偏見
2003年8月1日偏見には人種差別、性差別、職業差別、学歴、生まれ、出身地等、様々なものがありますが、どれも個人が持って生まれてきたものではなく、後天的に社会、共同体の中で培われ植え込まれています。つまり人間は生まれながらに偏見を持っているわけではなく、その人の育った環境、社会の中でそれらを知ってか知らずか身に付けてしまうわけです。
そもそも偏見とは?と考えますと、誰かにとって、その人(達)の利益を守ったり、エゴを満足させるに都合の良いものであり、その人達が大抵は世の支配者、為政者であるが為に、偏見を中間層にも浸透させ、弱者が犠牲になる、そういった構造を守るものと言えるのではないでしょうか。例えば白人がマジョリティーである社会では、白人の権利、優越性を固持(誇示)しようとする。その為、黒人やアジア人が差別される。これが奴隷制などとなるともっと非人道的でしたが、為政者、マジョリテイーにとっては偏見云々以前の問題にもならないことだったわけです。
日本の部落問題も江戸までの武家社会、それ以前の貴族社会、天皇制の中で形成された力の構造の中で意図的に形成されてきた差別偏見が中間層にそのまま広められ定着してしまい、階級性に翻弄され考えることをしネくなった人々がそれを愚かにも続けているものです。これは故住井すゑ氏の「橋のない川」を読んでいただいた方が良く分かると思いますので、ここまでにしておきます。(同名の映画は短い時間で全てを描こうとしていて、気持ちは分かるのですがあまり良くありません。)
そういった大きな社会構造的偏見ほどではなくても、偏見は人が属す小さな社会、例えば学校、会社、宗教団体等でも培われます。私は以前、何度か学歴の故にリベラルのレッテルを貼られたことがあります。お会いしてもいない方が私の教会員や知り合いに「あの人はDrew神学大学、Yale神学大学卒だからね。福音を伝えていないでしょう。」と言って、その教会員が動揺して「どうなんですか?」と尋ねてきたことがありました。まあ確かにこの牧師の雑記帳やサーキットを読まれれば保守福音派ではないといえばその通りですし、それをリベラルと言うのならそれもその通りです(苦笑)。しかし、キリスト教の中心である聖書の権威、教理を否定したことはありません。福音を語らない牧師は牧師ではないし、福音の無い教会など本来無いのです。福音とは神の人類救済であり、イエス・キリストの十字架による赦しと復活への希望ですから、それを語らないわけがない。十字架、復活、受胎告知、聖霊降臨、、、どれをも大切に思い説教しています。
しかしそれにしても人のことを偏見を持って見、レッテル付けする人が多い。それは何故かといえば、自分達が正しいと思っているからであり、自分達の利益を守る為に他者に排他的に接しているからです。これぞ自己義認の罪と言わずして何と言いましょう。何だか明治の弁士みたいな言い回しになりましたが、本当に人を理解するのはその人と直接会い、話し、或いはその人の書いたものを読みなどして、関係を築かなければできないのではないかと思います。
アメリカに来たばかりの頃の私は、勿論、それまで父の教会しか知らなかったこともあり、日本基督教団が日キと呼ばれていること、その意味合いが、福音派の方には「福音的でない。リベラル=悪い」というものであるということも知りませんでした。アメリカに来てそれまで出逢わなかった福音派の人達に出会い、私自身、逆差別、偏見を彼らの一部にではありますが、持つに至ってしまったことを悲しく思います。
差別偏見というスクリーンで人を見るのではなく、誰とでも一人の人として出会い、その人の美徳を学んだり、欠点はお互いに戒めあえる関係ができれば良いのですが…。