またまた俗っぽい話題ですが…
2004年1月15日TV-Japan(NHK)の「にんげんドキュメント」で連敗を続ける競走馬ハルウララの特集をやった。高知競馬で101回出場(2004年1月現在)していまだ勝った(1位とか2位になった)ことが無い馬が何故か人気を集めていると言う。にんげんドキュメントのはずだが馬が主役。勿論、馬だけではノンフィクションにならないので、その飼い主やその馬のレースに励まされたという人々が登場して、彼らの身の上を語っていた。闘病生活をする女性、いきなり転勤命令が下り単身赴任した男性をはじめ多くの人が、負けても負けてもひたむきに走るハルウララの姿に自分を重ね合わせて見ては、エールを送っていた。
また大相撲では高見盛という関取が昨年から人気ナンバーワンになっているらしい。彼のこれまでの最高位は小結で、まだ関脇にはなっていないと思うが、彼の土俵入りの際の、気合を入れる様、大きな力士が多い中、決して大柄とはいえないが頑張って、勝つと満面の笑みで喜び、負けるとシュンとするその素直なというか、真面目な相撲が人気の理由らしい。高見盛は元学生横綱であり、アマチュア横綱だったので、これから出世して大関、横綱になる可能性もあるのでハルウララと並べては失礼かもしれないが、この二人(一人と一頭)の人気、それにあえて加えるならスマップの「世界に一つの花」は世相を反映しているような気がする。世界に・・・とハルウララ、高見盛が共有する物は、たとえ一番でなくてもたった一つであることが大切、ということ。
かつて多くの日本人はアメリカに追いつけ追い越せとばかりに、競争社会の中で良い学校に入り良い会社に入ることを目指した。競争で負けないで一番になることを良しとし、人生を競争社会の理念=勝ち負けで見ていた。一方、落ちこぼれ(懐かしい言葉である)や落伍者、或いは窓際族などという言葉で一位や上位に入れない人たちをレッテル付けし見下していた。
それがバブルがはじけ、実体の無かった経済が破綻し、絶対的な保障や安定など無いと気付き、価値観の見直しが少しずつ始まり、ようやく色々な見方、負け続けても価値がある、つまり人の価値、馬の価値?、物の価値はエリートだけのものではないということに気付いた。
故遠藤周作の作品には、この落ちこぼれ的存在が主人公、或いは貴重な脇役として描かれている。彼はキリスト教の救いをテーマにし作品を描く中で、強い信仰者で迫害を受けても屈せず殉教していった人々の傍ら、迫害、死の恐怖に背教してしまったが、それでも神を信じたいと、どこかで願うがそれすら表明できない存在を描いている。実は歴史の中ではそのような存在の方が大多数であり、そのような人々によってキリスト教は守られてきた面がある。
皆が人間的な或いは俗的な意味で特別な存在なのではない。ごく普通の人が大多数である。しかし神の目には一人一人が尊い。たとえエリートでなくても、試合に負け続けていても、その人はその人であるだけで尊い。イエスは2000年前のイスラエルで人々から見放された罪人、汚れていると厭われた病人、異邦人などを一人の尊い人として見て、彼らに救いを与えた。
ハルウララや高見盛を応援する人、あるいは「世界に・・・」を聴いている人を見ていると、今の時代、もっともっと多くの人が、本当の意味で自分に自信を持ち(妙なプライドを持って威張るという意味ではない)、自分を愛することができるようなれるのではないかと思う。更に自分を愛するということは、実存主義哲学者ボーボワール流に言えば独りよがりではなく、皆が自分と同じように「自分自身を愛しているのだ」と悟ることであり、それ故他者を自分と同じように大切にするということである。
「たとえ目立たない存在でも神の目には尊い。」と思えれば何と幸せであろう。