張りぼての家~外見満点、中身零点

2004年9月30日 10:42 AM

 しばらく雑記帳から遠ざかっていました。今回はアメリカ、少なくともニューヨーク近郊に見られる土地バブル、建築バブルについての一考です。

 私が住んでいますパークリッヂはニューヨーク、ジョージワシントン橋から30分の距離にあるニュージャージー州の町で、中間型郊外と私は呼んでいます。郊外でもより都会に近く、都会のベッドタウンになっているところは都会型郊外。パークリッヂよりも更に郊外で農家が多く、敷地も広い地域を田舎方郊外とします。

 ここ数年パークリッヂをはじめ都会に通勤できる地域に敷地に合わない、不釣合いに大きな家が建ち始めました。業者が古い家を敷地ごと買い取って、その後、庭とのバランスを無視した大きな家を建て、若いカップルや家族持ちに売っています。つい5年ほど前まではパークリッヂでもそこそこ広い庭付き一軒家(リビング、ダイニング、キッチン、バス、トイレ、3ベッドルーム、ガレージ)が25万ドルから30万ドル(日本円で3000万円から4000万円)で買えました。今は庭のサイズは同じでも、馬鹿でかい家(広すぎるリビング、ダイニング、5~8〔時に10〕ベッドルーム、2~3バス、3~5トイレ、ガレージ)が100万ドル以上(日本円で1億円以上)で売り出されています。

 ここ数年、アメリカも不況だったため、超低金利政策を取って来ました。その結果、ローンを組んでも利子を殆ど支払わなくてもよくなり、建築業界は恩恵をこうむって宅地ブームになりました。郊外の家を買っているのは不況にあまり影響を受けない若手エリート達やITや株式で儲けている人たちですが、問題は家族の人数。上述のような部屋が幾つもある家に住んでいるのが夫婦2人きりであったり、日本ほどではないにしても少子化で一世帯3~4人という光景がごく普通に見られます。

 世界が資源を大切にしなくてはならない時代に、しかもアメリカが引き起こしたイラク戦争によって、原油価格が以前よりも更に高騰し石油の値段が上がる一方だというのに、暖房費がやたら高くつく大きな家に住む。またそういった家族にかぎってSUVのような大きく燃費の悪い車を乗り回している。自己中心の極みとしか言い様がありません。

 もっと滑稽なのは、家の外観です。近所のあちこちで家を建てていますが、基礎工事も地震の多い日本に比べると、いい加減。その上にまるでレゴのブロックを積み重ねるように木造屋を建てていく。その安っぽい建て方は、三匹の子豚、ブーフーウー?の藁の家、木の家、レンガの家を思い出します。狼が来て「フ~」と吹くと藁の家も木の家も吹き飛ばされてしまう。正にそんな感じです。しかしながら更に始末に悪いのは、その先で、木造で骨組み、壁が全部できたら、レンガとか石のパネル(出来合いの外壁)を張っていくことです。偽物のレンガが手際良く貼られ、出来上がってみると一見、豪華で堅固なレンガ作りの家に見える。驚く事にこの辺の1億円の家の殆どがそのような安っぽい作りなのです。

 一体、何故そのような偽物のレンガ、石の家に1億も出すのか、何故、木の仕上げにしないのか、そのような下らない見栄を張る必要があるのか、私には解りません。

 子供の時、「見かけ満点、中身零点!」という直接的な批判の言葉を親や友人から聞きましたが(私のことを言ってた訳ではありません、いや・・・もしかしたら、私の事だったのかも)、アメリカの建築バブルを見るにつけ、その言葉を思い出します。

 人の生き方も同じ。外見を気にするのは男も女もなく、人間の性質ですが、中身を磨かないと、若いうちは外見でちやほやされたり、皆から見られたりもしますが、歳を取ってくると、そういった要素はあまり重要ではなくなります。

 寧ろ、元々のルックスは世間の評価からすると地味、或いは全く目立たなかったが、中年になって、それまでの勤勉な生き方、物事に絶えず興味を持つ姿勢、新しい事を学ぶ意欲、また積み上げてきた様々な経験が中からジワッと出てきて、とても良い顔、ルックスになっている人によく出会います。そのような人は話をしたり、交流することによって他者をも豊かにしてくれます。

 小さくこじんまりとした家でも訪問すると快適で過ごしやすかったり、その家の主は客を温かく持て成してくれると心が温かくなります。これは家の大小ではなく、そこに住む人の人格、優しさだということは皆さんお分かりだと思います。大きな家でそうなら言う事はありませんが。とかく私達は大きいとか小さいとかサイズだけで目がふさがれ、価値を判断してしまいます。が、大切なのは中身、ではありませんか?

Fahrenheit(華氏)911を観て

2004年7月8日 8:42 AM

 先日、カンヌでグランプリを取ったマイケル・ムーアの映画、Fahrenheit 911を観てきた。「でかした!」或いは「してやったり!」と観終わった時、殆どの観衆が思ったのではないだろうか。久しぶりに映画館で映画終了時の拍手を聞いた。思わず自分も拍手していた。

 この映画はブッシュ大統領がいかに思慮浅く大統領としての資質に欠けているか、また彼を含め今のホワイトハウスのスタッフがサウジアラビアの石油長者達と密接な関係があるかを驚くほどの手腕で描いている。映画の初めから4年前の大統領選挙では民主党の候補ゴア副大統領が実際には勝っていたであろうというブッシュ批判に始まり、ブッシュの若い頃から現在に至るまでの無能ぶりを「これでもか、これでもか」と訴えている。またイラク戦争が全く事実無根の民衆操作の上に成り立っているということも主張し、戦争で犠牲になったイラクの市民、アメリカの若い兵士達、その親の悲しみを描写し、観ている者を更なる憤り、悲しみへと誘う。

 映画の中では、以前読んだムーアの本(タイトルは忘れました)の中に書かれていた驚くべき事実も出てきた。911以降、アメリカがNationalismに走りA警備を厳重にしているが、実は巨大資本との癒着で、一方ではセキュリティーを厳重にし、飛行機に色々な物の持ち込みを禁じながら、一方では「これは危ないのでは?」と思われるタバコのライターとかを持ち込ませる・・・といった事実も皮肉タップリに描かれていた。彼の前作の映画Bowling・・・は観ていないが、改めて観たくなった。近所のビデオ屋に行こうと思う。

 マイケル・ムーアの作品は当初ディズニーが配給元として全国の映画館に出す予定だったそうだが、内容が余りにも政治色の強いブッシュ批判の為、配給を取り止め、一時はお蔵入りする危険もあったと聞いた。しかしカンヌでグランプリを取り、ヨーロッパで絶賛の嵐が巻き起こり、今回の全国上映に漕ぎ着けたとか。何かと話題を提供する。しかしよくよく考えればディズニーもマイケル・ムーアが作る映画なのだからミッキー・マウスやドナルド・ダック、或いはファンタジー映画でないことは解りそうなものだが・・・何故、彼と映画配給契約をしたのか?途中で降板するくらいなら、最初からしなければ良かったのに、と思うのは私だけではあるまい。アメリカではディズニー・ランド、ディズニー・ワールドはフロリダとカリフォルニアにあるがフロリダはブッシュの兄弟が知事をしているし、カリフォルニアはブッシュびいきのアーノルド・シュワルツネガーが知事をしているから、圧力でもかかったのかなァと勘ぐりたくなる。

 それにしてもアメリカは面白い国だ。一方ではブッシュを盲目的に支持し、戦争を肯定する人間が沢山いるかと思うと、一方では真っ向からそれを批判し、戦争反対を叫ぶ人間がいる。日本もそういった人間がいないとは思わないが、いまだに「お上」の国(1ヶ月くらい前ニューヨークタイムズに掲載された記事で日本及び日本人をそう形容した。)でお偉いさん(ブッシュに頭が上がらない政治家、総理大臣)が何か言うと皆猫も杓子も無思慮にそれに従い右に倣えになる。イラクで人質になった人達が救われて良かったと思ったのも束の間「自己反省」が足りないとか「自己責任」を取っていないなどと言って、針の筵に座らせるような「苛め」「精神的虐待」を平然とする。情けないこと甚だしい。

 日本でも体制に右へ倣えではない、マイケル・ムーアほどウイットに富んだ批評家、ドキュメンタリー作家、映画家が出てきて欲しい。既にいるのであればどなたか教えて下さい。

 因みに私の母校の一つエール大学のコミュニティーではブッシュを初めから批判し、馬鹿にしていた。彼が大統領になってすぐ2001年の5月(9・11事件の前だが)エール大学の卒業式に呼ばれたが、過半数の教授、学生はその事に反対した。彼が呼ばれたのは一部の栄誉好き、金権癒着している者たちの意向だったのではと思えてならない。

 昨日、ラジオを聴いていたら、偶然マイケル・ムーアがゲストだった。話はFahrenheit 911についてだったが、司会者が「ブレアー首相についての批判映画などもお考えですか?」と訊いたところ、ムーアは「考えていないでもないが、ブレアーはブッシュと違って賢いから、失敗の後、そのままそれを放置しないので、難しいかなァ・・・」とコメントしていた。ムーアはブッシュとブレアーを兄弟に喩えて、ブッシュを7歳の弟、ブレアーを12歳の兄とした。「同じいたずらをしてそれが発覚した時、7歳児はことの重大さ、意味が解らず同じ失敗をするが、12歳の兄はその事に気づいて、うまく責任を弟におっ被せるでしょう。だから難しい。皆、お馬鹿な弟のせいにしてしまうからね。」とコメントしていた。私は思わず「そうだなあ。」と頷いて苦笑した。

人一人の命一億一千万円なり

2004年4月23日 3:52 PM

 今日のニューヨーク・タイムズの一面に最近日本で騒動になったイラクでの日本人人質事件が取り上げられていた。救われて無事生還した一般市民5名、取り分け最初に誘拐された3名が、ヒーローとして迎えられるどころか、「自省の念が足りない」と日本中で物議をかもし出していることに、ニューヨーク・タイムズの記者は驚き怪しんでいる。アメリカ人(少なくともニューヨーク・タイムズを読む人々)から見れば、彼らはイラクの市民支援の為にイラクに行き、そこで拉致され、解放されたのだから、もっと温かく迎えるべきではないかと書いている。しかし江戸時代から出来上がった、お上(為政者達)政治制度の中で、お上に迷惑をかけた人々は「国民の恥であり、国政にとって迷惑そのものである」と言わんばかりの政府高官、それに右へ倣えの多くの人々。誘拐された被害者はテロリストに監禁されていた時よりも、帰ってきてからの方が精神的疲労が高いということに、何とも言いがたい驚き、憤りを込めた記事であった。

 この話を聞くと、恐らく(敢えて差別用語で遣ってはいけない、この言葉を遣う)馬鹿な一部の人々(日本人)は「アメリカは自分達こそ戦争をしておいて何を言う!」と言うであろう。しかし私も日本人としてニューヨーク・タイムズの記事に賛成である。私は「裁くべきではない」と以前、このコラムで書いたが、このような被害者をいたわるどころか、更に傷を広げるような愚行、愚人どもには神の裁きを祈りたいくらいである。

 確かに人質となった3名は解放後、自分達の巻き込まれた(仕出かしたのではない、巻き込まれたのである。)事件の重み、日本中がそして海外のあちこちで彼らの解放の為に尽力を捧げた人たちのいたことを理解していなかった。その為、自分達だけが大変だったくらいに軽く考えていたのは事実であろう。しかし彼らは誘拐され、何も状況を把握していなかったのである。それなのに「反省が足りない」とか「自業自得」というのは、全く心無い、人の優しさ、配慮がない愚か者の言う事であろう。

 日本の文化、伝統、歴史、思想を形成してきた儒教、先祖からの教えに則って言えば、そもそも政府の役人及び為政者とは国民にとって親のような存在でなければならない。自分の子供が何か粗相しでかしたり失敗をして、その事の重大さに気が付いかず、周りから責められれば、身代わりになって謝罪し、子供にはそっと気づかせてあげるのが親心であろう。それをあからさまに不快な顔をして、叱責の言葉を公の場で発言すれば、愚人達は、いい気になって、追い討ちをかけよう。この愚人達はまだ被害者が解放されていない時から、家族に嫌がらせの電話を掛けたり、高遠さんのホーム・ページに悪口を書いたそうだが、全く赦せない行為である。

 昨日、日本の友人からメールが届き、今回の誘拐事件の解決にあたり、被害者一人につき1億1千万円、計5億5千万円が遣われ、更に飛行機のチャーター代に1億円を遣ったと書かれていた。人一人の命の代償として払われた額、1億1千万円に友人は憤慨していたが、私はこれですんで、自衛隊も引き返さないで済んだ日本政府は喜ぶべきであろうと思う。人の命は本来1億円では買えないし、価がつけられるものでもない。

 私は誘拐事件が起きた時、国際情勢、アメリカへの配慮などよりも、人命を尊重し、自衛隊の引き上げをすべきと思った。メンツがなんだ、テロに脅しに弱い国と思われるからなんだ、と思う。今のアメリカや日本のテロに対する姿勢を見れば、既に充分弱い姿勢をさらけ出しているではないか。だからこそ躍起になって「テロ撲滅!」と叫んで他国を侵略し、更に入国審査も異常なまでに厳しくしているではないか。

 疑心暗鬼であったり、弱者を虐めるような事を繰り返す限り、真の平和などありえない。一人一人がもっと労わる心を持つべきであろう。皮肉にも、テロリストが人質を解放する時に出した声明文に、彼ら3名がイラクの人民の為に働いたことを評価して解放する・・・ような文があったが、彼らの方が、まだ良心を持ち合わせているのではないだろうかとさえ思ってしまう。テロ、誘拐など絶対に赦せない行為のはずなのに・・・。現にニューヨーク・タイムズの記事に誘拐され監禁されていた時の精神的ダメージがレベル10だとすると、現在の日本での針の筵(ムシロ)状態がダメージレベルが12だという彼らを診察治療している精神科医の談話が紹介されていた。全くもってどうなっているのだろう、日本は、世の中は。

映画 Passion について

2004年4月1日 10:18 AM

 アメリカでは封切り前から、この映画のプロデューサーがハリウッドの人気俳優メル・ギブソンであること、残虐な拷問シーンや、映画の中でのユダヤ人の描写が「反ユダヤ感情を煽る」と何かと話題になりました。しかしこれはクリスチャン、ユダヤ教徒、イスラム教徒、他が共存するアメリカ社会、絶えず人種が社会の問題になる文化だから理解できる面があり、日本でこの映画を観賞した場合、恐らくは残虐なシーンは話題になると思いますが、反ユダヤ感情は恐らく理解しがたいのではないかと思います。一部の被差別者を除いて。

 この映画を観ての感想ですが、正直、「良い」とも「悪い」とも言えない複雑な思いです。クリスチャンとしての私は聖書のイエスの受難を幾度となく読み、また映画もいくつも観て来ましたので、Passionの中でイエスが苦しむ姿には何度となく涙がでました。しかし「この映画が聖書や歴史に忠実であるか?」と問えば、それは否です。例えば映画はゲッセマネでの祈りに始まりますが、そこでのサタンとのやり取り、蛇を踏みつぶすところは、使徒パウロの十字架解釈、創世記の3章のアダムとエバの堕落の折に、神が言った言葉の成就を描いています。私は牧師として解釈そのものには異論はありませんが、これは勿論、パウロや後世の神学者の解釈であって、実際にゲッセマネで起こった事かどうかは分りません。聖書にはただひたすら祈るイエスの姿が、そして眠りこけてしまう弟子達の姿が描かれているのみです。まあ福音書によっては若干他の描写もありますが・・・。

 またイエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘に行く途中、倒れ、そこで一人の女性が差し出した布で顔を拭くシーンがありました。この布にイエスの顔が浮かんだということで、後世カトリックではこの布を女性の名にちなんで「ベロニカの布」と呼んで、「奇跡の布」と称していますが、これも史実にはありません。また美術をかじっている人ならお分りかと思いますが、映画の中の色々なシーン、例えば裁きの庭とかドロローサ(イエスが十字架を負って歩いた道)などにはイエス・キリストを題材にした西洋名画のシーンが色濃く反映しています。恐らくはこれはメル・ギブソンがこれまで観てきた絵の印象が彼の中でイメージとして固まったのでしょう。

 もう一つ、十字架の形ですが、近年、考古学上の発見から、実際には伝統的な「立ったままはり付け」ではなく、座部があり、座らせた状態ではり付け、拷問の苦しみを何日にも渡って与えたことが検証されています。その意味では十数年前にアメリカで話題騒然となった”The Last Temptation of Christ” 「キリストの最後の誘惑」の方の十字架描写の方が史実に近いと言えます。

 この映画は確かに部分的には聖書の言葉をそのまま引用して作っていますし、アラム語やラテン語が遣われていますが、やはり映画は映画、プロデューサーの思い、解釈がかなり色濃く出ています。ですからこれが史実に忠実だとか聖書通りだとは思っていただきたくありません。あくまで映画として楽しんで?いただければそれで良いのではないかと思います。何だかプロデューサーの言葉みたいになってしまいました。

 しかしながらどのような導入であれイエスの受難、十字架と復活の意味を少しでも多くの人に考えていただけるのならこの映画も良い映画なのかも・・・と思います。ご覧になられた方はどのように感じられたか興味津津です。

アメリカの大学、大学院

2004年2月4日 9:58 AM

 時折、メールでアメリカの大学についての問い合わせがあります。まあ私は学校には数だけは行っており、その体験を時折この欄に書いているからだと思いますが、今回はアメリカの大学について少し書いてみます。と言っても私が知っているのはニューヨーク、ニュージャージー、コネチカットの東部3州の自分が行った大学に限られますが・・・。

 ここ数週間日本で話題になっている事と言えば、鳥インフルエンザ、BSEによる肉の輸入禁止問題、古賀潤一郎衆議院議員の学歴詐称問題でしょうか。学歴詐称と言えば、数年前、元阪神タイガーズ監督の野村氏の夫人が「コロンビア大学に留学していた」と経歴を偽り話題になった事がありました。コロンビアは現在私が通っている大学ですので、卒業していれば卒業生名簿を調べればすぐ分ります。そうではなくただ1学期、単位を取っただけだとしてもちゃんと出席し、期末にも落ちていなければ記録として残っています。が、ただ講義を傍聴しただけだと記録はありません。毎年何千人もの学生が出入りするからです。要は正式にその学校の授業を取っていれば記録に残る。あとは英語学校在籍の場合ですが、この場合はちょっと分りません。

 因みに英語学校は不思議な?存在で、半分或いは完全に独立していると考えた方が良いシステムです。コロンビア大学にもニューヨーク大学にも英語学校がありますが、そこに行って学んでも、コロンビア大学、ニューヨーク大学に行ったことにはなりません。英語学校の単位は大学の正式な教科に数えられないからです。勿論、例外的に単位として認めることもありますので、全く無いとは言いませんが。大学が経営している英語学校は日本の学校制度には当てはまらないと思いますが、簡単に考えると、外国人の為に大学が予備校を作っているという感じでしょうか。予備校はあくまで予備校。大学という経歴は付きません。しかしそこで頑張って英語力を身につければ大学や大学院に入れる可能性が高くなります。

 もし今現在、留学を考えている方がこのコラムをご覧になったら英語学校は大学ではないこと、留学というカテゴリーに当てはまらなくなりつつあるということを確り肝に銘じて下さい。英語学校に入るのなら目標としている学校に行くように努力して下さい。私はこれまで英語学校に来て、初めのうちは勉強していたけど、次第にアルバイトや他の事に目が移り、学業を放棄して遊び、英語もあまりできずに暮らしている人や、そのまま日本に帰ってしまう人を幾人も見てきました。ですから英語学校に行くのなら余程意志が強くない限り、都会とか遊びの多い地域はお勧めしません。

 良くある誤解に「アメリカでは誰でも大学に入れる。」「入るのは簡単で、出るのは難しい。」というのがあります。まず、「誰でも入れる」ですが、これは「学校を選ばなければ」という条件が付きます。アメリカの学校にもピンからキリまであります。名門と呼ばれる学校から、コミュニティー・カレッジという地方の郡で経営している大学まで様々です。コミュニティー・カレッジはそれこそ、その地域の住人なら誰でも入れます。学力が無く、ある程度の学校に入れなかった学生、お金が無くフルタイムで学校に行けない人、高卒で社会人になったが大学に行って学びたい人など様々な人がいます。ここはほとんど無試験に近い状態で入れます。地域の学校ですので留学生を受け入れる制度があるところと無いところがあるようです。でも本当に学ぶ積もりならコミュニティー・カレッジは大いに学べる場です。要は自分次第。

 一方、その他の大学は私立であっても州立であっても、日本のような直接大学に行ってテストを受けるような入学試験こそありませんが、日本の共通試験(失礼、正しい名称を知りません)に相当するテストが大学入試だとSAT、大学院だとGREというものがあり、それの点数次第で受けられる学校が限られてしまいます。例えばハーバードやエールだとSAT、英語と数学の合計が1300点以上、TOEFLだったら250点以上(昔の600点)以上が最低ラインで、それ以下だとまず受からない。ですから多くの受験生がその時点でそれらの学校に申請するのを断念して、それよりもランクが低い学校を受験します。テストの点数以外に学校の成績、先生や知人の推薦状、社会奉仕、学校以外での活動、特技など、様々な物の提出が要求されます。最近、日本の大学も色々変わってきたようですが、この多角的に学生の資質を見ると言う点では、まだまだアメリカの大学に及ばないような気がします。学力プラス諸々が考慮されますので、自分の希望する大学に入るのはかなり難しいと言えます。勿論、それでも受けたければ受けるのは自由です。つまり「入るのは簡単」というのは「有名校でなければ」ということです。

 さて入れても、「出るのは難しい」というのは、そうだと思います。勿論、学校が学生に要求する理解度、知識、質などが違いますので、難しい学校になればなるほど卒業するのは大変です。試験や論文に追われます。それと今まで行った学校の中では何百人もいるような講義は一度も体験していないので、そのような大きな授業だとどうか分りませんが、通常、授業は厳しく出席を取ります。理由無く3回休めば、そのコースは落第します。病気や何らかの理由で休む場合はちゃんと教授かアシスタントに連絡をします。勿論、代返などは効きません。まあ、これも大学の要求度によりますので、全部が全部とは言いませんが、やはり出席してこその講義でしょう。授業料も高いし休むのはもったいない(笑)。

 卒業資格としては短大に当たるコミュニテー・カレッジのAssociate(准学士)で60単位ちょっと、4年制のBachelor(学士)が125~130単位。大学院は専門的な勉強の場ですので、何を専攻するかによってMaster(修士)の単位も違います。図書館学だと30単位、教育だと30~45、法科だと60~70、神学校だと普通の修士は60単位で牧師になる為の修士だと75~80単位が必要とされます。まあこの上にDoctor(博士)がありますが、修士より更に15~30単位多く修得しなければなりません。今、私は教育学博士課程にいますが、どれほど長い道のりかお分かりいただけるかと思います。

 卒業する前、大学でも大学院でも卒業単位に足りているかどうかの確認と、卒論或いは資格試験に相当するものが要求されます(大学の専攻学部によって、また一部大学院では卒論を免除される学校もあるのでこれもケースバイケース)。そして晴れて卒業すれば、卒業証書を貰いますし、卒業生名簿にも自動的に登録されます。一度卒業すれば、一年中いつでも卒業証明、在籍証明、成績証明などを申請すれば発行してもらえます。またよく母校から卒業生に寄付金のお願いが来ます。私立は特に多い。私はまだ母校には1、2度しか寄付をした事がありません。全部にしていたら破算してしまいます。

 こうして見ると古賀衆議院議員のように19単位も足りないような状況での卒業はまずありえません。明らかに彼はそのことをちゃんと理解していなかった、つまり卒業をちゃんとしていなかった。卒業のような大事なことを理解していないということは、遊学して全てを弁護士や他者に任せきりだったか、余程迂闊だったかのどちらかでしょうか。或いは卒業できていないのを承知の上で「日本人はアメリカの学校制度など知らないから、まあいいか。」位の軽い気持ちでいたのでしょうか。いずれにしても余りにもお粗末な発言、行動で議員の辞職勧告が取りざたされてもしかたないかもしれません。ある自民党代議士が「{在籍}にしておけば良かったのに」と言っていましたが、正に同感です。議員は学歴よりも実績、人柄が勝負なのですから。

 私は日本の一発勝負的な受験、受験競争が嫌で中学から受験に対して懐疑的になり、それもあってアメリカに来ました。一ついえるのはアメリカの大学の方が、より色々な角度から受験生を見てくれるということです。何か得意なものがあればそれを見てくれます。20数年前、F.I.Tというニューヨーク州立大(ファッション・デザイン系の美大)の二年制一般美術学部に入学した時のことですが、受験の折、全ての書類を出し終えた後、面接に臨みました。面接は簡単なスケッチと教授との質疑応答でした。翌日、大学から「合格です。すぐに入学手続きを取ってください。」と電話がありました。何でも私と話た教授が私の作品を気に入ってくれたとのこと。日本では芸大を二度受験しましたが、教授と話す機会とて全くありませんでした。結果、不合格。アメリカではその後行った学校でも、面接の折など、いつも丁寧な対応を受けました。勿論、これは面接担当官レベルであって、事務局では結構いい加減な対応もありましたので、人や部署によるのだと思いますので、念のため。

 日本は今受験真っ只中だと思います。どの学校に行くにしても悔いが残らないよう確りやって欲しいものです。また、学校によって人生が決まるわけでもないので、あまり有名校云々にとらわれる必要はないと思います。自分が何を本当にしたいのかを見つけて下さい。

またまた俗っぽい話題ですが…

2004年1月15日 1:43 PM

 TV-Japan(NHK)の「にんげんドキュメント」で連敗を続ける競走馬ハルウララの特集をやった。高知競馬で101回出場(2004年1月現在)していまだ勝った(1位とか2位になった)ことが無い馬が何故か人気を集めていると言う。にんげんドキュメントのはずだが馬が主役。勿論、馬だけではノンフィクションにならないので、その飼い主やその馬のレースに励まされたという人々が登場して、彼らの身の上を語っていた。闘病生活をする女性、いきなり転勤命令が下り単身赴任した男性をはじめ多くの人が、負けても負けてもひたむきに走るハルウララの姿に自分を重ね合わせて見ては、エールを送っていた。

 また大相撲では高見盛という関取が昨年から人気ナンバーワンになっているらしい。彼のこれまでの最高位は小結で、まだ関脇にはなっていないと思うが、彼の土俵入りの際の、気合を入れる様、大きな力士が多い中、決して大柄とはいえないが頑張って、勝つと満面の笑みで喜び、負けるとシュンとするその素直なというか、真面目な相撲が人気の理由らしい。高見盛は元学生横綱であり、アマチュア横綱だったので、これから出世して大関、横綱になる可能性もあるのでハルウララと並べては失礼かもしれないが、この二人(一人と一頭)の人気、それにあえて加えるならスマップの「世界に一つの花」は世相を反映しているような気がする。世界に・・・とハルウララ、高見盛が共有する物は、たとえ一番でなくてもたった一つであることが大切、ということ。

 かつて多くの日本人はアメリカに追いつけ追い越せとばかりに、競争社会の中で良い学校に入り良い会社に入ることを目指した。競争で負けないで一番になることを良しとし、人生を競争社会の理念=勝ち負けで見ていた。一方、落ちこぼれ(懐かしい言葉である)や落伍者、或いは窓際族などという言葉で一位や上位に入れない人たちをレッテル付けし見下していた。

 それがバブルがはじけ、実体の無かった経済が破綻し、絶対的な保障や安定など無いと気付き、価値観の見直しが少しずつ始まり、ようやく色々な見方、負け続けても価値がある、つまり人の価値、馬の価値?、物の価値はエリートだけのものではないということに気付いた。

 故遠藤周作の作品には、この落ちこぼれ的存在が主人公、或いは貴重な脇役として描かれている。彼はキリスト教の救いをテーマにし作品を描く中で、強い信仰者で迫害を受けても屈せず殉教していった人々の傍ら、迫害、死の恐怖に背教してしまったが、それでも神を信じたいと、どこかで願うがそれすら表明できない存在を描いている。実は歴史の中ではそのような存在の方が大多数であり、そのような人々によってキリスト教は守られてきた面がある。

 皆が人間的な或いは俗的な意味で特別な存在なのではない。ごく普通の人が大多数である。しかし神の目には一人一人が尊い。たとえエリートでなくても、試合に負け続けていても、その人はその人であるだけで尊い。イエスは2000年前のイスラエルで人々から見放された罪人、汚れていると厭われた病人、異邦人などを一人の尊い人として見て、彼らに救いを与えた。

 ハルウララや高見盛を応援する人、あるいは「世界に・・・」を聴いている人を見ていると、今の時代、もっともっと多くの人が、本当の意味で自分に自信を持ち(妙なプライドを持って威張るという意味ではない)、自分を愛することができるようなれるのではないかと思う。更に自分を愛するということは、実存主義哲学者ボーボワール流に言えば独りよがりではなく、皆が自分と同じように「自分自身を愛しているのだ」と悟ることであり、それ故他者を自分と同じように大切にするということである。

 「たとえ目立たない存在でも神の目には尊い。」と思えれば何と幸せであろう。

NHKのクローズアップ現代「大江健三郎」を見て

2004年1月13日 10:53 PM

 お恥ずかしい限りですが、私はこれまで大江健三郎の本を読んだことがありません。ただ彼の子供が脳に障害を持って生まれ、子供を育てていく中で彼が背負った苦悩と、一方ではそれ故に多く受けた恵み、喜びが作家としての彼を育てたということは聞いておりました。

 ここアメリカに住む日本人、日系人を対象としたテレビ局にTV-Japanという局があり、主にNHKの番組を流しており、クローズアップ現代、視点論点、プロジェクトX、にんげんドキュメントなど等面白い番組を沢山放送しています。今日のクローズアップ現代は作家、大江健三郎氏のインタビューでした。彼が過去3年間に書いた若者向けの本3冊、中でも「新しい人」という本を取り上げ、その中に込められた大江氏の思い、次世代、世界を担う若者達に「新しい人」になって欲しいと訴えていました。「大江氏がクリスチャンである」、或いは「キリスト教の影響を受けている」といつだったか聞いたことがありますが、確かにクリスチャン的な発想というより、本来人であれば誰でもそう思うであろうという発言ををしていました。その発言とは「人は誰でも新しい人になりうる」ということ。大江氏は「人は基本的に変わらない」としながらも「生まれた時は誰でも新しい、しかし大人になっていく過程で、古いものを押し付けられたり、それが当たり前だと思わされていく」とし、だから「それを当たり前だと思わない(発想)」ということが大切であると語っていました。

 また世界が争う中、「世界平和と大きなことを言っているが、基本は身近な人との関係である。自分の身近な人と諍いがあった時、そんな身近な人との問題さえ解決して和解できないでいるならどうして世界平和などと言えるだろう?」という彼の発言には同感でした。人間は遠くの出来事、歴史或いは過去の出来事には寛大になれますが、自分の隣人には寛大になれない、といことがよくあります。自分の隣人=夫、妻(分かれた夫、妻も含む)、子供、親、友人・・・と和解できないのに、どうしてよその国の為或いは人種の為に謝罪したり、和解を訴えたりできるでしょう?

 私は常々「大義名分なんていらない。大上段に構えた{エエカッコしい}なんていらない。」と思っています。まずは自分のエゴや見栄を捨てて身近な人と和解する。それができてこそ国と国、人種と人種の和解ができる。新しい人とはそういったコモンセンスがある人なのでは、と今日の番組を見て思いました。

 これから大江健三郎氏の本を読んでみようと思っています。

自衛隊派遣は政府のメンツ

2003年12月11日 10:07 AM

 とうとう日本政府が多くの国民の「反対」或いは「十分な説明を聞いてから」という思いを押し切ってイラクに自衛隊派遣を決めた。これはまあ当然の決定だと思う。その是非を問えば、憲法第九条の「非戦、平和維持の理念」から非になるが、日本は元々アメリカがイラクを攻めた時にも国際世論を無視して、単に政治的配慮と経済的協力関係からアメリカ支持の立場を取ったのだから、後始末にも協力するのは自明の理。国民や野党が何を言おうと国際関係(単にアメリカが怖い)だから仕方ない。

 この国際関係をだけを見ると、確かに自衛隊を送らずお金だけの援助をしてもアメリカやイギリスにはアッピールしないだろう。元々、正義のないアメリカの戦争を支持した時点で非戦ではなく参戦になる。例え兵士をイラクに送らなくても。それをあくまで「戦争には参加していない」、「非戦の理念に背いていない」というのは全く愚かな言い分。日本の外から見れば、日本もアメリカを支持しているのだから、アメリカの同盟国。だから日本もテロの標的にする、という考え方の方が自然だ。

 自衛隊があくまで救援活動に徹し善行をし続けたとして、すぐにイラクの市民に理解されるかは疑問だし、よくよく考えると、何だか妙な話だ。以前、うちの教会員だった方が、「アメリカは不可思議な国だ。戦争でよその国を破壊しては、その後、莫大なお金を出してその国の建て直しを援助する。だったら何故、破壊する?」と言っていたが、破壊するのも立て直すのもアメリカの都合、アメリカの儲けの為。日本もその片棒を担いでいる。一時的に莫大な金が掛かり、財政赤字になってもアメリカ帝国主義は世界制覇をもくろむ。

 しかし過去に中国の始皇帝、マケドニアのアレキサンダー大王、ローマ帝国などなどが皆滅びたように、アメリカもこのままでは滅びの道を歩む事になるような気がしてならない。日本もその道連れになる・・・

 このように混沌として不安に満ち、治安、情勢が乱れている時代にクリスチャンとしてどうあるべきか、人としてどう歩むべきか、問われているように思えてならない。

デ・ボワールとギリガンから

2003年11月20日 6:48 PM

 最近、宗教哲学の時間に実存主義のデ・ボワールのThe Ethics of Ambiguity(「曖昧さの倫理」とでも訳すのでしょうか?)を読み、彼女(とサルトル)が実践的にはかなりマルクス主義に影響を受けていたことを知りました。その本の中に抑圧され自由を奪われている人間で、しかもその事実すら認識していない人々を奴隷制に生まれ育った奴隷達で、自分が奴隷であることに何も疑問を持たない人たちと同じという形容の仕方があり、中々良い譬えだと思いました。

 奴隷制度の中に生まれ、白人の主人達に、それが当たり前のように教えられ、義務感を植え込まれた奴隷達は自分の主人に仕えるのが当たり前、それが彼らの生き方、運命だと捉えて、変えようなどとは全く思わなかった。更に同じ奴隷達の中で、いかに良く働き御主人に気に入られているかを誇り、奴隷同士で「彼は道徳的な人」「彼はいい加減な男だ」「彼女は確り者で淑女だ」「彼女は役立たずだ」云々と自分達の倫理観さえ持っていた例を挙げ、自分が真に不自由であること、誤った為政者の社会で自分の権利が奪われていることが分かっていない人間はデ・ボワールは正にこの奴隷達と同じだと言っています。

 その翌週にキャロル・ギリガンというハーバードの教授で女性解放の主張に心理学を取り入れた方の本、In a Different Voice(「一つの異なる声(立場)から」とでも訳すのでしょうか?)を読み、デ・ボワールの主張が更に腑に落ちました。ギリガンは男性と女性では精神的発達が幼児期から違うのだから、女性には女性の心理調査、結果、統計などを踏まえた上で女性の持っている問題を解決しなければならないと訴えています。

 中でも女性が命に関わる或いは人生に関わる選択をしなければならない時に、自分は男性と違う考え方をするという認識から始めなければならないと訴えています。その例としてギリガンは堕胎、夫婦関係などを挙げていますが、男性は合理的(経済的?)かつ身勝手に考えるが女性はそうはいかない。命に関わることだし、自分の生活に関わることだから容易には割り切れない。ところが多くの場合、女性は感情的、感覚的で、理性的に判断できないという批判にさらされ、「そんなことはない」と無理に男性と同じ選択をする。そこから女性の内面的苦しみ、虚無感が広がる。しかし、女性と男性は心理状態、発達が違い、それで当然と受け入れれば、もっと男性とは違う選択地もあるし、女性がより傷つかなくなる。まあこれが、私の感情移入もありますが、ギリガンの主張の一つです。

 ギリガンは女性は男性依存を止め、もっと自分を見直し、自分の物の考え、心理を自覚し、真の平等、権利、自由を求めるべきとしています。ギリガンの言うところの、自由を奪われた女性はデ・ボワールの奴隷達にも似ています。自分が男性と同等の権利を持っていない、いわば男性中心、力中心主義の社会にいるのに、それに甘んじて自分の権利を訴えようとしない。少しでも自由を求めようとすると男性の邪魔がはいるのに、多くの女性が男性に依存し、下手をすると「自分は守られている」と思い込んでいる。確かに籠の中の鳥は守られています、見方を変えれば。また今の社会は巧妙に社会的、集合的性差別を隠し、さも男女平等のように一見思えるので、女性達はそれに何も疑問を持たなくされている。

 それを証明するかのようにクラス・メートの一人(女性)が「私には女性が差別されているとは思えない。女性の解放って何?」とコメントをしていました。個人の魂の救済、罪の許しというキリスト教或いは宗教的な解放、自由になると話が複雑になりますので、私は単純な例として、男女間の給料差、地位の差で説明しました。同じ学歴、例えばコロンビアのティーチャーズ・カレッジで修士、教職資格を取った男性と女性が、同じニューヨークの公立の学校に就職したとします。その二人は全く能力も勤務時間も同じ。でも現在のところまだ賃金や保証に格差があります。これも多くある性差別の一つにすぎません。これでも女性は「平等に扱われている、権利を守られている、自由である」と言えるのでしょうか。これでは男性優位社会はいつまでも終わらないでしょう。喜ぶのは狡猾な男性だけ?でしょう。

 また教会の中にもこのような差別が確りあると思います。それをどう変えていくか、これは女性の問題であると同時に男性の問題でもあります。イエスが今現れたらどうおっしゃるでしょうか。

2000年以上変わらぬ人間

5:46 PM

 つい一昨日、NHKのニュースを見ていて驚きました。熊本県のある温泉ホテルがハンセン病の元患者とその家族や療養所の人達が旅行を計画し、そのホテルに宿泊を予定していたが、ホテル側が宿泊を拒否したとのことでした。21世紀になった今でも、このような差別、人権無視が起こるのか!と憤りましたが、しばらく考えてみて、これは恐らく氷山の一角にすぎず、このような差別は実は多くの人々の中にいまだに蔓延(はびこ)っていると思いました。

 20世紀の半ばまでハンセン病がその肉体を徐々に崩壊させていく病状と多少はうつる可能性もある(実際にはほとんど無いが)ということから忌み嫌われ、患者は全ての権利、幸せを奪われ隔離されいました。20世紀後半、強力な薬ができ完治すると分かってからも、身体的な変形が患者さんに残ることから、差別偏見が人々、社会の中に根強く残ってしまい今回のような悲しく、かつ憤らざるを得ない事態が引き起こされたようです。

 これは上述の通り、残念ながら数ある差別偏見の一つで、たまたま表面化したため取り上げられたと私は思っています。実は、このような差別意識はほとんどの人間にある。ハンセン病患者、元患者はまだまだそのような差別社会に苦しんでいるのではと思うと胸が痛みます。

 聖書の時代(2000年以上前)からハンセン病の患者達は人扱いされませんでした。町や村から隔離され、洞穴や施設とは呼べない収容所に住まわされたり、物乞いになったりしました。出歩く必要がある時は、人々に「私は汚れている」と大声で叫んで、行きかう人達が彼らを避けるようにしなければならなかった。これは旧約聖書のレビ記、申命記などに書かれているモーセの立法(法律)です。彼らと関わるものは皆汚れると思われ、人々は近づきませんでした。どれほど辛かったか、想像に絶します。

 しかし、その社会的、人道的に差別され、人としての幸せを全て失った人々にイエスは希望を与えました。イエスは彼らの心の叫びを聞き、彼らを癒しました。更に「あなたは(罪を)赦された」と宣言することで、彼らを社会的にも受け入れられるようにしました。イエスは病気や不幸を神の罰と考えていた、勧善懲悪的な或いは因果応報的な古い宗教観さえ否定し、差別偏見に苦しむ人達に真の自由と希望を与えました。

 いまだに隠れた偏見に満ちた社会を変えることのできない私達現代人は人々の救いに尽くしたイエスにもっともっと見習うべきではないでしょうか。



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