Archive: 2006年2月

後継者問題

2006年2月12日

 時々(正しくは頻繁に)日本から入ってくるニュースに呆れてしまいます。皇族の後継者問題もその一つです。男系だけにするか女系も後継として認めるかが今行われている通常国会の重要議題の一つだったはず・・・が、紀子さんが妊娠した途端「生まれてくる赤ちゃんが男か女か見極めてからでも遅くない。男だったらこれまでの規定を変える必要がないから。」となって国会で話し合うのが見送に(先送り)なった。「どうして?」と首を傾げてしまいます。

 さて、この問題を考える前に、私の立場を明確にしておきます。私はそもそもこれまでも何回か発言してきましたが天皇制そのものの必要性を疑問視しています。それは天皇という前近代的支配者(今は国民の象徴だそうだが)が存在することにより階級が生まれ、歴史の中で多くの民が犠牲になってきたという事実があるからです。今日でもその犠牲者の中でも最も辛酸をなめた人々の末裔が被差別部落民として目に見えない差別を受け続けています。住井すゑ氏の小説「橋のない川」は実にそのへんの事情を明快に書いているので、是非読んで下さい。

 また明治以降、天皇を現人神(あらひとがみ)と称し「アジアの諸国を皆皇国の民にせん」と日本軍国主義による侵略、略奪、殺戮が行われた事実があります。天皇の名の下に多くの命が奪われました。中国や韓国の民だけでなく、「人生これから・・・」という若者が何十万人も犠牲になった。その兵士たちが祭られているのが靖国神社ですが、天皇の名の下に侵略を指揮した確信犯、A級戦犯と呼ばれる軍人指導者達も祭られています。ですから靖国神社への総理大臣の参拝に韓国や中国など侵略された国々が過敏に反応するのも当然のことです。さらにキリスト教をはじめ、多くの宗教団体が「現人神天皇が最高神であるから、その下に従属しなければならない」と弾圧を受けました。弾圧に屈しないキリスト者、牧師は投獄され拷問を受けました。それによって命を失った信仰者もいます。三浦綾子氏の小説やエッセイ、本多勝一氏の本などを是非読んで下さい。このへんの事情が良く分かります。

 また最近でこそ韓国ブームが起こり、韓国人、朝鮮民族への見方が変わりましたが、戦争中、労働力として強制的に連れてこられて、戦後も祖国へ戻れずに永住した韓国人たちは多年に渡り不当な差別を受けてきました。これもみな天皇制の副産物です。

 とまあ私の立場を明確にした上で、敢えて男系、女系の問題を語ると、これまで歴史上、男性に代わって女性の天皇が政を司った事が幾度もありました、特に初めの頃の女帝は力があったようです。歴史上10人の女帝が輩出しましたが、最後の女帝、後桜町帝(1762-1770、江戸時代下半期)以降女帝が出ていません。これは取り分け明治政府が天皇を現人神とし、男系に固執したからといえますが、21世紀の現在でも、男社会の構造そのままに、天皇も男系後継者のみ、とするのはあまりにも男尊女卑、差別社会肯定にほかなりません。どうして女性天皇ではいけないのか? イギリスの例を見ても、決して女王は王にひけを取っていません。男女の別なく第一子が後を継げば何も問題がないではありませんか? それでも「男が良い」と言うのは儒教思想、男性社会=(肉体的)力社会の愚劣な嗜好(思考)としか形容のしようがありあません。

 これでは本当の男女平等、機会均等法、DVの撲滅など先の先でしょう。私は全く理解できません。 ま、日本だけでなくアメリカもまだ女性の大統領は出ていませんが・・・。

よくある質問に答えます。その2

2006年2月10日

 たまに「あの人はクリスチャンで信仰があるし真面目なのになんであんなことになってしまったんでしょう?」という類のコメントを聞きます。その方が難病にかかってしまったり、事故にあって本人、或いは家族が命を落としたりというような不幸があった時、周りの人達、友人、知人からでた言葉です。

 これはキリスト教(及び仏教、イスラム教などを含めた諸々の宗教)を御利益宗教と同一視しているところから来る誤解、謬見です。キリストを信じれば災いを防げる、仏陀を信じれば厄から逃れられるというのは「そうあって欲しい」という願望を利用した新興宗教や安っぽい御利益宗教の商売。

 では何故キリストを信じるか? 本来神と共にあるべき人間ですが、自己中心の罪に陥り、神から離れている。その状態を罪と呼びます。その罪をキリストの深い愛の故に神が許して下さる。だから信じる。と言うのが神学的な理由ですが、もっと直接的に言うと、信仰のある人は、たとえ何があってもそばにいてくれる方がいる、共に泣いてくれる方がいる、辛さ、痛みを知り、共に耐えてくれる方がいる、また喜びを分かち合って下さる方がいる・・・そう「自分は一人でヘない」ということを確信する。また「やがては神と共に住む、つまり御国(天国)に行く。」という終末思想もあります。

 が、いずれにしても信仰とは生きている者の為であり、どのように生きるかを問うものです。人として成長していく上で、自分と神と向き合うのが信仰であり厄除けではありません。

よくある質問に答えます。その1

2006年2月5日

 この書き込みの一つ前に高校時代のクラブが愛好会となり、今でもその頃の仲間と交流があることを書きましたが、最近その愛好会の掲示板で宗教談義になりました。音楽愛好会、飲み会の掲示板という性格上、深く書き込めなかったので、この場で、その時の会話、疑問にお答えしたいと思います。

 どういう趣旨の疑問であったかというと、一人の先輩が「キリストは『礼拝に行け』なんて言っていない。」「『日曜日に礼拝しろ』とは言っていない。」と主張したことと「処女降誕は信じられない」というものでした。新約聖書だけ、更には福音書と呼ばれるイエスの物語の所だけを読んでいるとこう言った誤解、誤読も生じるのかな、と思いました。確かにイエスが「教会に行きなさい。」とか「礼拝を守りなさい。」という直接的表現はありません。でも、それは表面的な読み方で、ある程度の年月教会で礼拝を守っているクリスチャン、聖書の学びをしている信徒だったら即答できる初歩的な質問と言えます。

 聖書の世界をご存じない皆さんは、まず「イエスの時代のイスラエルは今日の中東の国々がイスラム教を厳格に守っているのと同様、戒律を守っていた」と理解して下さい。旧約聖書の出エジプト記20章と申命記5章に「十戒」というユダヤ教の根本となる戒めが書かれています。その第4戒に「安息日を守ってこれを聖別せよ。」というものがあります。これには更にもう少し細かい規制が続きますが、どういう戒めかと言うと、第七日(ユダヤ人には土曜日、クリスチャンには日曜日、イスラム教徒には金曜日)を聖日として、「その日は神の日であるから、いかなる仕事もせず礼拝しなさい。」というものです。現在でも真面目なユダヤ教徒は土曜日に礼拝を守っていますし、イスラム教徒は金曜日、クリスチャンは日曜日に礼拝をしています。

 イエスの時代、安息日(聖日)に礼拝をするのは当然の義務であり、大前提でしたので、敢えて「礼拝を守りなさい。」と言う必要も無かった。言えば「あいつ、何を言ってんの? そんな当たり前のことを。」と人々から思われました。礼拝を守らないことは戒律を破る不遜な行為でした。ですからイエスは「礼拝を守りなさい。」と言う必要も無かったわけです。これは日曜日が休日となって定着した今日「日曜日は休みです。」と言うくらい間の抜けたことです。さて「『教会に行け』とは言っていなかった。」という意見ですが、これは当然。イエスが教会という新しい組織を作ったのですから。しかしこの教会とはユダヤ教のシナゴーク(礼拝所)や寺院と同じ性格の物ですから当然「礼拝をする場所」を意図していたことは言うまでもありません。更に、補足するとイエス自身は安息日にはユダヤ教のシナゴークで礼拝を守っています。これも聖書を読むと書いてあります。ですから上述の「イエスは『教会に行け』『日曜日に礼拝をしろ』と言わなかった。」というのは全くの見当違いです。

 処女降誕は神を信じるか、信じないかという信仰の話なので、あくまで個人の信仰の問題になりますが、体外受精やクローン技術が発達した今日なら、ますます男と女の性行為が無くなって子供が産めると逆に思えそうな気がするのですが・・・。さて、処女降誕ですが、無から全てを創造された神が聖霊によって処女マリアを懐妊させ、そしてできた子供がイエスであったというこの物語は、神の無から有の創造ということを前提にしています。「神にはできないことは何一つない。」(ルカ 1:37)とクリスマス物語で御使い(天使)ガブリエルが言っていますが、正に信仰が問われています。「性交が無ければ子供が生まれるわけない」と言って信じないのは、信仰の領域ではなく、科学の検証、証拠を求めた一つの考え方であり、信仰ではありません。

 これは科学信奉者への挑戦ですが、今までに科学者、発明家で、あるいは誰でも構いませんが、全くの無から何かを創り出した人がいるでしょうか? 全ては、ただ人類が今まで知らなかった(無知だった)だけで、この宇宙、世界に存在していた。と言えないでしょうか? ノーベル賞ものの発見も同様。例えば、超微粒子、中性子、DNA、最近話題のたんぱく質、相対性理論、エイズ、鳥インフルエンザ(ウイルス)など等・・・。人間が発見したと言って威張っている物、どれをとっても、単にこれまで技術力、科学力が発達していなくて、見ることができなかったに過ぎず、人間が知らなかった時代にも確実に存在していた。誤解しないでいただきたいのですが、私は科学を否定する積りはありません。科学にはいつも興味があり、面白いと思っています。ただ何でも科学で証明できると思っているとしたら、勘違いして科学を万能だと思い込んだり、科学で証明できない物は否定するのは、人間の驕りとしか私には思えないのですが。如何なものでしょう。

何一つ無駄はなし。いつか芽が出る。

 私は高校の頃、フォーク・ソング・クラブに入っていました。フォーク・ソングなんて言うと何となく旧い感じですが、吉田拓郎、井上陽水、ユーミン、かぐや姫、アリス、チューリップ、オフコース等の日本のバンドに始まり、アメリカの60年代、70年代のグループ、PPM、キングストン・トリオ、ブラザーズ・フォー等を盛んにコピーしては歌っていました。下手なギターを片手に色々な歌を歌い、時にコンサート活動などもして、その頃、高校の勉強そっちのけでやっていたことと言えば、歌うことと、美術研究所に行って絵を描くことでした。

 ですから1979年にアメリカに留学する時、美術関係のの友人の一人は私が歌をやりにアメリカに行く、と思っていたようです。その後、美術も音楽も下手なりに続けていますが、高校のクラブはその後無くなってしまいました。しかし、当時の仲間たちとは今でも連絡を取り合い、日本では特に子育てが終わった、或いは終わりつつある私たちの年代が頻繁に会うようになり、飲み会等をしょっちゅうするようになり、数年前、愛好会復活となりました。卒業後数十年経った今でも先輩、同輩、後輩とつるんで、高校の同窓会に出て歌ったり、先輩の一人が経営しているライブ・ハウスで集まって歌ったりしていますが、本当に良いものです。大学からアメリカに来てしまった私にとって、日本の学校時代の貴重な繋がりです。

 アメリカの美大留学し、その後不思議な導きで神学校に進み、牧師になりましたが、高校の頃に情熱を傾けてやっていた歌、美術はその後、形が幾度と無く変わりはしましたが、今でも私の生活の一部となり、研究、仕事で使われています。ギターを持って歌うことは、教会でゴスペル・フォークというジャンルに代わり、今でも弾き語りをしています。黒人特有のゴスペルではなく、白人の教会、クリスチャンの間で弾き語りの讃美がフォーク全盛期から始まり、今ではプレイズというジャンルからクリスチャン・ロック、イージーリッスニング系の讃美までに広がりました。日本の教会でも福音派系で広まり、私も教会学校で歌ったり、キャンプで歌ったり、指導したりしています。

 美術も同様。神学校に行く時、神学校の学びはとても厳しく時間的にも他の事はできないと、美術を完全に諦めたのですが、その後、宗教と美術の接点を模索し研究することが「自分の道」として示されてから、現在に至るまで、美術と宗教という広い領域の中で勉強しています。牧師になるという選択をした時、フォーク・ソングや美術などと無関係の仕事・・・と思って、諦めねばと一大決心したのが嘘のようです。

 神の御心は私たち人間には解りません。皆さんの中にも、これまで躓いたり、辛い思いをしたりした時期があり、「あの頃は一体何だったんだろう?」なんて思うことがあるかもしれません。しかしどのような時期でも経験でも、必ず無駄にはならない。神のプロビデンス、御計画の中では無駄、無意味などは存在しない。全てが益に変えられます。ただ、だからと言って、それに甘えず日々一生懸命過ごしてください。皆さんの人生は皆さんの心がけ次第、生き方次第です。今やっていることは、今芽が出なくても必ず10年後、20年後、30年後には何かになります。

DV一考察 Part 2

2006年2月2日

以前、Domestic Violence(DV)について書きましたが、つい最近、日本語放送のNHKニュースを見ていたらDVの特集をやっていました。これまでDVというと既婚者の問題、夫の妻への家庭内暴力(肉体的、精神的虐待を含む)というイメージが定着していましたが、最近では結婚前のカップル、恋人間の暴力をも含んで考えるようになった、と報道していました。この報道は根本的な問題解決へ向けたかなりの前進と言えます。アメリカでも数年前、高校生、大学生、20代前半の若者のデート・レイプが問題として取り上げられ報道されたことがあります。初めてのデートでお互いまだ良く知り合ってもいない、本当に愛し合っているか分からない状況で、主に男の方から一方的に性行為を求められ、半強制的に性行為をしてしまうというケースが増えているとのことでした。女性は相手への思い、言葉や態度の暴力(力関係)で押し切られ、最悪の場合、性行為が済むとそれっきり相手にされないケースもあると報道していました。

アメリカでも一部の馬鹿な連中で男のマッチョイズムを強調し、肉体的力を誇示したり、女性を力で従わせたりする輩がいます。女性の中にも、少数ではありますが(と信じたい)、それを良しとして受けれいている人がいるのには驚かされます。たまたまテレビのチャンネルを回していると、時たまやっているプロレスとかモーターショーを見ると(勿論すぐチャンネルを替えますが)強靭な肉体を誇る男に、ブロンド(に染めた)セクシャルな格好をした女が付き添うシーンが多々見られます。「愚かなり!」と一笑にふしたいところですが、日本人にも「男は泣いてはならない」とか「男はこうあるべき」とかやたらに「男」「女」を強調した表現、考えがありすぎ、簡単にはできません。旧い男尊女卑の考え方が手を変え品を変え多くの日本人の中に生きている。しかも男性ばかりでなく女性の中にも。これを改革、改善してかない限りDVは無くなりません。

上述のテレビ特集では、日本の若者の実態として結婚前のカップル間での精神的、肉体的暴力行為が増えているとのことでしたが、私は単に隠れていたのが表面に出てきただけと解釈しています。それがようやく女性の意識が高まり、女性の権利の確立が叫ばれて半世紀過ぎ、問題として取り上げられるようになった。女性は相手を「好き」、「愛している」という感情に溺れずに次の点を見つめる必要があります。交際相手が力ずくで性行為を迫ったり、意見が異なると大声で自分を威圧したり、手を挙げる。そんなことは絶対許されてはいけません。勿論、人間ですから時に自分のパートナーと意見が合わず、言い合いになることもあるでしょうし、意思の疎通に欠け喧嘩をすることもあるでしょう。しかし、怒鳴ったり、周りの者、物に八つ当たりしたり、相手に手を挙げるのは人の道から外れている、正に外道の行為です。

この特集では結婚前の交際期間に手を挙げる男は結婚してからも十中八九手を暴力を振るうDVに繋がるとの統計を報告していました。以前にも書きましたが、「(相手が)結婚したら変わってくれる」、とか「私が彼を変えられる。」「変えてみせる。」などという甘い期待、発想はくれぐれも持たないことです。人が回心して変わるには、それ相当の体験が必要です。私は人を心底変えられるのは神の愛のみ、とさえ思っています。

今、もし貴方が結婚前で自分の交際相手からのDVで悩んでいたら、そっこく別れる事をお勧めします。既婚者の方は結婚カウンセリング、法的対応、別居、離婚など状況によって取るべき手段が変わりますが、「自分さえ我慢すれば良いんだ。」などと自分の人格を殺すようなまねだけはしないで下さい。勿論、喧嘩や関係のもつれは、相手だけが一方的に悪いとはいえません。貴方にも反省すべき点があったら直し、相手との関係の修復に努力する必要はあると思います。しかし、例え自分が100%悪くても、相手に暴力は絶対許してはいけません。

真の人間関係に暴力は不要です。



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