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聖書を学ぶこと

2004年10月15日

 時折、「聖書が全く解らない」と言う方がいます。「キリスト教には興味があるけど、聖書は難しいから教会には行けない」という声も聞きます。はたして聖書は難解でしょうか?勿論、難しい面もあると思います。でも、それは往々にして、教えが難しいのではなく、イスラエルを舞台にして聖書が書かれているため、ユダヤ人の歴史、カルチャーを知らないということによるように思います。上述のような発言される方は教えそのものが理解できないのではなく、横文字表記の名前が沢山出てきたり、文化的、歴史的背景が解らないから、イコール聖書が解らないと誤解しているのではないでしょうか。

 例えば、旧約の箴言などを読むと、親、子への教訓が実に理路整然と書いてあります。論語、仏典よりもよっぽど解り易いと言っても良いくらいです。新約のイエスのたとえ話など、解釈が全く要らないくらいです。何故なら、イエスは学校にも行っていないような貧しい人たちにも解るように、神の国を語ったからです。であるなら中学、高校、大学を卒業しているような方たちが「聖書は難しい、解らない」と言うのはいったいどうしてなのでしょう?この疑問に対して以下、私なりの見解を書きます。

  1. 何か自分で「そう」思い込んでいるのではないかと思います。聖書は奥が深いので、確かに難解な箇所も沢山あります。そういった所だけを取り上げたら「難しい、解らない」になるでしょう。こういう方は、旧約ではまず創世記の物語やルツ記、ヨナ書、箴言を、新約ではルカ伝(ただし系図は飛ばして下さい。)をお勧めします。
  2. 「解らない」と言い訳にしていませんか?これは深く追求しません。
  3. 最もよくある誤解ですが、聖書を「完全に」理解できると思っていませんか?聖書を完全に理解した人はほとんどいません。だからこそ神学者や聖書学者という専門家が現代でも解釈に取り組んでいるのです。牧師も偉そうなことを言ってますが、本当に聖書を理解しているかどうかはなはだ疑問です。(まあこれは私の場合ですが・・・)
  4. 聖書は信仰生活を続けていくに従って理解が深まったり、変わったりします。これは人生経験を積み重ねたり、日々聖書を読み学ぶことによります。ですから、今は今の読み方、理解があります。一人の人をとって見ても10代は10代の、20代は20代、30代は30代の40代は40代の理解が、また60代はそれなりの理解があるはずです。自分の能力以上のものを求めても解りません。

 これで良しというのもありません。一度、解ったら「もうそれで良し」ということはないのです。もし「自分はもう聖書を何回も読んだから、もう読まなくてもよい」と言う人がいたら、その人は、聖書のみならず、人生、学び諸々が分かっていないということを吹聴しまくっているようなものです。こういう人を「愚か者」と呼びます。

 「聖書が難しい、理解できない」と思っている方へ。そういった先入観を捨てて改めて聖書を新鮮な目で読んでみることをお勧めします。

最近の教会 - お客さん

 最近のアメリカの教会で思うのはお客さん的参会が増えているということ。もう少し具体的に言うと、本来、教会に来るということは信仰告白をして教会員となり、一つの教会に確り自分の居場所、アイデンティティーを見出し、信仰生活に励むことであり、教会の中で色々な仕事をボランティアとしてするのではなく、ちゃんと役員としてすることであった。

 一方、「お客さん的」とは、そこの教会に深く関わるのではなく、お客さんのように教会に行くこと。お客さんのうちは、そこの教会で歓迎され、中々気持ちの良いものだ。献金も維持献金(教会を支える為、1年を通して決まった額をすること)もしなくてよいし、諸々の奉仕、教会の責任ある仕事に関わることもない。周りは「よくいらっしゃいました。」という接し方をしてくれる。

 この手の関わり方は「自己主体」であるから、教会が面白くなくなったり、自分に利益をもたらさないと感じたら、その教会から気軽に(手軽に)離れてしまう。良くあるのは、あの牧師の説教が良いからとか、あの牧師が好きだからとかいう理由。また「教会が霊的に熱い、燃えている」なんていうのもよく聞く。そういう理由もあって良いとは思うェ、こればかりを求めて教会に行く人は、その気に入った牧師が他教会に移ったら、自分もそちらに移ったり、或いは教会に行くのを辞めてしまう。

 本来、教会に連なるということは、上述の外的要素を主とする、或いは自分本位の考え方に根ざすのではなく、自分の信仰とはいったい何なのか、どこにちゃんと属して奉仕するのか、御言葉が確り入ってきているのかなど等、信仰を見つめ向上することと知って欲しい。

 勿論、教会は楽しい信徒の交わりの場であるべきで、その意味では「気軽に行ける教会」という面も失ってはいけないが、一方では教会は信仰の道場であるべきと思う。例えて言うなら禅寺で修行するように、教会で真実を求める姿勢で、信仰を磨く必要もあるのではないか。

 カルチャーとしてまた伝統としてあまりにも教会が世俗化しすぎたアメリカで、それを求めるの酷かもしれない。また修行の場を強調しすぎると、霊的な面ばかり求め、立法主義的聖書主義(簡単に言うと、堕胎、ゲイの問題等で直ぐにクレームを付ける保守福音的、裁きの信仰)に偏ってしまいやすい。

 最近、日系人、日本人の教会にもこの傾向が見られるような・・・。信仰生活とはこれほど難しいものだったのかと思わずにはいられない。



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