構造的偏見ほどではなくても、偏見は人が属す小さな社会、例えば学校、会社、宗教団体等でも培われます。私は以前、何度か学歴の故にリベラルのレッテルを貼られたことがあります。お会いしてもいない方が私の教会員や知り合いに「あの人はDrew神学大学、Yale神学大学卒だからね。福音を伝えていないでしょう。」と言って、その教会員が動揺して「どうなんですか?」と尋ねてきたことがありました。まあ確かにこの牧師の雑記帳やサーキットを読まれれば保守福音派ではないといえばその通りですし、それをリベラルと言うのならそれもその通りです(苦笑)。しかし、キリスト教の中心である聖書の権威、教理を否定したことはありません。福音を語らない牧師は牧師ではないし、福音の無い教会など本来無いのです。福音とは神の人類救済であり、イエス・キリストの十字架による赦しと復活への希望ですから、それを語らないわけがない。十字架、復活、受胎告知、聖霊降臨、、、どれをも大切に思い説教しています。
しかしそれにしても人のことを偏見を持って見、レッテル付けする人が多い。それは何故かといえば、自分達が正しいと思っているからであり、自分達の利益を守る為に他者に排他的に接しているからです。これぞ自己義認の罪と言わずして何と言いましょう。何だか明治の弁士みたいな言い回しになりましたが、本当に人を理解するのはその人と直接会い、話し、或いはその人の書いたものを読みなどして、関係を築かなければできないのではないかと思います。
アメリカに来たばかりの頃の私は、勿論、それまで父の教会しか知らなかったこともあり、日本基督教団が日キと呼ばれていること、その意味合いが、福音派の方には「福音的でない。リベラル=悪い」というものであるということも知りませんでした。アメリカに来てそれまで出逢わなかった福音派の人達に出会い、私自身、逆差別、偏見を彼らの一部にではありますが、持つに至ってしまったことを悲しく思います。
差別偏見というスクリーンで人を見るのではなく、誰とでも一人の人として出会い、その人の美徳を学んだり、欠点はお互いに戒めあえる関係ができれば良いのですが…。
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12:43 AM
前項で裁きをテーマにした。キリスト者が他者を裁く時に用いる理由に最も多いのが「「聖書にこうこう書いてある。」だからいけない。」と言うもの。以前書いた同性愛についても「聖書に書いてある」から認められないと言う。同様に「離婚もいけない」と言う人が結構多い。それも聖書に書いてあるから。(マタイ19:5-12参照)
大分前にサーキット・ライダーに離婚について書いたことがある。それと重複するかもしれないが、再度書いておきたい。私はよくアメリカ人の教会員(特にご婦人方。どうも国籍、人種を問わず、一般的に女性の方がアメリカ人も日本人もこの手の話題が好きなようである)に「いつ結婚するの?」と尋ねられる。その時「まあ、そのうち。時が来たら。」と答え「私は一度結婚したことがあるから、そう焦っていない。」と付け加えたりもする。
私は神学生の時結婚し離婚した。離婚してからもう12年経つ。最近では本当に結婚していたのだろうか?と自分でも訝しがることがある。が、離婚するにあたっては実に色々な事があった。妻との諍いや、諸々の出来事、辛いこと悲しいことがあった。それを今更思い出してどうのこうの言う積もりはない。しかし決していい加減な気持ちで結婚し離婚したのではない。誰だって最初から離婚する積もりで結婚はしない。しかし生き方において、考え方において、また信仰や諸々において違いが生じてしまうこともある。どうしても駄目だと思うことも。離婚した人達は多かれ少なかれ傷つき、悲しみを経験している。まあ一部の芸能人のように5回も6回も結婚、離婚をしている人は良く分からないが。
離婚に至るには至るなりの事情がある。その痛みを知らないのに、或いは知ろうともしないで人を裁くキリスト者が多い。キリスト者に離婚の痛みも分からず裁かれるのは、信仰の無い人達の口から出る言葉よりも傷口が広げられる。何故ならキリスト者は「愛」「赦し」「いたわり」等を説いているから。牧師の中にも状況も理由も知らないのに裁く人がいるが、そのような人から愛の説教など聞けないと思ってしまう。また一般信徒の中には牧師は離婚してはいけないと思いこんでいる人がたくさんいる。どうしてもそうならざるを得ない理由があるなどとは考えもしない。そういう人達には、結婚を守り通そうとすると自分の信仰や信念、生き方を曲げたり捨てたりしなくてはならない状況もあり、その中で止むを得ず信仰を選び、離婚するという選択地があるということを訴える。しかしそれでも分かっていただけない場合の方が多い。
果たして教会の内外に見られる仮面夫婦、家庭内別居、離婚の方が、まだ本当に離婚をするより良いと言い切れるのだろうか?人と自分を欺くような生活の方がまだ離婚よりも良いと言えるのだろうか?間違って読んで欲しくないのだが、私は決して離婚を全面的に良いと言っているのではないし、勧めてもいない。40年も50年も夫婦生活を続けられたらどれほど幸せなことだろうと思っている。ただ人にはそれなりの理由があり、それを知らずして、離婚は罪だと裁いてはいけないと言いたい。
私は離婚をして始めて夫婦の愛の貴さが分かり、愛憎、人間関係に葛藤する者の痛みが少し分かった気がする。また結婚の意味も分かったような気がする。
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12:35 AM
「裁く」「裁かない」という主題を扱う時、どうしてもそこに「自分もこの題材を扱うことによって、人を裁いている」という思いに駆られる。人を裁く人を裁く自分が存在するという矛盾があり、そのことによって自分も裁きの場に引き出される。マタイ7:1-2でイエスは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」と言っている。と言うことで、このコラムを書いている私自身も多くの方に裁かれることを覚悟して臨まねばならない。
それにしてもキリスト者は他者を裁くのが好きなようだ。「キリストの体である教会がどうして?」と目を見張りたくなるほど年中誰かを批判しているような気がする。敢えて言うなら牧師をだろうか、、、。アメリカに来てから20数年、これまでに教会分裂を少なくとも3度は体験した。しかも2度は自分もその渦中にいた。一度目は牧師への批判を親しい人達がしているのを見ていた。心が傷んだ。2度目は自分が神学生として関わっていた教会で、牧師及び教会の役員会に対して糾弾する側に立った。牧師に傷つけられた一部信徒と共に牧師を批判して真っ向から立ち上がった。今振り返ると、どちらが悪いとか言う問題ではなく、騒ぐだけ騒いで教会を出たことを申し訳なく思っている。3度目は今の教会に来る前、今度は自分が牧師として批判の矢面に立った。
批判イコール裁きとは限らない。建設的な批判もある。しかしそこに感情が入ると建設的批判=相手の為、自分の為、から一方的な裁きになり易い。裁きになると、ひたすら相手が悪い、自分は正しいという論点だけになり、向上する為に話し合ったり、お互いに良かれと思ったり、そこから何かを導き出すという肯定的な姿勢はなくなり、否定的に流れる。もうこうなると泥沼。自分も他者も傷つき、和解もできない状態になることもしばしば。色々経験した今は、「批判をしたり騒いだりするなら責任を最後まで取れ!」「騒ぐだけ騒いで教会を出るようなことをするな!」「出て行くのなら最初から黙って出て行け!」と自分にも他者にも言い聞かせるようにしている。
それにしても人は何故他者を裁くのか?そこには当然だが「自分が正しい」「自分の考え、思いのみが唯一無二である」という確信、と言うより盲信がある。何故、そのような盲信になるのか、どのような人が盲信を持つのかと問うと、勿論、理由は千差万別でステレオ・タイプ的な発言はしてはいけないが、ここでも敢えて言うなら正しい生き方をしていると思っている人達、或いは自称「善人」に多く、キリスト者も例外ではない。と言うより教会で生きてきた自分にとってキリスト者により多くの裁き人を見出す。
キリスト教やイスラム教、新興宗教など宣教を教理としている宗教は伝道普及に力を入れなければならない。当然、自分達の信じている神が他宗教の神々よりも強く正しくなくてはならない。教えも然り。そうでなければ「何でキリスト教を信じる必要性がある?」ということになる。ユダヤ教は同じヤーウエの神を信じているが民族主義的色彩、選民思想が根強く、ユダヤ人である=選ばれし(救われし)民であるから宣教をする必要が無かった。今は多少違うようで、彼らも伝道活動をしなければどんどん世俗化していき、宗教性を失うという不安もあるようだが。一方、キリスト教もイスラム教も世界宗教となれる要素を持っている。「誰でも信じる者は皆救われる、天国に行ける。」といったように。言わば一民族だけで良いという立場から、他民族もOKということになったが、その分、何か「売り」をより鮮明に出さなければ競争に負けるという立場になってしまった。
歴史の中で教会はユダヤ教の選民に代わる「売り」を「キリストによる救い」→「救いはキリストのみ」としてキリスト教の優位を保とうとした。個人レベルでもその「キリストの救いに預かる特権」を自分達だけの特権として他者を裁くことに用いる過ちを犯す人が未だに出続けている。本来、キリストの救いは罪を悔い改めた者、謙虚な者、信ずる者には誰にでも与えられるのであるが、それを何やら特権階級と錯覚してしまうらしい。
イエスを信じた者は「他者を裁いて良い」とはイエスは言っていない。「福音を宣べ伝えよ。聖霊の名によって洗礼を授けよ。弟子にせよ。」(マタイ28:19、マルコ1:15、他)とは言っているが。私はここ数年、いかにして他者や他宗教を裁かずにキリストを宣べ伝えるか熟考している。そこで今までのところ出た結論。神がどれほど自分を愛し恵んでくださったかを証することのみに心がける。では何故キリスト教なのかと問われたら、迷わずヨハネ13章の弟子の足を洗ったイエスの姿と十字架の上から赦しの言葉を挙げる。
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2003年7月17日 4:03 PM
明治の頃より日本は西洋の技術を輸入し、西洋諸国の経済に「追いつけ追い越せ」をスローガンに今日まで来ました。戦前は力で列強国に名を連ね、戦後は経済で一時期は世界の経済大国になりました。戦前の軍事独裁政権によるアジアへの侵略は全く誤ったものであり悔い改めなければなりませんでしたが、戦後の復興期における会社員、工場労働者達の努力は賞賛に値し、見習わなければならないと思います。
経済的、物質的に発達、発展した一方、文化、芸術も様々な展開が見られ、質の高いものになりました。しかし同時に更なる偏見、偏向も生み出したように思います。それは私が度々指摘している宗教に対する偏見と切り離せません。例えば西洋絵画は明治以降、日本でも主流になり、油絵の技法や西洋美術の歴史が学ばれています。しかし欧米の中心であったキリスト教の教義、伝統的解釈が日本でも、ここアメリカでさえも余り理解されていません。信仰抜きにキリスト教美術の作品を見て、その技法、表現を解説する専門家も多く、時折「あれ?何でそういう解釈をするの?」と訝しく思います。
音楽も同様。信仰の無い人が芸術性だけを求めてバッハやヘンデルのオルガン音楽やコーラスを演奏していると不思議に思います。なるほど演奏の技術は世界最高の水準にあるし、鑑賞しているとその芸術性の高さに驚かされ感動します。しかし一方ではどこかに空しさも感じます。キリストを信じてもいない人々が「ハレルヤ」と讃美していることに。復活を信じていない人が受難曲を演奏することに。
最近の流行でも同じことが言えます。一時期よりは下火になりましたがゴスペルが日本でもてはやされています。ゴスペルの意味は元々、キリスト教の「良き訪れ」「福音」英語だと“Good News”です。それは「神の子キリストがこの世に来られて信じる者を罪から救ってくださる。」という知らせです。アメリカの黒人達がそれを歌う時に、彼らは心から「救われたこと」を喜び、神を讃美します。また奴隷時代の悲しみ、苦しみからの解放を喜び、神に感謝します。その叫びの声が黒人のゴスペルであり、信仰無しには考えられないものです。それを形ばかり真似して、上手に歌えたからと言って、それが何になるのでしょう?英語で言うなら“So What?”です。
美術でも音楽でも、もっともっとそのハート(心)を掴んで欲しいと思います。その為にはつまらない偏見を捨てて、信仰や教えそのものに目を向けるべきであり、それを心から願わずにはおれません。
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4:01 PM
キリスト教の牧師をしていると無神論者や他宗教の人々の多くの誤解と偏見に出会います。例えば日本でもアメリカでも公立学校では宗教関係の催し物やカリキュラムは一切組まないという「お断り」があります。私立であれば本来はその創立者の教育理念、その時の指導者の裁量で宗教的行事やプログラムをしてもはばからないと思うのですが、その私立でさえ、ほとんど宗教の知識も理解もない、何が悪いのか良いのかも知らない大多数の意見、傾向にしたがって宗教的なものとは関わらないという姿勢をとっているところが増えているのは何とも哀れというか嘆かわしい限りです。
アメリカでは今でも70%以上(場合によっては80%以上)がキリスト教徒とされています。その他ユダヤ教、イスラム教、諸宗教を併せると実に90%以上が何らかの宗教を信じていることになります。勿論、歴史や、伝統、文化もユダヤ教、キリスト教を軸にこれまで形成されてきていますので、宗教抜きにはアメリカは語れません。例えば、1620年に一般人初の移民としてメイフラワー号でアメリカにやってきた人たちは清教徒というキリスト教の信徒達であり、「約束の国=キリスト教信徒の為の新天地」を求めてこの国に来ました。また独立戦争の独立宣言もキリスト教精神によって作られています。アメリカの名門大学と言われるアイビー・リーグの学校の多くがキリスト教の学校として社会にキリスト教精神を持ったリーダーを送り出す為に創立されました。ハーバード、エール、ブラウン、コロンビア、プリンストン等、キリスト教の教団と深く関わっています。例えばハーバード、エールは組合派、ブラウンはバプテスト、コロンビアは聖公会(英国国教会)と言った具合に。それらの大学では聖書、ラテン語、ギリシャ語等が必須だった時期もありますが、今は完全にセキュラー(世俗的)になってしまいました。
日本ではどうでしょう。公立では宗教団体と関わったり宗教的プログラムはしないとされています。が、例えば修学旅行で京都、奈良などへ行く場合はどうでしょうか。最近はお金のある学校が増え、京都、奈良あたりには行かなくなったかも知れませんが、私の若い頃は関東の学校にはお決まりのコースでした。そういった修学旅行で歴史的な建物、遺産ということで見て回るのなら良く、教えを学んでは駄目と厳密に分けているのでしょうか?逆に、その教えや由来を知らずして、本当に歴史や文化を学べると言えるのでしょうか?
私がキャンプや補習校で関わった教え子達の多くが帰国後、上智大学、国際基督教大学、同志社大学、関西学院大学、立教大学などのキリスト教を母体とした大学に行っています。彼らの中には、こちらで知ったキリスト教を確り受け止め、そういった学校に進んだ子たちもいますが、大半は帰国子女受け入れ校であることと名門ということだけで選んだようです。彼らの親の大半も同様。もっと子供達がどういう学校で学んでいるかを知り、キリスト教に対する理解を深めても良いと思うのですが、、、。
アメリカに住む日本人も、アメリカにいながらその歴史や文化を知らず、今日の物流で繁栄したアメリカしか知らないようでは、本当のアメリカに触れたとは言えませんし、何とも浅い生活をしていることになると私は思うのですが。まあ「それでも良い」と言う方たちには「何をかいわんや」で、そこまでの関わりしかできません。非常に残念ではありますが、、、。
それでも伝道、教育に関わっていかなければならないのですが、時折、「もっと深くキリスト教を、その影響下にある欧米文化を理解して下さい!」と叫びたくなります。
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4:00 PM
このところ日本から伝わってくるニュースは青少年の極悪犯罪ばかりです。長崎で12歳の少年が4歳の児童を殺害したニュースや沖縄で14歳の少年が同年代の仲間に殺害され遺体が1ヶ月近くも隠されていた事件、他にも少年犯罪の著しい増加には愁うるものがあります。多くの評論家や心理学者、犯罪心理の専門家が様々なコメントをしており、そのどれもがある意味では正しいので、私がことさら事件に対してコメントを書くこともないと思います。しかしこれらの問題を見聞するにつけ、何か大切なものを忘れてきてしまった社会に問わずにはおれなくなります。その何かとは数字とか形に見えるものではない物「思いやり」とか「触れ合い」とか自己主張ではなく「他者を敬う心、姿勢」、つまり愛であり優しい心です。今更ながら「心の教育」の大切さを実感しています。
初めてニューヨーク日米合同教会のサマーキャンプに参加したのが1981年。もう22年も前の話です。そのキャンプで受けた恵みが私の人生を変えました。私はキャンプという触れ合いの場の中で鮮烈な思いに打たれ教育を志しました。それ以来、ずっと数字や目に見える物ではなく成績で評価できない教育、心の教育を考え目指してきました。牧師になった今もその思いは変わりません。昨年(2002年)から教育学博士課程に籍を置いていますが、大学院に学ぶ現在もその思いを新たにしています。
私がキャンプで学んだものは子供や大人という年齢に関係なく「他者と交わることの大切さ」と「キリスト教の愛を教えることの大切さ」です。近頃の傾向として、学校でも塾でも、近所でも同じ歳の子とばかり関わりあうことが多いように思います。或いはコンピューター・ゲーム、インターネットの発達で全く他者と交わらない青少年も増加しています。家庭にあっても核家族化が進み、特に都会では祖父母や自分の親以外の大人との交わりが無い家族が多くなっています。私は力による先輩後輩の関係が必ずしも良いとは思いませんが、歳の違う子達が交わり、上の子は下の子をいたわり、下の子は上の子を敬い頼るという関係が無くなりつつあるように見えます。
小3から中3男女が参加したキャンプでは横の関係だけでなく上下の関係も様々な展開が見られ、共に何週間か過ごした子供たちは、大学生や大人のカウンセラーやディレクターも含め大きな家族のような関係になりました。22年経った今でも私は合同メソジスト教会のキャンプ運営委員をしたり、YMCAのキャンプに関わったりしていますが、それは忘れられつつある本当の教育=心の教育がそこにあると確信しているからです。
今日の青少年の問題も、一部の先天的精神病或いは知的発達障害の子供たちを除き、この年齢を超えた交わりや分かち合いの中に解決の糸口があるのではないかと思うのですが、皆さんはどうお考えでしょうか。
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2003年7月3日 4:33 PM
先週6月26日に、最高裁でその週二つ目の大きな裁定が下りました。(一つ目は、その1に書きました。)それはテキサス、オクラホマ、カンサス、ミシシッピーの4州で今でも残っているSodomy Law(本来は同性間、人獣間、または変質的異性間の性関係を禁ずる法律だが、現行では同性間の性行為に適応された法律で、聖書の神の裁きを受けたソドムとゴモラの町のSodomと同語源)が基本的人権を侵害する悪法であるというものです。この裁定は1986年にテキサス州、ヒューストンで警察にSodomy Law違反で捕まったゲイのカップルがそのまま最高裁でも罪とされたことに対し、その不当性を主張し控訴し、今年まで法廷で争い続け、それが実を結んだものでした。このゲイのカップルは彼らがが彼らのアパートで性行為をしている最中に、隣人の通報(しかも虚偽)で警察に捕まり罪に定められたケースです。86年当時には罪となりましたが、今回は一転、無罪。ゲイの基本的人権を守る裁定となりました。
翌日の新聞の一面にこの記事が掲載されていましたが、裁定の論点は、彼らが成人であること、彼らの一個人としての人権は守られるべきであること、でした。ですから誤解の無いように書いておきますが、これは決して未成年への性行為強要だとか、買春だとか、明らかに違法である行為、或いは無責任に相手をとっかえひっかえするような快楽至上主義的性行為を容認したものではありません。あくまで大人である二人の男性同士(或いは女性同士)が双方の任意(合意)で性的関係を持った場合ということです。
以前にも書きましたが、ただ同性愛者だというだけで白い目でみられるどころか、お互いにパートナーとして愛し、信じあい、結婚に相当する関係になっていてもSodomy Lawは罪と裁いてしまいました。この法律は上述の説明にありますように、旧約聖書、創世記13、18、19章に記してあります、神に滅ぼされた「淫らで腐敗したソドムの町」から来ていますが、聖書が同性愛や淫行、貪欲を裁いていることをそのまま裁定に使っているわけです。
今日、同性愛者が必ずしも不埒な或いは無責任な快楽主義から生まれたのではなく、彼らの多くが生まれつきであったり、様々な理由からそうなり、それ故に世間から人権を認められず苦しんでいる状況があるということを、心ある人達は知っています。ですから、ただ聖書に書いているからと言って、彼らの人権、真剣な思いを認めないことこそ裁かれるべきではないかと私は思います。その意味で今回の最高裁の裁定は大きな前進と言えます。
この裁定のお陰か、つい一昨日(7月1日)アメリカ最大のスーパーストアーのウォル・マートがゲイの人達に対する差別をなくすべく新しい社内規則を設けたとニュースで聞きました。同性同士でも本当に誓いを立て、パートナーとして共に生きていくのであれば、私は大いに祝福したいと思います。残念ながら、合同メソジスト教会では同性愛者の結婚は認められておらず、牧師達も同性愛者の結婚式の司式することは禁じられていますが…。
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2003年7月2日 1:15 AM
先週、アメリカの最高裁で下した裁定のうち2つが大きくクローズアップされました。一つは高等教育機関(主に大学、大学院)でのマイノリティー(少数民族)優遇政策(Affirmative Action)の継続、もう一つはテキサス州など一部の州法で同性愛者が共に住み、夫婦あるいはカップルとして暮らすことを、不道徳、違法として取り締まる規制の廃棄です。後者はその2で触れることにして、ここではマイノリティー優遇政策について考えてみたいと思います。
日本以上に貧富の格差があるアメリカでは教育にも当然貧富の差が反映されます。2003年現在でもアフリカ系、ラテン系、アジア系、ヨーロッパ系で職種や学歴に開きがあり、やはり白人が裕福な階層をしめる率が圧倒的に高く、アジア系が学歴では頑張っていますが、アジア系の人々が会社や諸機関で取締役や高い役職につくことはまだまだ少ないようです。因みに私が卒業した大学、神学校、現在通っている大学院(FIT、Pratt, Drew, Yale, Columbia)などを比較してもアイビー・リーグでは人種差別を無くそうとはしていますが、結果的に白人が圧倒的に多く、アジア系の学生が20~30%、アフリカ系、ラテン系は10%未満で注意して見ないと気付かない時さえあります。
こういった差別社会の中で貧しい階層や中産階級でも下の方の人達が日本のように教育費をふんだんにかけて子供を有名大学に送るのは至難の業と言えます。ですから学校によってははっきりと、白人、何パーセント、マイノリティー(アフリカ系、ラテン系、アジア系)の学生何パーセントを毎年入れるとうたっているところがあります。ミシガン大学などはその代表です。この制度ですとマイノリティーの学生が受験してきた時、白人の学生と比べ、例えばSAT(大学受験学力テスト)やGRE(大学院受験学力テスト)の点がやや低くても入れる可能性が高くなります。
ブッシュ大統領がこの制度に対しクレームを付け、今回の最高裁での裁定になったわけですが、そのクレームとは、大学にトップで合格する学生は問題ないが、合格圏すれすれで同じ点数を取った白人学生と黒人学生がいたら、マイノリティーの枠がまだ空いていれば黒人学生が合格し、白人は落ちてしまう。これは逆差別になる。といったものです。この主張は以前から白人内にはありました。確かに一見正論のようにも聞こえます。しかし私はやはりマジョリティー(多数派)のマイノリティーに対する無理解と本当に実力が無い者の言い訳のように思えてなりません。
白人で不合格だった人が「黒人やアジア系の学生が自分よりも学力が無いのに入って不公平だ」と言うこと自体、何と情け無いことだと本人が思わないのでしょうか?そんなことを言わないでも入れるだけの実力、学力を身に付け、周りに有無を言わさないようでなければならないと思うのですが、、、。有名校に入りたいという思いだけで、人格的なことが取り沙汰されない結果、こういう了見の狭い人間(親も?)を作り出してしまうのはアメリカも日本も同じようです。
そして何よりも財政的に恵まれないマイノリティーの学生が、少々、学力テストの点数が低かったとしても、一応、そこの大学を受験するだけの実力があるから、受験しているということへの評価をもっとすべきでしょう。日本と違い(同じ?)アメリカでは受験前にSATの点数、学校の成績などで、受験する学校が絞られてしまいます。例えばアイビーリーグだとSAT1300点が目安で、それに満たない点数をとった学生は最初から受験を諦めざるを得ないようになっています。その意味では共通一次テストと同じかもしれません。
ですから白人であれ、黒人であれある大学を受験してきたとしたら、SATなどは基準を満たしているわけです。その中で10点や20点の違い、あるいは50点違ったとしても、それが何だと言うのか。また、黒人など恵まれない環境で育ってきた学生が、有名校を受験してきたとしたら、そこには金持ちで教育環境も恵まれた学生とは比べ物にならないほど努力してきたと言えます。私も留学生としてアメリカに来ましたから、分かりますが、ハンディ(私の場合は言葉、マイノリティーの学生の場合、それまでの教育環境の不備など)があるほど努力しなくてはなりません。私はいつもこう思って努力しました。私のBはアメリカ人のB+、私のB+は彼らのA-、私のA-は彼らのAに匹敵すると。では、AとかA+はと考えると限がありませんね。あくまで一つの考え方です。
貧しい環境で育ったアフリカ系の学生が有名校を受験してきたとしたら、それだけでも合格するに足ると私は思います。彼らがSATで1250点取ったら、それは白人の1300点に等しいと思えます。これらの理由、状況を考えれば、5対4の僅差だったとはいえ「マイノリティー優遇措置が違法にならない」として守られたことは実に価値があると言えます。いつの日か、そのような措置が本当に要らなくなる時代が来るとは思いますが、今はまだ時期尚早、まだまだ社会を改善してかなければならないところにいます。
私の所属している、米国合同メソジスト教団のニュージャージー教区でも、現在のビショップ(監督官)になってから、マイノリティーの登用が目立ちます。ビショップがアフリカ系といこともあり、上述の優遇措置を取り入れているかのように見えます。彼の下に9人のスーパーインテンデント(補佐官みたいなものでしょうか)が彼の任命でいますが、白人男性が2名であとは、白人女性、黒人女性、ヒスパニック系、韓国人と様々です。私自身は日本人ということでマイノリティーに属すので、それほど感じませんでしたが、長年牧師をしてきた白人男性達の中には、出世が閉ざされたような感じがするようで、今のビショップが就任してから2~3年、結構あちこちで不平を言っているのを耳にしました。なにしろスーパーインテンデントや役職につくと年収が倍近くになります。聖職の道も金次第ではありませんが、まあ牧師も普通の人間、多少は楽な生活がしたいと思っても仕方ないのでしょう。
確かに役についている人の全部が実力者かというと疑問もありますが、一人一人の牧師は自分の信仰をもっと強め、牧師としての奉仕を全うすることに勤めることの方が大切だと思うのは私だけではないと思います。教会のような世俗とは関係なくあるべき所でもまだまだ人種や階級の隔て、偏見が残っており、これらを一掃していかなければ、真の開かれた教会にはなれないと私は思います。まだまだ長い道のりです。
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2003年6月24日 12:03 PM
既にご存知の方も多いかと思いますが、昨日のニューヨーク・タイムズの国際ニュースにイギリス国教会で新たにビショップになった同性愛者の神父の記事が載っていました。先週私が合同メソジスト教団、ニュージャージー教区の年次総会に出席している最中にも友人の牧師達や信徒代表の間でこのことが話題になっていました。私は正直「イギリス国教会は進んでいるな~。」と思う半面、合同メソジスト教団はまだまだ開かれた教会になっていないと思いました。
これをお読みの皆さんの中にはまだまだ同性愛者に対する反感や、同性愛者が牧師や教会指導者になることに反対される方もいられると思いますが、私は同性愛の方がちゃんと自分は同性愛者であると表明して、牧師になったりビショップに選出されることに何の異存もありません。そのことで彼らを裁きませんし、裁けません。何故なら、私は彼らの苦悩を見てきましたから。
私の学校の恩師の娘さんが同性愛者でそのことで本人も家族も悩んだことを恩師から聞きました。幼い頃から、男の子に興味が持てず、思春期になっても、周りの女の子達が男の子や、男性芸能人の話で夢中になっても、どうしても男性に恋愛感情が持てないことに本人がどれほど悩んだか、また親である教授がどれほどそれを見ていて何もできず辛い思いをしたかを聞きました。
他の恩師で夫の暴力に苦しみ、男性不信になり、同性愛者となった方もいます。また生まれながらの同性愛者である男女の友人が何人もおり、「どうしても異性を愛せない」という現実もあることも知りました。一部の快楽に溺れて混乱混交の性を求める人は別にして、多くの同性愛者が生まれつきであり、それ故に悩んでいる。それを聖書に「男色はいけない」と書いてあるからと言って、同性愛は罪だと断罪する権利が、一般キリスト者にあるでしょうか?私は無いと言い切ります。
合同メソジスト教団の中にも同性愛者の牧師が何人もいますが、その中の殆どが教会法規、聖書主義による裁きを恐れ、名乗りを上げていません。正式に表明しているのはごく一部です。
私は快楽至上主義的、性の混同は良しとしませんが、生まれつき同性しか愛せない人たちもいることをもっと認識すべきであり、そういう人たちの人権を奪ってはいけないと考えます。教会はどのような立場の人をも受け入れる開かれた教会であるべきと信じていますが、皆さんはどうお考えでしょうか。
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