デ・ボワールとギリガンから
2003年11月20日最近、宗教哲学の時間に実存主義のデ・ボワールのThe Ethics of Ambiguity(「曖昧さの倫理」とでも訳すのでしょうか?)を読み、彼女(とサルトル)が実践的にはかなりマルクス主義に影響を受けていたことを知りました。その本の中に抑圧され自由を奪われている人間で、しかもその事実すら認識していない人々を奴隷制に生まれ育った奴隷達で、自分が奴隷であることに何も疑問を持たない人たちと同じという形容の仕方があり、中々良い譬えだと思いました。
奴隷制度の中に生まれ、白人の主人達に、それが当たり前のように教えられ、義務感を植え込まれた奴隷達は自分の主人に仕えるのが当たり前、それが彼らの生き方、運命だと捉えて、変えようなどとは全く思わなかった。更に同じ奴隷達の中で、いかに良く働き御主人に気に入られているかを誇り、奴隷同士で「彼は道徳的な人」「彼はいい加減な男だ」「彼女は確り者で淑女だ」「彼女は役立たずだ」云々と自分達の倫理観さえ持っていた例を挙げ、自分が真に不自由であること、誤った為政者の社会で自分の権利が奪われていることが分かっていない人間はデ・ボワールは正にこの奴隷達と同じだと言っています。
その翌週にキャロル・ギリガンというハーバードの教授で女性解放の主張に心理学を取り入れた方の本、In a Different Voice(「一つの異なる声(立場)から」とでも訳すのでしょうか?)を読み、デ・ボワールの主張が更に腑に落ちました。ギリガンは男性と女性では精神的発達が幼児期から違うのだから、女性には女性の心理調査、結果、統計などを踏まえた上で女性の持っている問題を解決しなければならないと訴えています。
中でも女性が命に関わる或いは人生に関わる選択をしなければならない時に、自分は男性と違う考え方をするという認識から始めなければならないと訴えています。その例としてギリガンは堕胎、夫婦関係などを挙げていますが、男性は合理的(経済的?)かつ身勝手に考えるが女性はそうはいかない。命に関わることだし、自分の生活に関わることだから容易には割り切れない。ところが多くの場合、女性は感情的、感覚的で、理性的に判断できないという批判にさらされ、「そんなことはない」と無理に男性と同じ選択をする。そこから女性の内面的苦しみ、虚無感が広がる。しかし、女性と男性は心理状態、発達が違い、それで当然と受け入れれば、もっと男性とは違う選択地もあるし、女性がより傷つかなくなる。まあこれが、私の感情移入もありますが、ギリガンの主張の一つです。
ギリガンは女性は男性依存を止め、もっと自分を見直し、自分の物の考え、心理を自覚し、真の平等、権利、自由を求めるべきとしています。ギリガンの言うところの、自由を奪われた女性はデ・ボワールの奴隷達にも似ています。自分が男性と同等の権利を持っていない、いわば男性中心、力中心主義の社会にいるのに、それに甘んじて自分の権利を訴えようとしない。少しでも自由を求めようとすると男性の邪魔がはいるのに、多くの女性が男性に依存し、下手をすると「自分は守られている」と思い込んでいる。確かに籠の中の鳥は守られています、見方を変えれば。また今の社会は巧妙に社会的、集合的性差別を隠し、さも男女平等のように一見思えるので、女性達はそれに何も疑問を持たなくされている。
それを証明するかのようにクラス・メートの一人(女性)が「私には女性が差別されているとは思えない。女性の解放って何?」とコメントをしていました。個人の魂の救済、罪の許しというキリスト教或いは宗教的な解放、自由になると話が複雑になりますので、私は単純な例として、男女間の給料差、地位の差で説明しました。同じ学歴、例えばコロンビアのティーチャーズ・カレッジで修士、教職資格を取った男性と女性が、同じニューヨークの公立の学校に就職したとします。その二人は全く能力も勤務時間も同じ。でも現在のところまだ賃金や保証に格差があります。これも多くある性差別の一つにすぎません。これでも女性は「平等に扱われている、権利を守られている、自由である」と言えるのでしょうか。これでは男性優位社会はいつまでも終わらないでしょう。喜ぶのは狡猾な男性だけ?でしょう。
また教会の中にもこのような差別が確りあると思います。それをどう変えていくか、これは女性の問題であると同時に男性の問題でもあります。イエスが今現れたらどうおっしゃるでしょうか。