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どうやったら開かれた教会になれるか?

2008年4月25日

 4月号のサーキット・ライダーと5月号のThe Link(英語の教会ニュースレター)に3月30日にNY Timesに載ったThe Evangelical Church Statement:The Evangelical Church and The Jewish Peopleと同新聞4月1日に載ったUnited Church of ChristのStatementを掲載、翻訳し私のコメントを少しだけ書きました。スペースの関係で誤解を招く表現になってしまったようで、お怒りの投稿がありました。そこでほんの少しだけ追記したいと思います。

 まずは「同じ信仰告白をし同じ聖餐式をしなければならない」と言って同胞を弾劾するのではなく、という表現で念頭に置いているのは、私の日本での教会籍がある日本基督教団内で起こった悲しい事実を挙げています。私の父の教会ではなく、他の教会でオープン・コミュニオンをしていた教会の幾つかが、日本基督教団の聖餐式、信者にのみ聖餐を与える、というやり方にそぐわないということで、教団から教団籍を剥奪するという勧告を受けました。本来日本基督教団は改革派もメソジストも長老派もまたそれ以外の諸教派が第二次大戦中に統一されてできた寄り合い所帯ですが、だからこそ違いを乗り越え、多様性を認めるという美徳がありました。が、それがある特定の教理だけが尊重されて、それ以外は異端、なんてことになっているのが昨今の現状です。今は米国メソジスト教団に属していますが、祖国日本の教団のそのような排他的な姿勢を非情に遺憾に思っています。ですから、サーキットに書きました。

 また現在同性愛者を受け入れず、同性愛者に按手礼を授けて牧師にしない教団は私が属している合同メソジスト教会です。これも残念でなりません。私たちは「ゲイ」だとか「レズビアン」だとかというレッテルを誰かに貼り付けた時、その人を例えばマークだとかジョンだとか、キャサリンだとかという名前を持ち、感情の通った一人の一個人として見ずに、自分の信条にしたがって、その人を同性愛は罪である、従ってゲイは罪だ。と言った具合に裁いてしまいます。その人がどのような思いで神の御言葉を受け入れているかも知らずに。何故自分はこのような苦しい思いまでして、人々の前にでて、牧師として仕えたいのか、自分はゲイであることは、自分の意志ではなく気が付いたらそういう自分がいただけなのに・・・といつも肩身の狭い思いをして人から差別されてきた人の思いを、一体誰が分かるというのでしょうか?私はゲイやレズビアンの友人ガ沢山いますが、彼らをそのようなレッテルで見る前に、彼らを一人の友人として見ています。彼らがレッテル付けされて見られたくない、差別されたくないという思いは、私が吉松純という一人の人間であり、人間吉松純を知って欲しい、一人の日本人、牧師、或いは高学歴の人などという風に見られたくないと思う以上の切なる願いです。

 さてもし私が誰かを友と呼びながら、その人の信仰、生き様を認めないとしたら、果たして私は本当にその人の友と言えるでしょうか?答えは否です。私が何故憤ってEvangelical Church and the Jewish Peopleを引用したかは、そこにあります。「ユダヤ人は友である。友だからこそ自分たちの信じているイエスだけが唯一の救い主であるので、私たちはユダヤ人にもイエス・キリストを述べ伝えることを模索している。」と書かれています。そこに欺瞞、また驕りがあると私は思いました。私たちクリスチャンが「主イエスだけが唯一の救いです。」と言うのは何も問題ありません。またそれを他者に伝えていくことが伝道であり、伝道はしなければならない。しかし伝道する相手も人間です。彼らには彼らの宗教、信仰がある。そういった相手に、あからさまに『主イエスだけが唯一の救いです。」と言ったら相手はどう思うでしょう? 例えば、あなたはクリスチャンだと想定して、そのあなたの前に仏教徒がやって来て「私たち仏教徒はクリスチャンを友だちだと思っています。でもお釈迦様だけが唯一の救いです。あなたは友達だからそのことを知って欲しい。」と言ってきたらどう思うでしょう?「何て不躾な人だろう」と思わないでしょうか?自分を友達と呼びながら自分の信仰は認めてくれないでいて、何が友達だろう、そう思わないでしょうか?それを私は感じ取りました。原文は勿論英語ですので私の解釈はもしかしたら間違いかもしれないと思って念のため、アメリカ人の教会員数人に確かめましたが、彼らは皆私の解釈に同意してくれました。

 ではどうやって伝道するか?私たちは人を裁くのではなく、自分がどれほど神様に恵を与えられたか、どれほど愛されているか、またどのように自分の人生が変えられたか、それを証しすれば良い。なるほど、あなたの信仰は素晴らしい。でもちょっと私の話を聞いてください。と自分が今喜びの内に生かされていることを相手に伝える。それだけです。あとは聖霊の働き、神の恩寵にお任せする。

  裁くのは神です。私たち人間ではない。そのことを間違えると、威圧的な恐怖感を与える伝道になりかねない。人には誰が神の国=天の国に行くとか、地獄に行くとか、罪人であるとか、間違っていると裁くことはできません。ただ同胞が何か危ない方向に進もうとしていたら、それを批判したり、意見を交換することは、何ら差し支えないと私は思っています。それが4月号のサーキットの主旨です。



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