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聖書のつまみ食い

2006年8月23日

 私が気になる聖書の読み方に「つまみ食い的読み方」があります。これは、例えば何か困難にぶつかった時、人生の分岐点に来てどちらを選択するか迷った時、辛い事があった時など、「自分に示されている御言葉は何かしら?」と聖書をあちこち開いて、自分にピンとくる聖句を選ぶやり方です。この読み方はテレビ伝道者や著名な説教者にも見られます。

 私も自分が何か迷っている最中に急に心の中に御言葉が湧き出ててきて慰められたり道を示された経験をしたことが何度もありますので、このやり方が必ずしもいつも間違っているとは言いません。しかし、それは啓示されたのであって、自分であちこち開いて自分にピンきた聖句を「これが与えられた!」と言うのとは違います。前者と後者の違いがお分かりでしょうか? 前者は聖書の言葉が直接示されたのに対して、後者は「神から示された」と言いながら実は自分で自分にピンと来る、もっとハッキリ言うと都合の良い御言葉を選んでいるのです。前者は直接的な神の慰め、啓示。後者は自分の思いに御言葉を当てはめている。

 聖書はおよそ1000年に渡り多くの著者、預言者、編集者が神の啓示を受けて書いています。その背景にはイスラエルの民が経験した出来事、繁栄、政治的混乱、亡国など様々な要因があり、時代によって神から受けた啓示も全く違います。一例を挙げます。出エジプトから40年経ち、約束の地に入ったばかりのヨシュアが率いるイスラエルは上昇気流に乗り、万軍の主に励まされ、もの凄い勢いがあります。その中で敵を打ち破り、滅ぼしていく。そこではイスラエル至上主義、繁栄を預言する言葉が与えられています。一方イスラエル王朝の滅亡に近い頃になると、イザヤ、エレミヤなど預言者達はイスラエルの人々の不信仰を諌める言葉が告げます。神の御言葉もそれを聞く人々のいた時代、受け止め方によって随分と違っています。ローマ帝国に支配され、ヘロデの傀儡政権下にあった新約聖書の時代もしかり。選民イスラエルだけが正しいと主張する代わりに、異邦人への宣教が始められた。イエスの時代ではもはやヨシュア記のような他民族を滅ぼせなどということは言えなくなります。現代の私たちがそういった時代背景を無視して、聖書の一節、例えばやある異端クリスチャンのようにヨハネの黙示録の7章を取り、救いは選ばれた民のみと主張し続けたらどうでしょう?恐らく多くの人が私たちの言葉を聞いて嫌な思いをしたり、躓いたりしてしまうのではないでしょうか?

 もう一つ例を挙げます。2000年の昔ローマ時代には奴隷制があり、裕福な人々は奴隷を所有していました。しかし奴隷制は本来罪であり存在してはならないものです。しかし19世紀の南北戦争までのアメリカ南部の裕福な家々(クリスチャン)は自分に都合の良い御言葉(ガラテヤ3:26-29、エフェソ6:5-9他)だけ選んで奴隷制を肯定しました。聖書は取りようによってはいくらでも自分の都合の良い解釈ができるのです。

 またクリスチャンの女性の中には恋愛や結婚、離婚、家庭などで悩んでいる方たちが結構いるようですが、アドヴァイスは同じ。聖書を学び、聖書の時代、歴史や女性の立場をより深く理解した上で御言葉を読んで下さい。旧約、新約の時代は女性の身分、地位が低く、女性は一人では生きられない時代であり、仕事をして自立するなんて考えられなかった時代です。そういった時代に未信者と結婚したクリスチャンの女性が、離婚した場合どうなったかを考えれば、夫が未信者でも離婚はなかなかできませんでしたし、指導者パウロも離婚を簡単には勧めていません。(1コリント7:8-16)何故なら離婚は即明日からの生活ができなくなることを意味していたから。しかし、信仰が無い人――自分の最も大事にしているもの、生き方、主義主張が異なる人――との結婚を勧めているわけではありません(1コリント6:12-20)。同じコリントの手紙でさえ、全く違う解釈、見解が書かれています。

 ですから聖書は最初から最後まで通して読むこと。主題学習的聖書研究、つまりあちこち取り上げて一つの主題を学ぶやり方も、入門編としは悪くはありませんが、いつまでもそのやり方ではやはり深い学びはできません。より聖書理解する為に歴史的、社会的背景をちゃんと学ぶことを心がけ、自分勝手な読み方、つまみ食いのような読み方は是非改めて下さい。



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