メリー・クリスマス
2010年12月18日この言葉を、その意味を大切にし、より多くの人が心からクリスマスをお祝い下さることを心から願います。
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Archive: 'misc.'メリー・クリスマス2010年12月18日この言葉を、その意味を大切にし、より多くの人が心からクリスマスをお祝い下さることを心から願います。 Mさん・・・について投稿した同日12月15日午後11時Mさんは長い闘病生活を終えて永遠の眠りにつきました。家族、親戚がテキサスやペンシルバニア、ヴァージニア、サウス・キャロライナとあちこちに点在しているので、即葬儀ではなく12月23日(クリスマス・イブの前日)に行うことになりました。クリスマス・キャンドル・サービスという喜びの礼拝の前日の葬儀。その準備でここ数日、また来週も追われそう。いつもこんなに重なるわけではないけど、昨年もイブの未明に教会員が無くなり、午後11時に家族から呼ばれ早朝4時まで家族に付き合い、葬儀をなんと年明けの2日にしました。デ・ジャ・ヴ・・・かしら。 併せてAさんの葬儀(追悼式)は2011年1月8日(土) になりました。クリスマス、正月気分どころではない、牧師という職業ではありますが、家族の慰め、魂の平安を祈る時、また全てを受け入れ平安に導かれた家族の顔を見る時大きな祝福があります。 牧師稼業2010年12月16日Mさんという80半ばのアメリカ人教会の女性メンバーでここ数年癌治療を続けてきた方の家族から「母が倒れて入院しました。」と連絡を受けたのが11月中旬。直ぐ病院に見舞いに行くと「とうとう癌が脳にも転移してしまい、もう回復する見込みはない。」とのこと。さしあたって入院して様子を見ることになった。 しかしホスピスで徐々に衰退し、先週「この週末(12月11日、12日)を乗り越えられないのでは」と思っていたら、別のアメリカ人教会員が12月7日に突然亡くなった。Aさんという70後半の女性だった。この方も癌を患い何年も放射線、抗癌剤治療をしていた方だった。しかしAさんの治療は順調で、左即頭部に大きな腫瘍ができてはいたが、急に亡くなるとは本人も周囲も思っていなかったので、彼女を知る古い教会員も僕も動揺した。家族の意志で追悼式はクリスマスや新年の礼拝が全部終わって落ち着いた1月ということになった。 先週土曜日12月11日、病院、ホスピス訪問、葬儀の相談事の合間を縫うように、あるアメリカ人教会員の孫娘の結婚式があった。新郎新婦とも30代後半、どちらも子連れで、同じ町に住んでいたがインターネットで知り合って再婚、というアメリカならではの結婚式であったが、本人達は勿論、家族も友人も喜びに満ちた幸せな時だったのは言うまでもない。その前日金曜の夜のリハーサル、土曜日に本番はしばし、死に行く者へのケア、葬儀の準備などを忘れさせてくれる、幸せ一杯のひと時だった。 12月のこの時期、クリスマス直前で何かと慌しい。それでも教会の行事やミーティング、訪問、式など一つ一つ確実にこなし、今日(12月15日)の午後にAさんの見舞いに行ってきた。病室に入ると、いよいよAさんの最後の時が近づいており、家族が病院の看護士、社会福祉士と話し合っていた。今日、明日が山。僕が居る間にやはり80代半ばの教会員の女性も見舞いにやってきて、恐らく最後になるであろうと悟り、別れの言葉を告げて帰って行った。僕もAさんが「最後の最後まで家族と平安に過ごせること」を祈り、別れの言葉を告げて帰ってきた。本人はもう昏睡状態にあるので、聞こえたかどうか分からないが、恐らくは伝わっただろう。また彼女を見送り、これからも生きていく家族の慰めも祈った。 昨年もクリスマス・イブの未明に教会員が亡くなり、23日の夜11時に呼び出され24日の午前4時近くまで家族と共に過ごしたが、今年もクリスマス直前にこのように生と死に向き合うことになろうとは思わなかった。また合間を縫って結婚式をすることも全く想定外・・・。 以前から思うことがあったが、牧師という職業ほど人の喜びと悲しみ、生と死に触れる職業は他にないのではないかと思う。医者も患者とは接するが、死の後、葬儀を執り行ったり、家族のケアまでは付き合わない。結婚式の司式はしない。葬儀屋は死と接し、喪に服している家族と接するが、その後は牧師のように家族と向き合ったり付き合ったりしない。冠婚葬祭業で結婚式専門の会場運営をしている人達は病人のケアや葬儀には関わらない。 こうして考えてみると牧師とは何と不思議な、また責任の思い職なのであろう。特にアメリカでは。日本人にはあまりこういった牧師の仕事や立場は理解してもらえないので、時々「牧師さんって日曜日以外は何をしているのですか。」と訊かれては苦笑する。で、礼拝以外、教会運営全般、オフィスでの雑務、教会員や患者の訪問、ケア、自分自身の聖書の学びと、他者への聖書教授、指導、説教の準備、教会内外、教団本部、支部のミーティングなどなど、それに時折ある冠婚葬祭と説明する。通常土曜日までには説教を作り上げ日曜日の礼拝に臨むが、時に全く説教が出来ず、日曜日の朝まで何をどう話そうか考えあぐねることもある。日曜日、英語の礼拝、聖書研究指導、日本語の礼拝、交わり等を全部して一日が終わるともう何もしたくない。 肉体的な疲れはそれほどでもないが精神的な疲労、ストレスは大きい。また神の言葉を伝えるなんて器ではない僕は、「自分のような人間が牧師をしていて良いのだろうか?」といつも迷いながら悩みながらやっている。今もって教育学を専攻しているのも実は徐々に牧師の比重を減らして教職になどと、密かに願っているというのもある。まあこうやって公にしてしまったので、密かではなくなってしまったが。ま、しかし牧師の仕事、特に礼拝と葬儀(特に葬儀)はこの先教職に携わっても辞められないと思う。そこに僕の召命があるような気がするから。 主体的に生き、主体的に選択し、信仰に入る2010年11月9日〔そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。〕19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによっ て宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハ ムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしは この炎の中でもだえ苦しんでいます。』25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、 ラザロは反対悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来るこ ともできない。』 27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦 しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を 傾けるがよい。』30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろ う。』」 (ルカ16:19-31)
《15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、 わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、 「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲 しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われ た。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両 手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたし に従いなさい」と言われた。 》 20ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」 23それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。 24これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。25イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。 (ヨハネ21:15:25) ルカ伝とヨハネ伝から長い引用をしてしまいました。これは先日、ニューヨーク日本語教会で持たれたユニオン日本語教会、ニューヨーク日本語教会と私たちグッドシェパード教会の3教会合同半日修養会でお目にかかった方の「神の存在に対する疑問」にどうやったらお答えできるだろうかと祈った中で、与えられた御言葉です。その方だけでなく、神がいると思えない、洗礼が受けられない=>信仰に入れないという方は沢山います。 その方の疑問を短くまとめると以下のような物です。「神は人智を超えたお方だと自分は思う。しかしそのような神が存在するのなら、何故、世界は貧困や不正などに満ちているのだろうか。アフリカでは何万、何十万、何百万という人達が飢えて、多くの子供たちが飢餓や病気で天寿をまっとう出来ないでいる。一方、富める国では多くの人が無関心に生きている。神がいるなら何故このような悲惨な状況を放っておかれるのだろうか。」 非常に正しい意見であり、私も心が痛み続けています。この疑問を持たれている方は若い聡明な女性で、確りとした物の見方考えをお持ちです。「何故、人智を超えた神がいるなら、アフリカやアジア、中南米(極貧のハイチ)などの悲惨な有様をそのままにされているのか?」本当にそうだと思います。 以下、私の所見であり信仰の姿勢ですので、これが正しいと言うのではなく、あくまで一個人、一牧師の意見としてお聞き下さい。 私は神をいつも親と置き換えて考えます。親が「子供を守る」というのは親の義務、責任ですが、どこまで、何歳になるまでそれをすべきか。また子供は自分のしでかしてしまったことに対して、いつまで親に尻拭いをしてもらうのか。今の世界を例えるなら、いい年をした大人達が、自分のしでかしてしまった過ちを、自分たちで解決できるのに、しようとせず、親に尻拭いをさせようとしている。 子供を危険に遭わせたくないからと言って、親が子供をずっと家の中だけに閉じ込めていたらどうでしょうか。恐らく、その子供は主体的な生き方ができないばかりか、脆弱な一人で生きられない人間になってしまうでしょう。と言うか、それ以前に大人になれないかもしれません。 ここアメリカ東部では通信会社のオプトンラインがライバルのファイオス会社を滑稽に扱っているテレビコマーシャルが時々流れています。ファイオスの宣伝マン(白人青年)が心配でお母さんがいつも彼の訪問ビジネスに付いて周り、行き先々で彼が「ファイオスに切り替えませんか」と勧誘するのですが、その横から、お母さんは良かれと思って口を出し、結果、彼は一本も契約が取れない。と言う物です。何だかそれを思い出してしまいました。 アフリカの子供たちが飢えに苦しみ、毎日何万と亡くなっている痛ましい現状は神が作り出したのではなく、人間が作り出した物です。質問者の女性は勿論このようなことは解っている上で、「人智を超えた神がいらっしゃるなら、何故、このようなことを人間に許してしまったのか、させてしまったのか、こうなる前にもっと介入して、人間を良い方向に導くべきではなかったのか?」と言いたかったのではないかと思います。 非行に走る子供を止める親のように、神は何度も直接介入してきた、と私は思っています。その例として引用したのがルカ16章19節から31節です。この話は単に神の裁きや死後の世界、天国と陰府(よみ、地獄)のたとえ話と捉えるよりは、今、どう生きるべきか、主体的な生き方のための教訓と考えていただくと、話がより直接私たちに問いかけてきます。 金持ちというのは、アフリカやニューヨークのサウス・ブロンクス、ニュージャージーのパターソン、ニューアークなどで貧困や暴力に喘いでいる人々、子供達に対して見て見ぬふりをしている多くの人々=私たちです。ラザロは貧しい子供たち。金持ちは死んで陰府に下って苦しい思いをしますが後の祭り。彼はそれでも高慢に「ラザロを遣わしのどの渇きを癒してくれ」とアブラハム(ユダヤ教最高の先祖で神に準ずる者)に頼みます。それが叶わないと今度は「ラザロをまだ生きている自分の兄弟の元に遣わして欲しい」と頼みます。 そこでアブラハムは「彼らにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」(旧約の教え。当たり前ですがイエス様の時代には新約は無かったので・・・。)と応答しました。しかし金持ちは「死者が(復活して)兄弟のところに行けば、悔い改めるでしょう。」と言いました。まあ今風に言うなら幽霊=怪奇現象、超常現象を目の当たりにすれば、恐ろしさのあまり信じます。といったところでしょうか。 しかしアブラハムは「もし、モーセや預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」と言って終わります。 神は確かに旧約の時代からモーセや預言者を通して「自己中心の生き方を止めて、私の元に帰っておいで。」と介入されてきました。また愛する一人子イエスを送って下さり「信じれば、全ての罪を許す。」だから「互いに愛し合いなさい。」と教えて下さいました。しかし人間はそれに耳をかさず、暴走してイエスを十字架に架けてしまった。それでも、私たちを赦す為、イエスは復活と言う形で私たちに「罪の意識に苛まれなくていいんだよ。前向きに生きなさい。」と教えて下さった。 もし私たち人間が皆悔い改めて、イエスの言うとおり、互いに愛し合って生きていたら、貧困も飢餓も当の昔に無くなっていたのではないでしょうか。これでも人智を超えた神がいるなら・・・とまだ「神様、責任を取って下さい!」と思いますか。 さて、信仰は具体的な行動、日々の生き方に反映されねば意味が無いと私は思っています。ではアフリカで飢餓に苦しむ子供がいなくなるようにする為に何ができるか。人には向き不向き、それぞれのCalling(召命)があるので、例えどれほど小さいことであっても自分が何ができるか、というところから始めてはいかがでしょう。以下働きを医療、援助活動に例えて見ます。
1.バンドエイドを含む救急救命。今、飢えている人達に対して献金を送ったり、食料支援をする。緊急手術のように直接、国連、ピースコープや青年海外協力隊や国境の無い医師団のように、アフリカやアジア、南米に直接行って働く。(別に皆が医者や看護士になってアフリカに行かなければならないというものでもありませんし、これは尊い働きですが、これが他よりも良いとか比べる物でもありません。) 2.療養治療。手術前、後の治療、リハビリ的働き。上述の職員や教会の委員会、NPOのメンバーとして長期で関わったり、政治家や政治団体メンバーになって、国を動かす。1人のメンバーに過ぎなくても、まずは関わるということが大事。 3.病理、根治療。根本的原因の改善に取り組み、貧困を無くす。私にとっては「教育」であり「伝道」です。政治に関わることも直接援助に関わることも大事ですが、人の心、社会悪は教育を通してのみ変えていけると思っています。 これはあくまで例ですので、皆さんが自分ができることから始めれば良いのではないでしょうか。そのヒントは聖書に書かれています。 また「人がどうであろうと、自分は自分」という良い意味でのポジティブ且つ主体的生き方がそこには求められています。二つ目の聖書の引用はその為に書き入れました。 ペテロはイエスが自分に「私の羊を養いなさい」と3度言われたので、そう決心しましたが、一方ではイエスの愛した弟子のヨハネに対して「彼はどうなんだろう?」と気にしていました。そこでイエスは「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」とおっしゃいました。 世の中には神の言葉に耳を傾けないで自分勝手な生き方をしている人が沢山います。また飢餓に死んでいく子供たちに無関心に生きている人が沢山います。でも、その人達がそうだからといって、あなたに何の関わりがあるのでしょうか? また歴史の中でキリスト教徒達は誤って、多くの戦争を引き起こし、ユダヤ人を迫害し、多くの血を流してきました。それを引き合いに「だからキリスト教は良くない」と言う方がいます。仮にあなたの生まれる前に、あなたの祖父が殺人の罪を犯したとします。でもその責任を何も知らないで生まれてきたあなたに取れと誰かが言ったら、それは理不尽ではないでしょうか。常識のある方だったらそういう思慮、分別の無いことはあなたに言わないでしょう。また祖父の犯した過ちが今を生きるあなたに何の関わりがあるのでしょうか? 私はだからと言って過去、歴史の過ちなどどうでも良いと言っているのではありません。大事なのは私たちクリスチャンが過去の過ち、歴史の汚点を胸に深く刻んで、同じ過ちを繰り返さないということ。 非人道的兵器2010年2月23日先週のニュースで「クラスター爆弾全面廃絶に向けて26カ国以上の賛同が集まったので、国際法上強制力を持つ国際条例が作れることになった。」と言っていました。クラスター爆弾は一つのミサイルに何百、何千という小型爆弾が搭載され発射されると目的地上空で破裂し、その何千もの小型爆弾が爆竹のように次々と爆発し、広範囲に渡って人々を殺傷する恐ろしい兵器で、非人道的兵器と呼ばれ廃絶協定の話し合いが進められてきたそうです。 クラスター爆弾を廃絶するということには全く異論はありませんが、一つ腑に落ちないことがあります。先進国ではクラスター爆弾や原爆は非人道的だから使用禁止、廃絶の必要があると話し合う一方で1分間に何百発も弾が出る自動小銃、大陸弾道ミサイル、ジェット戦闘機などなどを作り続けています。およそ人や動物を簡単に殺せる武器で非人道的でない武器があるのでしょうか。非人道的な武器があるということは人道的な武器もあるのでしょうか? メトロポリタン美術館で話題になった(とされる日本の戦国時代、江戸時代の武具で)美術骨董品として評価される刀、槍、弓などは人道的な武器なのでしょうか? 確かに私も刀工、陶工が作った刀、甲冑、陣羽織など美しいと思いましたが、あの刀は一振りで人の首が落とせる恐ろしい刃物でもあり、それを思うとゾッとします。人道的武器などはやはり無いのです。戦う為に作られた武器はどれも全て人を傷つけ殺す非人道的なものなのです。 相変わらず私たち人間はいつまで身勝手な論理を繰り広げていくのでしょう・・・。 商売は信用第一は当たり前。2010年2月11日時折、聖書にはとても理解し難いというか難解な教えがあります。ルカによる福音書16章1節から13節の不正な管理人の喩はその良い例です。金持ちの管理人(マネージャー)が他人から主人に「彼は不正を働き、御主人のお金を無駄遣いしている」と告げ口されます。そして御主人は立腹して彼を管理人から降ろしてしまいます。そこでこの管理人は「このままでは職を失い、飢えてしまう。」と恐れおののき、考えに考え、管理人を辞めさせられる前に、商売のお得意さんの取引の記録を帳簿から抜き出し、それぞれの証文を値引きし、彼らに恩を売ります。彼は後々、彼らに助けてもらおうと思ってこのような不正行為をしました。今日的に考えれば、そこで彼が行ったのは帳簿に「嘘の記載をする」という不正ですから、御主人から叱られるどころか、法的手段に訴えられれば投獄という結果が待っている。しかし、この御主人はこの不正な管理人をほめた、と聖書は書いています。メッセージとしては「この世の人々の多くが不正なやり方、生き方をしているのだから、クリスチャンも彼ら以上に賢く振舞いなさい。」というのが一般的です。二つ目は「たとえ、どんな小さなことであれ、それが時と場合によっては不正なことであれ忠実に対応しなさい。小さなことに忠実でなければ大きなことに忠実でありえない。」と言って「この世の(人間的な)ことにも忠実でなければ、もっと大きな神の御心にどうして忠実で在り得よう。」という教えです。この二つ目の教えの部分はどうも後から付けたような気がしないでもありません・・・。 しかし「この小さなことにも忠実であれ」 という教えは良く理解できます。「商売は信用が第一」という戒めがあります。これは決して新しい戒めではなく、昔からある教えです。しかしこの戒めは何だかあまり人にモラルを教える役には立たないように思えます。商売で信用が第一なのは当たり前だからです。お金を扱っているのですから、商売先が信用できなかったり、お客がお店を信用できなかったら、商売は成り立たないでしょう。お金を貰うのですから客に真心をもって尽くすのは当たり前と言うより義務でしょう。それすら出来ないようでは、この店、企業は下の下。時間の問題でつぶれるでしょう。また個人個人もお金を貰っていれば時間も守るし、仕事の質も内容も大切にして当然。それができない人は給料ドロボー、お時給ドロボーとなる。 本当にその人の人柄、人なりが出るのはお金の制約が無い状況、関係においてです。ヴォランティアーなどがその良い例ですし教会の礼拝や活動も同様です。お金を貰わないで人の為、社会の為に何かをするのがヴォランティアーですが、教会の礼拝も集会などの集まり、プログラムも同様に自分の意志、信仰で関わります。ですから「辞めようと思えばいつでも辞められる」と誤解している人が多いのですが、本当はこういう場でこそ信用が築かれるのです。ヴォランティアーや教会の礼拝やプログラムでは誰から褒められなくても必ず出席する、お金を貰わなくてもコツコツと仕事、活動をする、礼拝に来る、人がしない仕事(例えばコーヒーやお菓子など交わりの準備をするとかテーブルを出すとか、片付けをするとか・・・)をする等、いわば小さなことに忠実であることが求められまれます。 私は教会の仕事外で幾つかの委員会、コミッティーなどに関わっていますが、それらは全てヴォランティアーが基本です。教会の仕事、勉強、私生活に加えてこのような委員会活動やヴォランティアーのミーティングで時間を取られる事が多々あります。でも体調が悪いとか、葬儀だとか、余程の理由が無い限り、それらの活動には必ず出席するようにしています。が、色々な委員会を見てきて思うのは、実に出席が悪い委員会、コミッティーがあるということ。ミーティングにちゃんと出て来ない人が結構いる。これが牧師や教会代表など信用が問われる立場にある人に多いので始末に悪い。やはりどこか履き違えているのでは、と思わざるを得ません。 アメリカ人の教会で礼拝に平然と遅れてくる人が結構多いのにも驚かされます。国民性とは言いたくないですが、どうも温かい国、地方から来た人に多い。(余り国名や人種に触れると差別と誤解されかねないのでこれくらいで止めておきますが、国柄というのは確かにあると思う今日この頃です。 ) さて、あなたは御自分が本当に「信用にたる人物」だと確信できますか? P.S:人との関係で信用を築くのは時間がかかります。相手と長い時間かけて、活動や仕事、或いは色々なことを共にしてようやく築く事ができる。しかしそれを壊すのは一瞬です。今本当に「小さなことにも忠実である」ということが問われています。 なぜ良く見せようとするんでしょう。2010年2月3日昨年の初夏以来です。いつも色々書きたいことはあるのですが、仕事や勉強に追われ、その折、その折書きたいと思ったトピックの時を逸したり、こんなこと書いては良くないかな、と思い止めてしまったり・・・。まあしかし徒然なるままに・・・とまた書きたくなってきました。 最近、つくづく気になるのは、自分も含めほとんどの人は皆本当の自分よりも良く見せようとしたり、自分の器を実物以上に大きく見せようとしていること。要はカッコウつけているわけです。関西弁では「エエかっこしい」と言うと以前聞いたような。自分のサイズに合わない高給でピカピカの靴を履いている人や、ブランド品というだけで不似合いなドレスを着ている人、情報ばかり収集し本当の教養になっていないのに自分は有識者と勘違いしている(そう思いたい)人、社会の一線で働いていると思っている人、大きな会社の肩書きで自分はさも偉いんだと言いたげな人、(最近は不思議とすごく減ったけど)一国の大統領、総理大臣のような顔をした大使館、領事館の職員(くどいですが、昔はこの手合いが多かったけど、最近は本当に皆さん親切です!)、アメリカに来て日本人のコミュニティーに閉じ篭り、一般アメリカ人の社会で暮らしていないのにアメリカを知っている積りになってアメリカ批判をする人、アメリカ人の社会に住んでいるからと言って、日本とアメリカをむやみに比較し、文化論をぶつ人など等、精一杯無理している人に出会うと、もっと肩の力を抜けば良いのに・・・と思ってしまいます。みんなが皆蘊蓄(うんちく)オヤジ、物知り女史である必要はないのです。見栄を張るのも、威張るのも、高慢に振舞うのも浅ましい。自戒の念も含めて、皆さん、もっと自分の身の丈に合った生き方をしましょう。「人の一生はたかだか70年、健やかにして80年」とは聖書の中の言葉(詩篇90篇、他、意訳)ですが、どんなに頑張ったって人間が知り得ることには限りがあります。また成し得ることにも限りある。限られた時間と知れば、あなたにとって、私にとってもっと大切なこと、やるべき事があるのではないですか。 私にとってキリスト教は禅道場であり、哲学の道です。自分の道を模索する場、それが教会です。 安っぽい救いを得る場所ではないのです。教会も時に自分達の姿を見つめ直さなければならない。人の目、要求を気にするのか、神の御心、御言葉を気にするのか・・・と。 小山晃佑博士の思い出22009年5月25日かなり以前ですが日米合同教会やSMJの家庭集会を小山晃佑博士のお宅でやらせて頂いたことが幾度かあり、私も時折お邪魔して先生のお話をうかがっては、色々考えることがありました。先生はお宅ではリラックスして浴衣や着物をシャツの上に羽織って下はズボン、上は浴衣(着物)という格好でお話しをされたことが記憶に残っています。 先生はよく「古代ユダヤ人社会では、言葉は生きていて力を持っていると強く信じていた。だからある人が誰かに向かって『死ね』と言ったら、言われた相手はハッと身をかわしてその言葉が自分に向かってくるのを本当に避けた。それくらい言葉には本来力があるものです。」と言われました。「言葉は生きていて力がある」という視線で聖書を読んでみると確かに面白いほど良く理解できます。 旧約聖書の創世記の一番初めに神がしたことは「光あれ。」と言われたことでした。そこから世界の創造が始まりました。旧約の登場人物たちは神の言葉を信じ生きていました。例えばノアの洪水のノアは神から「地を滅ぼす」と言われ、更に箱舟を作る命を受けます。神からの言葉が与えられノアは一言も言い返したり質問することなく、その言葉どおりに従い箱舟を作ります。ユダヤ人の祖先アブラハムもある日突然神から旅立つことを告げられそれに従います。彼が75歳の時でした。普通ならもう老年期で人生を終える準備をする年齢ですが、彼は妻と一族郎党を引き連れて故郷ハランの地(今日のイラン)を旅立ち、カナンの地(今日のイスラエル・パレスチナ)に向かいます。アブラハムもその子イサクも孫のヤコブも皆神と契約を交わしました。勿論、契約とは約束の言葉を交わすこととその履行です。 新約ではヨハネの福音書の冒頭に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(1章1節から3節)と書かれています。この言とは、通常の言葉よりも更に深く、神の言葉には創造の力があった。神の言葉は力そのものであった。だから言は神の意志、神の思いの実践、神そのもの、という立場から言はイエス・キリストその人、という神学的解釈がなされました。 イエス自身も言葉をすごく大切にされ弟子達またイエスを信じている私達に「決して誓ってはならない」と命じています。(マタイ5:34)何故なら言葉に出して誓っても私達はそれを果たすことができないほどいい加減で弱いことをイエスは御存知だったから。だから「あなたたたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイ5:37)と戒めています。 よく人はともすると他の人と軽く約束(誓い)をして(口に出して言って)しまい、それを簡単に破棄してしまうことがあります。きっと誰かと約束(誓い)をしていたのに、その相手から「あの時はそう言ったし、本当にそう思っていたけど、今は違う。」と約束を破られた経験のある方も多いのではないかと思います。私はそいういう方を見ると「本当に言葉を大切にしない人」と思え残念でなりません。また「約束、人の心は変わるもの」とか「あの時はあの時、今は今」と嘯く人も結構いますが、相手や周りをどれほど振り回し迷惑をかけているか考えて欲しいものです。 余談ですが、恋人どうしや友達の間で相手の気を引きたいから或いは相手をからかいたいからと言葉をもてあそぶ人がいますが、これも禁物。本来、言葉とは自分の思いを伝える為に出来てきたコミュニケーションの道具です。自分の思いはどう頑張っても100%相手には伝えられませんし、相手のことも100%理解はできません。そこで伝達の為に言葉がある。言葉は共通理解の上に成り立つ。その言葉にわざと裏の意味を足したり、自分の思いで勝手に意味を変えてしまっては、益々相手に伝わらない。詩や文学は別ですので念のため。日本人は察し合いや以心伝心という狭い地域、親しい間のみで共有できる表現法や伝達手段を過大評価しすぎてハッキリ言わなかったり、わざと違うことを言ったりします。勿論、これは日本人だけでなく、アメリカでもヨーロッパでもアフリカでもアジアでも狭い社会に暮らす人々の間であればどこでも見られる現象でしょう。しかし、一般には「言葉はストレートなほど良い。カーブ・ボールでは伝わらない。」と思っていた方が賢明です。言葉は生きているからこそもっともっと大事にしなければならない。 そのことを小山先生は本当に教えて下さいました。それ以来、私は通訳や翻訳を頼まれてもできるだけ相手に失礼のないように断るようにしています。何故なら言葉はほんのちょっとニュアンスが変わっただけで全く違う物になってしまうから。それほど言葉は生きていて人の心に敏感に反応しまた語りかける力があるからです。 小山晃佑博士の思い出12009年5月24日ここ1週間、実に目まぐるしい日々を過ごしました。去る5月16日(土)に日本語補習校の教え子で私が過去20年以上御奉仕させていただいた合同メソジスト教会キャンプのキャンパーでもあった杉本健太郎君がテリー・タイ・イ・テンさんと6年越しの交際を実らせ結婚。その式の司式を私がさせていただきました。慶びのうちに式も披露宴も滞りなく済み、色々な思いを抱えながらも牧師をしていて良かったなぁ・・・と思いました。改めておめでとうございます。健太郎君とテリーさんの新たな人生に神の祝福がありますよう心から祈ります。 その2日後、若い頃から御教示を受けたニューヨーク・ユニオン神学校名誉教授、小山晃佑博士(今年の3月25日に逝去、享年79歳)のメモリアルに参列しました。 同じ日ニュージャージー・テナフライ町の高校生にお茶のデモンストレーションのお手伝いをし、翌日火曜日は合同メソジスト教団の教団按手礼委員会(次期牧師養成委員会)主催の指導委員トレーニングに参加、水曜日はDrew 神学校でのアポ、木曜日は教団の支区レベル・ミーティング、金曜日はメトロポリタン美術館ツアー、そして昨日5月23日土曜日は元教会員享年87歳の白人男性の葬儀と教会バザーなど、自分でも良くこれほどのスケジュールをこなせたなと思うほど忙しく過ごしました。 中でも1週間の間に結婚式、追悼式(参列しただけですが・・・)そして葬儀と冠婚葬祭に3度も関わり、改めて自分の仕事、召命を意識しました。死と生、喜びと悲しみはいつも隣り合わせであるという事実をどれほど多くの人が知っていることでしょう。この生と死の問題は改めてどこかで語ることにして、今回は小山晃佑博士の思い出を書き連ねたいと思います。 1980年からニューヨーク日米合同教会やSMJ(日本人特別牧会)の聖書研究会や特別集会のゲストで小山先生がお話しをされる度に、多くのことを学ばせていただき、その懐の大きいキリスト教神学に啓蒙、触発されキリスト教への見方、理解が変えられていきました。中でも小山先生の仏教やイスラム教、神道、ヒンズー教など等へのオープンな姿勢には心底敬服しました。若い頃、私は多くのキリスト教会が「主イエスだけが救いであり、他は一切救いはない。」と頑なに主張し、他宗教、或いは同じキリスト教の他教派でさえ批判して止まない狭い心に辟易していました。自分と違う信仰、哲学、思想を受け入れないその心根の狭さ、それはあたかも貧しい心根の学生運動家達が仲間同士で内ゲバを繰り返すような醜さでもあると思えくづく愛想が尽きていました。 そんな中、小山先生はお互いの違いを強調するよりも一致する点を見出すことの大切さを教えて下さいました。先生はエキュメニズム(超教派運動)が更にキリスト教のみならず、多宗教の中でも同じようにフェアーに接することであるとハッキリ教えて下さいました。その懐の大きな教えの虜になり、私は「キリスト教会や学校などで働きたい。」と献身するに至りました。今の私の神学、哲学、また倫理、及び人生訓の礎は小山先生の教えにあると言っても過言ではありません。 昨今、以前にも増して「自分達だけが正しくてそれ以外は皆救われず地獄に行く」という低レベルの教会や教派が多くて嘆かわしい限りです。「イエス・キリストのみが救い」であるという信仰の確信は私も同じですが、他の宗教の教えにも耳を傾け、学べることは学びつつ、更なる対話を持つ中でお互いに議論を交わしつつキリスト教の真理を伝えていく、という方法があっても良いのではないかと思います。 小山先生の訃報はニューヨーク・タイムズ(4月1日付け)にも載りました。それほど小山先生の神学、愛、平和を唱える姿勢は多くのアメリカ人や海外のキリスト者に影響を与えました。が、日本の知人から日本で小山先生ゆかりの方々が朝日新聞や読売新聞、毎日新聞などの大手新聞社の訃報欄に小山先生の記事をお願いしたところ「誰?」「そのような人は載せられません。」と一蹴されたとうかがいました。 今更ながら日本の余りにも小さな島国根性に情けなくなり(ハッキリ言ってけつの穴の小さい国民性に)愛想が尽きる思いでした。だから日本を背負って立つような人材が海外に流出して止まないんだ!と思いました。 まあしかし当の小山晃佑先生は「吉松君、そんなことはまあいいから、良き物、慈愛、ヘツェッドについて語ろう。」と言って笑われるだろうな、と想像し、自分も可笑しくなりました。
「おくりびと」を観て2009年5月10日この春アカデミー外国語作品賞を受賞した映画「おくりびと」を観ました。ニューヨークでも一般公開されるそうですが、DVDで観ました。この映画の題材である納棺師は主演の本木雅弘さんがインドを旅して自分なりの死生観を意識して以来長年温めてきたものだそうですが、遺体に死化粧を施し、棺に入れるという仕事は死者を葬ることもさることながら生きている人たち、遺族、への慰めで、いかに遺体を美しく着付け、納棺するかを見せる、という仕事に美を求め描いている、ある意味で葬儀という儀式祭礼に美学を追求した映画でした。 職業柄、葬式、追悼式を数多くしてきましたので、なにやらとても共感できるものがありました。私はこれを素直に喜んでよいのか分からないのですが、「葬儀上手」と言うか「とても良い心の残る葬式でした。」「Beautiful Service」とよく遺族や参列者から言われます。これは葬儀が「故人を御国へ送る」という式であると同時に遺族、友人の慰め、またキリスト教ならではの「永遠の命の約束」にある「希望」をお伝えしているからではないかと思います。誰でもたとえどれほど長生きをして自他共に幸福な人生だったと認めるような人であっても逝くことは淋しいことでです。ましてや子供や若い人、まだ天寿を全うしていない人が亡くなった場合は尚更悲しく別れは辛いものです。しかしたとえ故人が若くて早すぎる旅立ちであっても、遺族には必ず「永遠の命」を信じ「御国で再会できる」という希望があることを伝える、それが葬儀であると私は考えます。ですから旅立ちを美しく思い出深いものにする。 映画では死者に触る納棺師に対する周囲の人の偏見や無理解も描かれていますが、映画の中で奥さん役の広末涼子さんに「もっと普通の仕事をして!」と言われた時に、本木さんは「普通って何だ?」「誰もが必ず死ぬ。」「特別なことではない。」と反論します。 多くの人がまるで自分は死とは無縁のように生きていますが、いつかは誰も必ず死ぬ。死は平等です。毎日誰かが生まれ誰かが死ぬ。それを意識した時、初めて私達は生きる意味を考え、今という時を無駄にしないで生きよう思えるのかもしれません。最近、私はまだまだ自分がすべき事が沢山あるように思え、もっともっと貪欲でも良いからやりたいことをやろうと思うことがあります。また一方では、どの道一度の人生、いつかは死ぬのならもっとゆったりと生きたいと思ったりもします。生きるとはバランスを取ること、中道を行くことなのでしょうか。 私達は大事な時間を何と無駄に遣っていることでしょうか。生きていることが大事に思える時、心のすれ違いやつまらない思いから逢えなくなった人たちがいることは何と愚かなことであり悲しいことであるかが分かってきます。それは今という時を無駄にしていること。二度と逢えなくなる前に言葉を交わしておくことも安らかに旅立つのに必要なことだと思えます。 「おくりびと」は様々なメッセージを語りかける映画でした。 |
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