Archive: 2003年2月

最も難しいこと

2003年2月28日

 私は夏に時々Berkshire Institute of Art and Theology(バークシャイヤー美術神学院)の宗教と美術のプログラムに参加します。そこは音楽や美術と宗教との関わりを掘り下げるプログラム、例えば「音楽の中に表現されているキリスト教」とか「絵画と宗教」とか非常に面白いプログラムをしています。主催している理事会はプリンストン神学校の教授だとか音楽家、芸術家で構成されており、世界的に有名な音楽家のヨーヨーマも理事に名を連ねています。バークシャイヤーはボストン・シンフォニーが毎夏主催している野外コンサートの会場があるタングル・ウッドも近いので、音楽を鑑賞して学ぶというプログラムは特に充実しています。

 さて何年か前の話ですが、そのバークシャイヤーでアメリカ人(白人)でインド音楽を専攻し、インドに留学をしてインドの伝統楽器シタールをマスターし演奏家として活動する傍ら大学で教鞭をとっている方の講演がありました。その先生のシタールの名演に感動をすると同時に、彼の深いインド哲学、文化理解にも感銘を受けました。講演会の終わりに、聴衆との質疑応答があり、様々な質問が出ましたが、その折に私も質問をいたしました。「博士(因みに彼はインド音楽で博士号を取っています。)、西洋人として全く違う文化風習の国で宗教や音楽を学ぶにあたり、もっとも難しかったことは何ですか?」と尋ねてみました。勿論、私は音楽的なこともですが、風習の違いとか、言語とか色々あるだろうな、、、と想像していましたが、その時に、返って来た答えが「謙虚になること」でした。英語でModestyと言われた後、更にTo Be Humble is,I believe,the most difficult task for the Westerners.と言われました。

 私はその答えに更に感銘を受けました。正にその通りだなと思いました。私も含め、一般的に人はどうも謙虚になるということが難しいようです。一見、謙虚を装っていながら実は傲慢な態度が目に付く方も結構多いような気がします。そういうのを慇懃無礼というのでしょうか。クリスチャンになるということは本来、イエスに倣い「謙(へりくだ)る者」になるといういうことだと私は思っていますが、なかなかこれが難しい。アメリカで言うメインライン(大きな古くからある諸派、例えば改革派とかメソジストとか、長老派)の人たちも、福音派と自称している人たちも傲慢、尊大になってしまいがちです。

 メインランドの人たちは信仰を知的に理解しようとする傾向がやや強く、牧師たちは神学校で小難しい勉強をします。そうすると知的に高いことを「良し」として、敬虔さや聖霊体験などをちょっと小ばかにしたり、「保守的」「独善的」と批判する。また福音派と呼ばれている人たちの中には、そう言ったメインラインの教会を「頭ばかり」とか「リベラル=急進的」「信仰が薄い」と非難したりする方がよくいます。私も出身学校の故にそういうお批判を頂くことがたまにあります。しかも私の説教や神学、人物を知らないはずの人たちから。それら批判をする方々の中には自分が正しいという思い上がりが潜んでいるわけですが、それは本人には分からない。

 先日、コロンビア大学の宗教の授業の後、クラス・メートの一人からいきなり「Are You Born Again?(あなたは、生まれ変わりを経験しましたか?)」と訊かれました。私は思わず「うわっ来た!」と思いました。誤解の無いように。私は本来、クリスチャンであるということはBorn Again(生まれ変わった者)であるべきと思っています。これについてはまた別な機会に、或いはサーキット・ライダーで述べたいと思いますが、何故私が上述のような反応をしたかと言うと、今「Born Again」を名乗っているクリスチャン達の多くが他者を裁く人たちだからです。

 彼らはヨハネの福音の3章3節「人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」と5節「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国を見ることはできない。」を根拠に生まれ変わり(Born Again)を主張します。それ自体は正しいことなのですが、問題はその後。「もしあなたがBorn Againを経験していなければ、あなたはまだ救われていない。」とか「あなたはまだ本当のクリスチャンではない」と既に洗礼を受け教会に連なり、信仰生活をしている人でさえ批判してきます。確かにキリスト教が文化、風習になってしまっている今日のアメリカの教会にあっては、本当に回心し信仰をもつに至っていないクリスチャンも多く存在します。しかしだからといって、彼らが他者にたいして「あなたはまだ救われていない」とか「本当のクリスチャンではない」と裁いていいことにはなりません。

 その姿勢に見られるのは彼らの傲慢、高ぶりであり、救われて「仕える者」になる代わりに神の座に着いて人を裁いている姿です。人(魂)の救い、誰が救われ、誰が裁かれるかは神の業であり、人のすべきことではありません。「自分達が聖霊体験をした。」それは神の恵なのですから、それを感謝しこそすれ、人を裁く為にそれを用いてはなりません。私は、そのクラス・メートに「あなたはイエス様に救われて、幸せでしょう?だったらあなたのすべきことはその喜びを隣人に分かち合うことであり証しすることではないですか?」と言って「私はそうしたいし、そうありたいと願っています。」と応答しました。

 家庭の裕福さ、学歴、地位、名誉、国籍、そして宗教体験でさえ人のあかになってしまい、人を傲慢にしてしまう、、、謙虚になるということはなんと難しいことでしょう。

政教分離?

2003年2月21日

 子供の頃、21世紀はどのような時代になるだろうと想像して、さぞ高度の文明を築き上げ、貧しい人もなく戦争など全く過去の話になっているだろうなと思っていました。そこでは人々は楽しく、自分の夢を追い求めるような生活ができる、、、と信じていました。まあナイーブな思いでした。

 実際には21世紀になって時代が逆行しています。中東も平和協定に何度も達すると思いきやそれが破棄され、パレスチナ人の自爆テロ、それに対してイスラエルは制裁を繰り返している。2001年9月11日のテロ以来、ブッシュ大統領は元々好戦的だったところへもってきて、恐怖心から逆上してしまい更に戦争によって世界を治めようという姿をさらけ出しています。アフガニスタン侵攻から今度はイラク。昨年のState Of Union Address(何故か訳は「一般教書」)では、悪の中枢としてイラク、イラン、北朝鮮を挙げてしまった。イラクは今攻撃準備中。恐らくは北朝鮮は色々な政治取引などの思惑はあるものの、次は「我々がやられるのでは」と窮鼠猫を噛む式に逆上、原発、原爆開発を急遽再開したのでは、、、。それぞれの指導者を見ると「愚かな為政者は国を滅ぼす」という格言を地で行っているようです。

 さて、ここからが本題。このような状況にあって教会はどうあるべきか。牧師、信徒の立場は。アメリカでは法律で政教分離が制定されており、宗教は公的機関、公立学校や公の場では語られないことになっています。また教会の中でも色々な立場、思想の人たちが集まっているので、政治的な話、特に民主党或いは共和党にどちらかに偏る内容はタブーとなっています。共和党はブッシュ大統領の出た党ですから好戦的。民主党も今は骨抜き状態で真っ向から反戦をうたっていない。

 このような状況の中でどのように自分の反戦という信念を伝えるか。私はいつも「あくまで私個人の考えであり、立場である。」ということを強調した上で、反戦をかたり、政治的なことを語ります。牧師=教会と思われがちなので、「個人の」を明言します。特に個人主義の国アメリカだから、尚更そうしなくてはならないと思っています。

 教会の中心は礼拝です。礼拝は神を讃美し、聖書の話を聞き、自分の生き方、信仰を考える、言わば神と信徒との交わりの場です。その意味では、礼拝を牧師個人の考えで、政治の場、社会問題を語るだけの場にしてはいけません。ただ敢えて言わせて頂ければ礼拝は礼拝としてきちんと守った上で、上述のように「個人的に」憂うることを伝えるのは構わないと思っています。報告の場や交わりの場で。また雑談の時に。私は時々説教の中でも、反戦、貧困、富める国アメリカ、日本の問題を語りますが、一応、「これは私の思いである」と前置きします。本当はそんなまどろっこしいことを一々しなくてもいいのではと思いつつ。

 イエスの説いた愛、平和、正義、神の国などを考えていけば、当然、反戦が出てきますし、貧困に対して、富める人が何をすべきかも書かれています。牧師はそれを語らなければならない。信徒はそれを受け止め自分の生活の中で実践していかなければならない。子供たちにも物事の善悪を教える。殺人がいけないということを教える。戦争も殺人に他ならないと教える。そうすることによってより良い社会作りに参加していく。気の長い話です。キリスト教の理想とはこうした草の根的な展開によってしか実現できないのではと思います。

歴史から学ばない愚かさ

2003年2月17日

 最近、同じ町にある組合派教会(UCC)の秘書をしているPatというご婦人から連絡を頂きました。「是非、見てもらいたいものがあるから、時間を取っていただけますか?」とのこと、早々に出かけて行って見せて頂いた物は、なんと日章旗。しかもただの旗ではなく、第二次大戦中に徴兵で出征した兵士に、友人、仲間達が寄せ書きしたものでした。兵士の名は渡邊綱吉。寄せ書きには「友よ、死んで帰れ」だとか「皇軍に敵なし」「忠、力、義」とか戦時中の天皇を祭り上げた軍国主義日本一色でした。

 何故この旗がアメリカ人の家にあったのか?Patさんの伯父さんが第二次大戦の帰還兵で、その彼がソロモン群島のガダルカナルから持ち帰った物でした。ガダルカナルと言えば日本とアメリカ双方多大な犠牲者を出した激戦区。つまり上述の渡邊さんはそこで戦死したわけです。そこで彼が身につけていた日の丸をアメリカ兵が持ち帰った。それが60年経った今になって日本人の牧師である私の所に来た。正しくは一時預かりですが、Patさんは私が注釈して旗の意味を知るや「これはできるなら遺族に返したい。」とおっしゃって下さいました。

 60年前の日本は軍部独裁政権下、正に今のCラクや北朝鮮(或いはアメリカ)に似ており、一般国民は事実を何も知らされていませんでした。一方的に天皇は現人神、天皇の国は神国、その群は皇軍、迎えるアメリカや欧州は「鬼畜米英」と教えられ、多くの若者が「天皇の為、お国の為、愛する人の為」と戦争に駆り出され死んでいきました。まだ二十歳前後の将来ある若者達、これから恋をして、結婚して、家庭を築いて、、、という幸せを愚かな独裁者、政治家、指導者によって奪われてしまいました。

 今また愚かな指導者、独裁者によって同じ悲劇が繰り返されようとしています。全く罪の無い、何も知らない市民、女性や子供など弱い立場にいる人たち、戦争に駆り出される兵士達の命が危険にさらされています。

 渡邊綱吉さんの出征祝いに送られた日章旗が悲しく「同じ過ちを繰り返さないで!」と訴えています。



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