高慢と嫉妬
2006年9月22日9月初めに開かれた東部合同ファミリー・キャンプで、メイン・スピーカーだった福島第一聖書バプテスト教会牧師、佐藤彰先生と牧師会や会期中の自由な交わりの時間に質問する機会が幾度か与えられ、佐藤先生に以下の質問をしました。「人がクリスチャンになる、信仰を持つにあたり、何が一番大きな障害ですか?」また「クリスチャンの霊的成長を邪魔するものは何ですか?」。これは実はどちらも同じ内容の質問です。
「信仰を持つこと」「信仰者として成長すること」を邪魔するものとして、佐藤先生は男性は高慢、女性は嫉妬を挙げました。これは勿論、一般に男女平等ではない社会、男中心の社会でという前提でですが、男性は仕事をし、だんだん重い地位着くようになる、社会的にも責任ある立場になる。それ自体は悪いことではないが、だんだん「自惚れ」がその人の中に忍び込み、いつのまにか「自分は地位も名誉もある。」=「自分は偉い」と言う思いになる。そう言う人は「宗教なんて、弱い人間、ダメな人間が信じる物だ」と思い込む。確かに社会で活躍している人には、傲慢な感じを与える人、尊大に振舞う人が少なくありません。これは実は男性だけでなく、女性でも同じことが言えます。キャリア・ウーマン(やがて死語になると思いますが、何とも変な形容詞ですね。)としてもてはやされている女性はどことなく、横柄な態度、言葉遣いをする人が多いような気がします。自分は何でもできる。男とも対等にやれる、どころか、負けない。という思いを前面に出している。(絶えず男と比べられること自体、女性に不平等な社会ですが、そんなところで自分を出さなければいけないことが哀しい。)
女性は嫉妬する。自分と比べて、他人の方が幸せそうに見えると悔しがったり、羨んだり。しかし、これは男性も同じ。自分と同期が会社で役職についた時、素直に「おめでとう」と言えるでしょうか? 自分と比べて、何でも判断する。これは人間の愚かな性です。見栄を張ることも同じ。自分がどれほど裕福か、お金が有るか、学歴、社会的身分があるかをひけらかす。ハッキリ言って、こういう人は、心貧しき人。夫が会社の役員で自分は会社の役員でもないのに、夫の部下、彼らの妻たちに、さも自分が役員(部長だったら、部長のように、専務だったら専務のように)振舞う。自分の夫がドクター(博士、医者)だと、さも自分がドクターかのように知ったかぶりをする妻。正に虎の威を借りる狐とはこういう人のことをいうのか、という見本です。そう言う人には「あなたは一体何ですか?」「あなたは何ができるのですか?」と問いただしたくなります。自分に自信のない人ほどそういう外的要素に頼る傾向があるように見えます。上述の高慢、傲慢になる人達も、実は本当に何ができるのか、自分に問いただしたら、案外何もないとたじろいでしまうような人が結構多いのではないでしょうか。
確かにこうして考えてみると男性でも女性でも高慢、嫉妬はその人の信仰のみならず、人としての成長を妨げる要因ナンバー1,2かもしれません。 本当に自分に自信がある人はひけらかすようなことはしませんし、自慢するような愚考、野暮もしません。神様も同様に人の外見、外的に付いた肩書きやお品書きを見るのではなく、人の内面、中を見ます。
「容姿や背の高さに目を向けるな。わたし(神)は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主(神)は心によって見る。」(サムエル記上 16:7.)
あなたは自分自身をどう見ていますか? 学歴や役職、肩書きを一切剥ぎ取った時、あなたは何ができますか? あなたは何者ですか?