離婚

 前項で裁きをテーマにした。キリスト者が他者を裁く時に用いる理由に最も多いのが「「聖書にこうこう書いてある。」だからいけない。」と言うもの。以前書いた同性愛についても「聖書に書いてある」から認められないと言う。同様に「離婚もいけない」と言う人が結構多い。それも聖書に書いてあるから。(マタイ19:5-12参照)

 大分前にサーキット・ライダーに離婚について書いたことがある。それと重複するかもしれないが、再度書いておきたい。私はよくアメリカ人の教会員(特にご婦人方。どうも国籍、人種を問わず、一般的に女性の方がアメリカ人も日本人もこの手の話題が好きなようである)に「いつ結婚するの?」と尋ねられる。その時「まあ、そのうち。時が来たら。」と答え「私は一度結婚したことがあるから、そう焦っていない。」と付け加えたりもする。

 私は神学生の時結婚し離婚した。離婚してからもう12年経つ。最近では本当に結婚していたのだろうか?と自分でも訝しがることがある。が、離婚するにあたっては実に色々な事があった。妻との諍いや、諸々の出来事、辛いこと悲しいことがあった。それを今更思い出してどうのこうの言う積もりはない。しかし決していい加減な気持ちで結婚し離婚したのではない。誰だって最初から離婚する積もりで結婚はしない。しかし生き方において、考え方において、また信仰や諸々において違いが生じてしまうこともある。どうしても駄目だと思うことも。離婚した人達は多かれ少なかれ傷つき、悲しみを経験している。まあ一部の芸能人のように5回も6回も結婚、離婚をしている人は良く分からないが。

 離婚に至るには至るなりの事情がある。その痛みを知らないのに、或いは知ろうともしないで人を裁くキリスト者が多い。キリスト者に離婚の痛みも分からず裁かれるのは、信仰の無い人達の口から出る言葉よりも傷口が広げられる。何故ならキリスト者は「愛」「赦し」「いたわり」等を説いているから。牧師の中にも状況も理由も知らないのに裁く人がいるが、そのような人から愛の説教など聞けないと思ってしまう。また一般信徒の中には牧師は離婚してはいけないと思いこんでいる人がたくさんいる。どうしてもそうならざるを得ない理由があるなどとは考えもしない。そういう人達には、結婚を守り通そうとすると自分の信仰や信念、生き方を曲げたり捨てたりしなくてはならない状況もあり、その中で止むを得ず信仰を選び、離婚するという選択地があるということを訴える。しかしそれでも分かっていただけない場合の方が多い。

 果たして教会の内外に見られる仮面夫婦、家庭内別居、離婚の方が、まだ本当に離婚をするより良いと言い切れるのだろうか?人と自分を欺くような生活の方がまだ離婚よりも良いと言えるのだろうか?間違って読んで欲しくないのだが、私は決して離婚を全面的に良いと言っているのではないし、勧めてもいない。40年も50年も夫婦生活を続けられたらどれほど幸せなことだろうと思っている。ただ人にはそれなりの理由があり、それを知らずして、離婚は罪だと裁いてはいけないと言いたい。

 私は離婚をして始めて夫婦の愛の貴さが分かり、愛憎、人間関係に葛藤する者の痛みが少し分かった気がする。また結婚の意味も分かったような気がする。

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