Archive: 2004年4月

人一人の命一億一千万円なり

2004年4月23日

 今日のニューヨーク・タイムズの一面に最近日本で騒動になったイラクでの日本人人質事件が取り上げられていた。救われて無事生還した一般市民5名、取り分け最初に誘拐された3名が、ヒーローとして迎えられるどころか、「自省の念が足りない」と日本中で物議をかもし出していることに、ニューヨーク・タイムズの記者は驚き怪しんでいる。アメリカ人(少なくともニューヨーク・タイムズを読む人々)から見れば、彼らはイラクの市民支援の為にイラクに行き、そこで拉致され、解放されたのだから、もっと温かく迎えるべきではないかと書いている。しかし江戸時代から出来上がった、お上(為政者達)政治制度の中で、お上に迷惑をかけた人々は「国民の恥であり、国政にとって迷惑そのものである」と言わんばかりの政府高官、それに右へ倣えの多くの人々。誘拐された被害者はテロリストに監禁されていた時よりも、帰ってきてからの方が精神的疲労が高いということに、何とも言いがたい驚き、憤りを込めた記事であった。

 この話を聞くと、恐らく(敢えて差別用語で遣ってはいけない、この言葉を遣う)馬鹿な一部の人々(日本人)は「アメリカは自分達こそ戦争をしておいて何を言う!」と言うであろう。しかし私も日本人としてニューヨーク・タイムズの記事に賛成である。私は「裁くべきではない」と以前、このコラムで書いたが、このような被害者をいたわるどころか、更に傷を広げるような愚行、愚人どもには神の裁きを祈りたいくらいである。

 確かに人質となった3名は解放後、自分達の巻き込まれた(仕出かしたのではない、巻き込まれたのである。)事件の重み、日本中がそして海外のあちこちで彼らの解放の為に尽力を捧げた人たちのいたことを理解していなかった。その為、自分達だけが大変だったくらいに軽く考えていたのは事実であろう。しかし彼らは誘拐され、何も状況を把握していなかったのである。それなのに「反省が足りない」とか「自業自得」というのは、全く心無い、人の優しさ、配慮がない愚か者の言う事であろう。

 日本の文化、伝統、歴史、思想を形成してきた儒教、先祖からの教えに則って言えば、そもそも政府の役人及び為政者とは国民にとって親のような存在でなければならない。自分の子供が何か粗相しでかしたり失敗をして、その事の重大さに気が付いかず、周りから責められれば、身代わりになって謝罪し、子供にはそっと気づかせてあげるのが親心であろう。それをあからさまに不快な顔をして、叱責の言葉を公の場で発言すれば、愚人達は、いい気になって、追い討ちをかけよう。この愚人達はまだ被害者が解放されていない時から、家族に嫌がらせの電話を掛けたり、高遠さんのホーム・ページに悪口を書いたそうだが、全く赦せない行為である。

 昨日、日本の友人からメールが届き、今回の誘拐事件の解決にあたり、被害者一人につき1億1千万円、計5億5千万円が遣われ、更に飛行機のチャーター代に1億円を遣ったと書かれていた。人一人の命の代償として払われた額、1億1千万円に友人は憤慨していたが、私はこれですんで、自衛隊も引き返さないで済んだ日本政府は喜ぶべきであろうと思う。人の命は本来1億円では買えないし、価がつけられるものでもない。

 私は誘拐事件が起きた時、国際情勢、アメリカへの配慮などよりも、人命を尊重し、自衛隊の引き上げをすべきと思った。メンツがなんだ、テロに脅しに弱い国と思われるからなんだ、と思う。今のアメリカや日本のテロに対する姿勢を見れば、既に充分弱い姿勢をさらけ出しているではないか。だからこそ躍起になって「テロ撲滅!」と叫んで他国を侵略し、更に入国審査も異常なまでに厳しくしているではないか。

 疑心暗鬼であったり、弱者を虐めるような事を繰り返す限り、真の平和などありえない。一人一人がもっと労わる心を持つべきであろう。皮肉にも、テロリストが人質を解放する時に出した声明文に、彼ら3名がイラクの人民の為に働いたことを評価して解放する・・・ような文があったが、彼らの方が、まだ良心を持ち合わせているのではないだろうかとさえ思ってしまう。テロ、誘拐など絶対に赦せない行為のはずなのに・・・。現にニューヨーク・タイムズの記事に誘拐され監禁されていた時の精神的ダメージがレベル10だとすると、現在の日本での針の筵(ムシロ)状態がダメージレベルが12だという彼らを診察治療している精神科医の談話が紹介されていた。全くもってどうなっているのだろう、日本は、世の中は。

映画 Passion について

2004年4月1日

 アメリカでは封切り前から、この映画のプロデューサーがハリウッドの人気俳優メル・ギブソンであること、残虐な拷問シーンや、映画の中でのユダヤ人の描写が「反ユダヤ感情を煽る」と何かと話題になりました。しかしこれはクリスチャン、ユダヤ教徒、イスラム教徒、他が共存するアメリカ社会、絶えず人種が社会の問題になる文化だから理解できる面があり、日本でこの映画を観賞した場合、恐らくは残虐なシーンは話題になると思いますが、反ユダヤ感情は恐らく理解しがたいのではないかと思います。一部の被差別者を除いて。

 この映画を観ての感想ですが、正直、「良い」とも「悪い」とも言えない複雑な思いです。クリスチャンとしての私は聖書のイエスの受難を幾度となく読み、また映画もいくつも観て来ましたので、Passionの中でイエスが苦しむ姿には何度となく涙がでました。しかし「この映画が聖書や歴史に忠実であるか?」と問えば、それは否です。例えば映画はゲッセマネでの祈りに始まりますが、そこでのサタンとのやり取り、蛇を踏みつぶすところは、使徒パウロの十字架解釈、創世記の3章のアダムとエバの堕落の折に、神が言った言葉の成就を描いています。私は牧師として解釈そのものには異論はありませんが、これは勿論、パウロや後世の神学者の解釈であって、実際にゲッセマネで起こった事かどうかは分りません。聖書にはただひたすら祈るイエスの姿が、そして眠りこけてしまう弟子達の姿が描かれているのみです。まあ福音書によっては若干他の描写もありますが・・・。

 またイエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘に行く途中、倒れ、そこで一人の女性が差し出した布で顔を拭くシーンがありました。この布にイエスの顔が浮かんだということで、後世カトリックではこの布を女性の名にちなんで「ベロニカの布」と呼んで、「奇跡の布」と称していますが、これも史実にはありません。また美術をかじっている人ならお分りかと思いますが、映画の中の色々なシーン、例えば裁きの庭とかドロローサ(イエスが十字架を負って歩いた道)などにはイエス・キリストを題材にした西洋名画のシーンが色濃く反映しています。恐らくはこれはメル・ギブソンがこれまで観てきた絵の印象が彼の中でイメージとして固まったのでしょう。

 もう一つ、十字架の形ですが、近年、考古学上の発見から、実際には伝統的な「立ったままはり付け」ではなく、座部があり、座らせた状態ではり付け、拷問の苦しみを何日にも渡って与えたことが検証されています。その意味では十数年前にアメリカで話題騒然となった”The Last Temptation of Christ” 「キリストの最後の誘惑」の方の十字架描写の方が史実に近いと言えます。

 この映画は確かに部分的には聖書の言葉をそのまま引用して作っていますし、アラム語やラテン語が遣われていますが、やはり映画は映画、プロデューサーの思い、解釈がかなり色濃く出ています。ですからこれが史実に忠実だとか聖書通りだとは思っていただきたくありません。あくまで映画として楽しんで?いただければそれで良いのではないかと思います。何だかプロデューサーの言葉みたいになってしまいました。

 しかしながらどのような導入であれイエスの受難、十字架と復活の意味を少しでも多くの人に考えていただけるのならこの映画も良い映画なのかも・・・と思います。ご覧になられた方はどのように感じられたか興味津津です。



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