小山晃佑博士の思い出2
2009年5月25日かなり以前ですが日米合同教会やSMJの家庭集会を小山晃佑博士のお宅でやらせて頂いたことが幾度かあり、私も時折お邪魔して先生のお話をうかがっては、色々考えることがありました。先生はお宅ではリラックスして浴衣や着物をシャツの上に羽織って下はズボン、上は浴衣(着物)という格好でお話しをされたことが記憶に残っています。
先生はよく「古代ユダヤ人社会では、言葉は生きていて力を持っていると強く信じていた。だからある人が誰かに向かって『死ね』と言ったら、言われた相手はハッと身をかわしてその言葉が自分に向かってくるのを本当に避けた。それくらい言葉には本来力があるものです。」と言われました。「言葉は生きていて力がある」という視線で聖書を読んでみると確かに面白いほど良く理解できます。
旧約聖書の創世記の一番初めに神がしたことは「光あれ。」と言われたことでした。そこから世界の創造が始まりました。旧約の登場人物たちは神の言葉を信じ生きていました。例えばノアの洪水のノアは神から「地を滅ぼす」と言われ、更に箱舟を作る命を受けます。神からの言葉が与えられノアは一言も言い返したり質問することなく、その言葉どおりに従い箱舟を作ります。ユダヤ人の祖先アブラハムもある日突然神から旅立つことを告げられそれに従います。彼が75歳の時でした。普通ならもう老年期で人生を終える準備をする年齢ですが、彼は妻と一族郎党を引き連れて故郷ハランの地(今日のイラン)を旅立ち、カナンの地(今日のイスラエル・パレスチナ)に向かいます。アブラハムもその子イサクも孫のヤコブも皆神と契約を交わしました。勿論、契約とは約束の言葉を交わすこととその履行です。
新約ではヨハネの福音書の冒頭に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(1章1節から3節)と書かれています。この言とは、通常の言葉よりも更に深く、神の言葉には創造の力があった。神の言葉は力そのものであった。だから言は神の意志、神の思いの実践、神そのもの、という立場から言はイエス・キリストその人、という神学的解釈がなされました。
イエス自身も言葉をすごく大切にされ弟子達またイエスを信じている私達に「決して誓ってはならない」と命じています。(マタイ5:34)何故なら言葉に出して誓っても私達はそれを果たすことができないほどいい加減で弱いことをイエスは御存知だったから。だから「あなたたたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイ5:37)と戒めています。
よく人はともすると他の人と軽く約束(誓い)をして(口に出して言って)しまい、それを簡単に破棄してしまうことがあります。きっと誰かと約束(誓い)をしていたのに、その相手から「あの時はそう言ったし、本当にそう思っていたけど、今は違う。」と約束を破られた経験のある方も多いのではないかと思います。私はそいういう方を見ると「本当に言葉を大切にしない人」と思え残念でなりません。また「約束、人の心は変わるもの」とか「あの時はあの時、今は今」と嘯く人も結構いますが、相手や周りをどれほど振り回し迷惑をかけているか考えて欲しいものです。
余談ですが、恋人どうしや友達の間で相手の気を引きたいから或いは相手をからかいたいからと言葉をもてあそぶ人がいますが、これも禁物。本来、言葉とは自分の思いを伝える為に出来てきたコミュニケーションの道具です。自分の思いはどう頑張っても100%相手には伝えられませんし、相手のことも100%理解はできません。そこで伝達の為に言葉がある。言葉は共通理解の上に成り立つ。その言葉にわざと裏の意味を足したり、自分の思いで勝手に意味を変えてしまっては、益々相手に伝わらない。詩や文学は別ですので念のため。日本人は察し合いや以心伝心という狭い地域、親しい間のみで共有できる表現法や伝達手段を過大評価しすぎてハッキリ言わなかったり、わざと違うことを言ったりします。勿論、これは日本人だけでなく、アメリカでもヨーロッパでもアフリカでもアジアでも狭い社会に暮らす人々の間であればどこでも見られる現象でしょう。しかし、一般には「言葉はストレートなほど良い。カーブ・ボールでは伝わらない。」と思っていた方が賢明です。言葉は生きているからこそもっともっと大事にしなければならない。
そのことを小山先生は本当に教えて下さいました。それ以来、私は通訳や翻訳を頼まれてもできるだけ相手に失礼のないように断るようにしています。何故なら言葉はほんのちょっとニュアンスが変わっただけで全く違う物になってしまうから。それほど言葉は生きていて人の心に敏感に反応しまた語りかける力があるからです。