2003年6月24日 11:15 AM
前回の投稿以来、何と2ヶ月も経ってしまいました。牧師として仕える傍ら、昨年9月より学生に戻り、ようやく1年(秋の学期と、春の学期)が終わりましたが、期末論文提出に四苦八苦しておりました。同じように勉強に精を出している学生の皆さん、或いは働きながら学んでいる勤労学生の皆さんのご苦労、心からお察しします。
さて私が昨年、コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジの博士課程に入学が決まって学び始めて以来、よく「なんで今更、学校に行くのですか?」という質問を受けます。特に日本人から。アメリカ人はお世辞もあるでしょうけれども、「おお、それは素晴らしい!頑張って下さい。」とか身近な教会員ですと「I am very proud of you。」と我が事のように喜んでくれます。これは実に面白い傾向だなと感じました。
確かに牧師という仕事は企業戦士ほどではないけれど、定収入もあり、アメリカでは牧師の社会的地位、信用は高い。学歴も牧師は修士が前提条件ですし、なぜ今更勉強をするの?という疑問も出るかもしれません。でも、それは牧師一般に対する認識であり、見た目、形の上で物事を考えているような気がします。私という一個人が何をしたいか、学びたいか、何故、学校に行く必要があるのかという、個人の内在的欲求や向上心、探究心には疑問が及んでいません。
またアメリカでは一度社会に出て、何年かしてから学校に戻り、更に上の学位を取ったり、人生をやり直したりするということをかなり多くの人がしていますが、日本ではまだまだ難しいという現状があり、それが多くの人の考えに作用しているのも事実でしょう。
しかし学校に行く、行かないは別にして、人はいつまでも学び向上すべきだと私は思います。さもなければ安定にどっぷりと浸かって、何ら人間的に成長しないまま歳だけとってしまうことにもなりかねない。私の場合はたまたま、大学以前から学んできた美術と神学校で学んだ宗教との関わり、歴史、美学などをもっと深く学びたいという、ずっと持ち続けていた希望を叶える為に学校で学ぶことを選択しましたが、専門分野に限らなければ学ぶ場所は沢山あると思います。教会で持たれる聖書研究会、コミュニティー・スクール(地域、社会学校)やサークル活動などなど。
更に言わせていただければ、私は元々教育伝道に招命を受けました。ですから教育に関わる為に更に学ぶということは自分のキリスト者としての歩みにとって必要不可欠だと思っています。
皆さんにも皆さんが生涯を通して打ち込める物があることでしょう。それを続けていくというのは実に大きな恵みであり、学びだと思います。また楽しいし、充実感が味わえる。だから私は学び続けたい。自分でもよく学校に行くなあ、、、と苦笑することもしばしばですが。
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2003年4月23日 8:13 PM
コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジで取っている宗教教育のコースで1893年にアメリカのシカゴで世界宗教会議(The World Parliament of Religions)が開かれたことを学びました。Diana L. Eck著、Encountering God(1993)Boston:Beacon Press.というテキストの1章ですが、何と今から100年以上も前に、キリスト教(プロテスタント、カトリック)、ヒンドウー教、イスラム、ユダヤ教、仏教など世界宗教の代表が集まり、それぞれの違いを認識すると同時に歩み寄りの為の話合い、勉強会、議論の時間が持たれました。
残念ながら、その試みはその後継続されず、アメリカはアジア系の移民の受け入れ制限、市民権の授与拒否、差別という歩みを何と20世紀半ばまで続けました。キリスト教の名の下に他宗教に排他的になったり、他民族に対して差別をしたりはその後も形を変えながら今に至っています。今回のイラク戦争をキリスト教対イスラム教と見るのは思慮の無い浅い見方ですが、残念なのはアメリカの一般キリスト者の多くが愛国精神の元、この侵略戦争を肯定してしまったことです。
一方そのような差別や不義を正す力もキリスト教の中にあります。100年以上も前に積極的に他宗教と対話を持とうとしたキリスト者達、それは少数派であったかもしれません。しかしその精神は今でも確実に受け継がれ生きています。私の理想としているキリスト者の姿は多数派の権勢に驕らず、少数派であっても、他者(他宗教、他民族、多文化)と共に生きることです。
私は寄らば大樹の陰的生き方は潔しとしません。人数を持って力で押し通すようなやり方には賛同しません。国であっても、教会であっても。
昨今、キリスト教会が保守化して時代に逆行していることを感じ、深く憂いています。
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2003年4月5日 10:09 PM
ハッキリとお断りしておきます。聖戦などと言うものは存在しません。人類の歴史の中で宗教上の理由から戦争が始まり、聖戦と呼んだものがいくつもありますが、これはみな時の為政者、支配者達の欲、人間的、政治的なものから起こされた戦争です。東ローマ帝国(ビザンチン)を脅かしたイスラムの台頭、聖地奪回を掲げたローマ法王とヨーロッパ諸侯による十字軍などは正に、時の支配者の勢力争い、侵略戦争の見本です。
ヨーロッパの植民地主義侵略にキリスト教が利用された悲しい事実も侵略戦争に宗教が利用された典型的な例であって、聖戦ではないのは明白です。
日本でも形は違いますが、古くから仏教寺院が僧兵集団を養い、朝廷に力で彼らの要求を認めさせた「強訴」や一般農民、町民を先導して起こした一向宗一揆などがありましたが、これも寺の指導階級、時に飢えた農民、町民と権力者の争いであって聖戦ではないのはお分かりいただけるかと思います。
クリスチャンである皆さんは、今行われているイラク戦争もアメリカ、イギリスなどの、石油や中東情勢を巡る政治的思惑、ブッシュ大統領の無分別、フセイン大統領の独裁政権という諸原因によるものであって、決してキリスト教国アメリカ、イギリス対イスラム教の国イラクの戦いではないことを良く認識していただきたいと思います。因みにアメリカは確かに数字の上ではキリスト教が多数派ですが、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、ブードウーなど様々な宗教が存在しており、決してキリスト教国だとは言い切れません。
ブッシュ大統領は私が属しています、米国合同メソジスト教会の会員だそうですが、メソジストのビッショップ(指導者達)が反戦の手紙を出したり、対話を求めたにも関わらず、一切拒否しました。メソジストがかつてのカトリックのように権威、権力があるならとっくに罷免、追放しているところです。少々過激になりました。話を元に戻します。ブッシュ大統領がどれほど、ミーティングの前にお祈りをしようと、スタッフにクリスチャンを集めたり、著名な牧師に意見を仰いだとしても、イコール、キリスト教とイスラム教の戦いにはならないことはお分かりでしょう。
マタイ7:21にこう書かれています。「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである・・・。」
今はイラクの一般市民からこれ以上犠牲者を出さない為に、まるで戦時中の日本兵のように何も知らないで戦っている18、19、20歳などのアメリカ、イギリス兵が無駄死にしない為に、この醜い戦争がより早く終結するよう祈り、世界中の人々が力を合わせていくしかない。哀しい限りです。
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2003年3月6日 9:39 PM
私は元々アメリカに美術を学びに来ました。世界的な芸術家になってニューヨークを中心に個展を開き活躍する、、そんなことを思い描いて、美大に入りました。ニューヨークでまあまあ知られた美大を2つ卒業しましたが、在学中から画家になるということに迷いが生じました。それは分かっていたことでしたが美術の世界も資本家によって回っており、画家も美術で生活の糧を得ることを考えたら、資本家の好む絵を描かなくてはならない現実に何だか自分が資本主義に迎合していくように思えたからです。
あの頃の私はかなり思い上がっていたようで、小生意気な学生だったと思います。英語がちょっとできるようになると有頂天になったり、学校でちょっと認められ賞を貰ったり、優秀学生に選ばれると「俺には才能がある」とのぼせ上がったり。美大と美大の間に1年間、日本で働いてお金を貯めていましたが、よく友人と酒を飲んでくだをまいたり、色々失敗したりもしました。
失敗したり、挫折しそうになって将来に対して不安になったりし、改めて自分の信仰を見つめました。同じ時期にニューヨーク日米合同教会が主催していた小中学生対象のサマーキャンプに出会いました。1980年代最初の頃です。こんな私でしたがリーダーの一人として連れて行ってもらい奉仕させていただきました。このキャンプは合同メソジスト教会のキャンプ場を借り70人のキャンパーと10名のカウンセラー、リーダーが3週間過ごすというもので、聖書の話、ゴスペル・ソング讃美、日本語の勉強(日本から学校の先生がカウンセラーとして参加していた)やスポーツ、諸々のゲームやプログラムを毎日して、今でもこれほど質の高いキャンプは無いと思える素晴らしいものでした。
そこで、それまで聖書や祈りと全く無関係に育ってきた日本人の子供たちが、心開かれ、御言葉に触れ、変えられていく姿を目の当たりにしました。例えば、食堂でグループごとにテーブルに着きますが、初めの頃は、まず自分が人よりも先に食べ物を取るこが多くいました。しかも他の子のことなど考えずに大盛りによそい、後の子達の分がなくなり、食事が始まる前からキッチンにお代わりを取りに行かなくてはならなくなってしまうということがありました。それがキャンプの後半になると、自分よりも小さい子に譲ったり、カウンセラーに譲ったりと、周りのことに配慮するようになりました。我侭な自分から他者と共に生きる自分に目覚めたわけです。祈りなどしたこと無かった子が、ホームシックになった友達のために祈ったり、恵まれている自分達に気付き、親に感謝したり、アフリカやアジア、南米の恵まれない子供達のことを考えたり、、、。
そんな子供達にカウンセラーやリーダー達も逆に影響を受け変えられました。勿論、私もその一人。それまでの思い上がった自分に気が付き、もっと純粋に生きたいと思いました。そして「キャンプでの伝道教育、これこそが自分に与えられた道」だと思いました。数年後、私は神学校に入学しました。キリスト教教育に関わる召命を確信して。
紆余曲折しながらも2つの神学校を卒業しました。しかし神の不思議な召しで教育伝道から教会での牧会へと導かれました。しかも最初は日本人伝道をやろうと立ちましたが、またまた不思議な導きを感じて、米国合同メソジスト教団に属し、牧師試験を受け正教師となり、現在のパークリッヂのアメリカ人の教会に1995年に遣わされました。アメリカ人の教会の牧師としてお遣えする傍ら日本人伝道を続け現在に至っています。その間、いつも教育伝道が頭にありました。
「学校に戻って教育を学びたい」と思っていはいましたが教会の仕事が忙しく、また楽しく、延び延びになっていました。パークリッヂに来て7年、そのまま何も無ければ、ずっと「勉強したいなあ」という思いを抱えたまま何もせずに一生過ごしたかもしれません。ところが一昨年の9月11日のテロ事件が起こりました。キャンプの教え子のお父さんが亡くなりました。このことが切っ掛けで、人の心を本当に変えるのは神の救いだが、そこに至るまでにはもっともっと種まきが必要であり、教会で福音を述べ伝えるのは勿論だが、できたら早い時期から始めた方が良い。「やはり自分がすべきことは教育だ。」と初心に立ち返りました。
昨年9月から仕事をしながらですが、学校に戻りました。現在、コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジの教育学博士課程に籍を置いてますが、これまでの道のりを考えると、一つ一つ神によって備えられていたことを感じます。あと何年で卒業できるか分かりませんが、いつかは教会は勿論のこと、キャンプや学校、神学校でも教育伝道に携わりたいと願っています。
時折、かつてのキャンパー達からメールを貰ったり、便りを貰ったりしますが、もう彼らもすっかり大人になり、子供がいる人たちも珍しくありません。できたらかつてのキャンパー達の子供達のためにキャンプを作れたらいいな、と考える今日この頃です。
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2003年2月28日 6:48 PM
私は夏に時々Berkshire Institute of Art and Theology(バークシャイヤー美術神学院)の宗教と美術のプログラムに参加します。そこは音楽や美術と宗教との関わりを掘り下げるプログラム、例えば「音楽の中に表現されているキリスト教」とか「絵画と宗教」とか非常に面白いプログラムをしています。主催している理事会はプリンストン神学校の教授だとか音楽家、芸術家で構成されており、世界的に有名な音楽家のヨーヨーマも理事に名を連ねています。バークシャイヤーはボストン・シンフォニーが毎夏主催している野外コンサートの会場があるタングル・ウッドも近いので、音楽を鑑賞して学ぶというプログラムは特に充実しています。
さて何年か前の話ですが、そのバークシャイヤーでアメリカ人(白人)でインド音楽を専攻し、インドに留学をしてインドの伝統楽器シタールをマスターし演奏家として活動する傍ら大学で教鞭をとっている方の講演がありました。その先生のシタールの名演に感動をすると同時に、彼の深いインド哲学、文化理解にも感銘を受けました。講演会の終わりに、聴衆との質疑応答があり、様々な質問が出ましたが、その折に私も質問をいたしました。「博士(因みに彼はインド音楽で博士号を取っています。)、西洋人として全く違う文化風習の国で宗教や音楽を学ぶにあたり、もっとも難しかったことは何ですか?」と尋ねてみました。勿論、私は音楽的なこともですが、風習の違いとか、言語とか色々あるだろうな、、、と想像していましたが、その時に、返って来た答えが「謙虚になること」でした。英語でModestyと言われた後、更にTo Be Humble is,I believe,the most difficult task for the Westerners.と言われました。
私はその答えに更に感銘を受けました。正にその通りだなと思いました。私も含め、一般的に人はどうも謙虚になるということが難しいようです。一見、謙虚を装っていながら実は傲慢な態度が目に付く方も結構多いような気がします。そういうのを慇懃無礼というのでしょうか。クリスチャンになるということは本来、イエスに倣い「謙(へりくだ)る者」になるといういうことだと私は思っていますが、なかなかこれが難しい。アメリカで言うメインライン(大きな古くからある諸派、例えば改革派とかメソジストとか、長老派)の人たちも、福音派と自称している人たちも傲慢、尊大になってしまいがちです。
メインランドの人たちは信仰を知的に理解しようとする傾向がやや強く、牧師たちは神学校で小難しい勉強をします。そうすると知的に高いことを「良し」として、敬虔さや聖霊体験などをちょっと小ばかにしたり、「保守的」「独善的」と批判する。また福音派と呼ばれている人たちの中には、そう言ったメインラインの教会を「頭ばかり」とか「リベラル=急進的」「信仰が薄い」と非難したりする方がよくいます。私も出身学校の故にそういうお批判を頂くことがたまにあります。しかも私の説教や神学、人物を知らないはずの人たちから。それら批判をする方々の中には自分が正しいという思い上がりが潜んでいるわけですが、それは本人には分からない。
先日、コロンビア大学の宗教の授業の後、クラス・メートの一人からいきなり「Are You Born Again?(あなたは、生まれ変わりを経験しましたか?)」と訊かれました。私は思わず「うわっ来た!」と思いました。誤解の無いように。私は本来、クリスチャンであるということはBorn Again(生まれ変わった者)であるべきと思っています。これについてはまた別な機会に、或いはサーキット・ライダーで述べたいと思いますが、何故私が上述のような反応をしたかと言うと、今「Born Again」を名乗っているクリスチャン達の多くが他者を裁く人たちだからです。
彼らはヨハネの福音の3章3節「人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」と5節「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国を見ることはできない。」を根拠に生まれ変わり(Born Again)を主張します。それ自体は正しいことなのですが、問題はその後。「もしあなたがBorn Againを経験していなければ、あなたはまだ救われていない。」とか「あなたはまだ本当のクリスチャンではない」と既に洗礼を受け教会に連なり、信仰生活をしている人でさえ批判してきます。確かにキリスト教が文化、風習になってしまっている今日のアメリカの教会にあっては、本当に回心し信仰をもつに至っていないクリスチャンも多く存在します。しかしだからといって、彼らが他者にたいして「あなたはまだ救われていない」とか「本当のクリスチャンではない」と裁いていいことにはなりません。
その姿勢に見られるのは彼らの傲慢、高ぶりであり、救われて「仕える者」になる代わりに神の座に着いて人を裁いている姿です。人(魂)の救い、誰が救われ、誰が裁かれるかは神の業であり、人のすべきことではありません。「自分達が聖霊体験をした。」それは神の恵なのですから、それを感謝しこそすれ、人を裁く為にそれを用いてはなりません。私は、そのクラス・メートに「あなたはイエス様に救われて、幸せでしょう?だったらあなたのすべきことはその喜びを隣人に分かち合うことであり証しすることではないですか?」と言って「私はそうしたいし、そうありたいと願っています。」と応答しました。
家庭の裕福さ、学歴、地位、名誉、国籍、そして宗教体験でさえ人のあかになってしまい、人を傲慢にしてしまう、、、謙虚になるということはなんと難しいことでしょう。
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2003年2月21日 9:10 AM
子供の頃、21世紀はどのような時代になるだろうと想像して、さぞ高度の文明を築き上げ、貧しい人もなく戦争など全く過去の話になっているだろうなと思っていました。そこでは人々は楽しく、自分の夢を追い求めるような生活ができる、、、と信じていました。まあナイーブな思いでした。
実際には21世紀になって時代が逆行しています。中東も平和協定に何度も達すると思いきやそれが破棄され、パレスチナ人の自爆テロ、それに対してイスラエルは制裁を繰り返している。2001年9月11日のテロ以来、ブッシュ大統領は元々好戦的だったところへもってきて、恐怖心から逆上してしまい更に戦争によって世界を治めようという姿をさらけ出しています。アフガニスタン侵攻から今度はイラク。昨年のState Of Union Address(何故か訳は「一般教書」)では、悪の中枢としてイラク、イラン、北朝鮮を挙げてしまった。イラクは今攻撃準備中。恐らくは北朝鮮は色々な政治取引などの思惑はあるものの、次は「我々がやられるのでは」と窮鼠猫を噛む式に逆上、原発、原爆開発を急遽再開したのでは、、、。それぞれの指導者を見ると「愚かな為政者は国を滅ぼす」という格言を地で行っているようです。
さて、ここからが本題。このような状況にあって教会はどうあるべきか。牧師、信徒の立場は。アメリカでは法律で政教分離が制定されており、宗教は公的機関、公立学校や公の場では語られないことになっています。また教会の中でも色々な立場、思想の人たちが集まっているので、政治的な話、特に民主党或いは共和党にどちらかに偏る内容はタブーとなっています。共和党はブッシュ大統領の出た党ですから好戦的。民主党も今は骨抜き状態で真っ向から反戦をうたっていない。
このような状況の中でどのように自分の反戦という信念を伝えるか。私はいつも「あくまで私個人の考えであり、立場である。」ということを強調した上で、反戦をかたり、政治的なことを語ります。牧師=教会と思われがちなので、「個人の」を明言します。特に個人主義の国アメリカだから、尚更そうしなくてはならないと思っています。
教会の中心は礼拝です。礼拝は神を讃美し、聖書の話を聞き、自分の生き方、信仰を考える、言わば神と信徒との交わりの場です。その意味では、礼拝を牧師個人の考えで、政治の場、社会問題を語るだけの場にしてはいけません。ただ敢えて言わせて頂ければ礼拝は礼拝としてきちんと守った上で、上述のように「個人的に」憂うることを伝えるのは構わないと思っています。報告の場や交わりの場で。また雑談の時に。私は時々説教の中でも、反戦、貧困、富める国アメリカ、日本の問題を語りますが、一応、「これは私の思いである」と前置きします。本当はそんなまどろっこしいことを一々しなくてもいいのではと思いつつ。
イエスの説いた愛、平和、正義、神の国などを考えていけば、当然、反戦が出てきますし、貧困に対して、富める人が何をすべきかも書かれています。牧師はそれを語らなければならない。信徒はそれを受け止め自分の生活の中で実践していかなければならない。子供たちにも物事の善悪を教える。殺人がいけないということを教える。戦争も殺人に他ならないと教える。そうすることによってより良い社会作りに参加していく。気の長い話です。キリスト教の理想とはこうした草の根的な展開によってしか実現できないのではと思います。
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2003年2月17日 9:45 AM
最近、同じ町にある組合派教会(UCC)の秘書をしているPatというご婦人から連絡を頂きました。「是非、見てもらいたいものがあるから、時間を取っていただけますか?」とのこと、早々に出かけて行って見せて頂いた物は、なんと日章旗。しかもただの旗ではなく、第二次大戦中に徴兵で出征した兵士に、友人、仲間達が寄せ書きしたものでした。兵士の名は渡邊綱吉。寄せ書きには「友よ、死んで帰れ」だとか「皇軍に敵なし」「忠、力、義」とか戦時中の天皇を祭り上げた軍国主義日本一色でした。
何故この旗がアメリカ人の家にあったのか?Patさんの伯父さんが第二次大戦の帰還兵で、その彼がソロモン群島のガダルカナルから持ち帰った物でした。ガダルカナルと言えば日本とアメリカ双方多大な犠牲者を出した激戦区。つまり上述の渡邊さんはそこで戦死したわけです。そこで彼が身につけていた日の丸をアメリカ兵が持ち帰った。それが60年経った今になって日本人の牧師である私の所に来た。正しくは一時預かりですが、Patさんは私が注釈して旗の意味を知るや「これはできるなら遺族に返したい。」とおっしゃって下さいました。
60年前の日本は軍部独裁政権下、正に今のCラクや北朝鮮(或いはアメリカ)に似ており、一般国民は事実を何も知らされていませんでした。一方的に天皇は現人神、天皇の国は神国、その群は皇軍、迎えるアメリカや欧州は「鬼畜米英」と教えられ、多くの若者が「天皇の為、お国の為、愛する人の為」と戦争に駆り出され死んでいきました。まだ二十歳前後の将来ある若者達、これから恋をして、結婚して、家庭を築いて、、、という幸せを愚かな独裁者、政治家、指導者によって奪われてしまいました。
今また愚かな指導者、独裁者によって同じ悲劇が繰り返されようとしています。全く罪の無い、何も知らない市民、女性や子供など弱い立場にいる人たち、戦争に駆り出される兵士達の命が危険にさらされています。
渡邊綱吉さんの出征祝いに送られた日章旗が悲しく「同じ過ちを繰り返さないで!」と訴えています。
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