Archive: 2003年7月

トレンド、ファッション

2003年7月17日

 明治の頃より日本は西洋の技術を輸入し、西洋諸国の経済に「追いつけ追い越せ」をスローガンに今日まで来ました。戦前は力で列強国に名を連ね、戦後は経済で一時期は世界の経済大国になりました。戦前の軍事独裁政権によるアジアへの侵略は全く誤ったものであり悔い改めなければなりませんでしたが、戦後の復興期における会社員、工場労働者達の努力は賞賛に値し、見習わなければならないと思います。

 経済的、物質的に発達、発展した一方、文化、芸術も様々な展開が見られ、質の高いものになりました。しかし同時に更なる偏見、偏向も生み出したように思います。それは私が度々指摘している宗教に対する偏見と切り離せません。例えば西洋絵画は明治以降、日本でも主流になり、油絵の技法や西洋美術の歴史が学ばれています。しかし欧米の中心であったキリスト教の教義、伝統的解釈が日本でも、ここアメリカでさえも余り理解されていません。信仰抜きにキリスト教美術の作品を見て、その技法、表現を解説する専門家も多く、時折「あれ?何でそういう解釈をするの?」と訝しく思います。

 音楽も同様。信仰の無い人が芸術性だけを求めてバッハやヘンデルのオルガン音楽やコーラスを演奏していると不思議に思います。なるほど演奏の技術は世界最高の水準にあるし、鑑賞しているとその芸術性の高さに驚かされ感動します。しかし一方ではどこかに空しさも感じます。キリストを信じてもいない人々が「ハレルヤ」と讃美していることに。復活を信じていない人が受難曲を演奏することに。

 最近の流行でも同じことが言えます。一時期よりは下火になりましたがゴスペルが日本でもてはやされています。ゴスペルの意味は元々、キリスト教の「良き訪れ」「福音」英語だと“Good News”です。それは「神の子キリストがこの世に来られて信じる者を罪から救ってくださる。」という知らせです。アメリカの黒人達がそれを歌う時に、彼らは心から「救われたこと」を喜び、神を讃美します。また奴隷時代の悲しみ、苦しみからの解放を喜び、神に感謝します。その叫びの声が黒人のゴスペルであり、信仰無しには考えられないものです。それを形ばかり真似して、上手に歌えたからと言って、それが何になるのでしょう?英語で言うなら“So What?”です。

 美術でも音楽でも、もっともっとそのハート(心)を掴んで欲しいと思います。その為にはつまらない偏見を捨てて、信仰や教えそのものに目を向けるべきであり、それを心から願わずにはおれません。

宗教への無知

 キリスト教の牧師をしていると無神論者や他宗教の人々の多くの誤解と偏見に出会います。例えば日本でもアメリカでも公立学校では宗教関係の催し物やカリキュラムは一切組まないという「お断り」があります。私立であれば本来はその創立者の教育理念、その時の指導者の裁量で宗教的行事やプログラムをしてもはばからないと思うのですが、その私立でさえ、ほとんど宗教の知識も理解もない、何が悪いのか良いのかも知らない大多数の意見、傾向にしたがって宗教的なものとは関わらないという姿勢をとっているところが増えているのは何とも哀れというか嘆かわしい限りです。

 アメリカでは今でも70%以上(場合によっては80%以上)がキリスト教徒とされています。その他ユダヤ教、イスラム教、諸宗教を併せると実に90%以上が何らかの宗教を信じていることになります。勿論、歴史や、伝統、文化もユダヤ教、キリスト教を軸にこれまで形成されてきていますので、宗教抜きにはアメリカは語れません。例えば、1620年に一般人初の移民としてメイフラワー号でアメリカにやってきた人たちは清教徒というキリスト教の信徒達であり、「約束の国=キリスト教信徒の為の新天地」を求めてこの国に来ました。また独立戦争の独立宣言もキリスト教精神によって作られています。アメリカの名門大学と言われるアイビー・リーグの学校の多くがキリスト教の学校として社会にキリスト教精神を持ったリーダーを送り出す為に創立されました。ハーバード、エール、ブラウン、コロンビア、プリンストン等、キリスト教の教団と深く関わっています。例えばハーバード、エールは組合派、ブラウンはバプテスト、コロンビアは聖公会(英国国教会)と言った具合に。それらの大学では聖書、ラテン語、ギリシャ語等が必須だった時期もありますが、今は完全にセキュラー(世俗的)になってしまいました。

 日本ではどうでしょう。公立では宗教団体と関わったり宗教的プログラムはしないとされています。が、例えば修学旅行で京都、奈良などへ行く場合はどうでしょうか。最近はお金のある学校が増え、京都、奈良あたりには行かなくなったかも知れませんが、私の若い頃は関東の学校にはお決まりのコースでした。そういった修学旅行で歴史的な建物、遺産ということで見て回るのなら良く、教えを学んでは駄目と厳密に分けているのでしょうか?逆に、その教えや由来を知らずして、本当に歴史や文化を学べると言えるのでしょうか?

 私がキャンプや補習校で関わった教え子達の多くが帰国後、上智大学、国際基督教大学、同志社大学、関西学院大学、立教大学などのキリスト教を母体とした大学に行っています。彼らの中には、こちらで知ったキリスト教を確り受け止め、そういった学校に進んだ子たちもいますが、大半は帰国子女受け入れ校であることと名門ということだけで選んだようです。彼らの親の大半も同様。もっと子供達がどういう学校で学んでいるかを知り、キリスト教に対する理解を深めても良いと思うのですが、、、。

 アメリカに住む日本人も、アメリカにいながらその歴史や文化を知らず、今日の物流で繁栄したアメリカしか知らないようでは、本当のアメリカに触れたとは言えませんし、何とも浅い生活をしていることになると私は思うのですが。まあ「それでも良い」と言う方たちには「何をかいわんや」で、そこまでの関わりしかできません。非常に残念ではありますが、、、。

 それでも伝道、教育に関わっていかなければならないのですが、時折、「もっと深くキリスト教を、その影響下にある欧米文化を理解して下さい!」と叫びたくなります。

今更ながら心の教育

 このところ日本から伝わってくるニュースは青少年の極悪犯罪ばかりです。長崎で12歳の少年が4歳の児童を殺害したニュースや沖縄で14歳の少年が同年代の仲間に殺害され遺体が1ヶ月近くも隠されていた事件、他にも少年犯罪の著しい増加には愁うるものがあります。多くの評論家や心理学者、犯罪心理の専門家が様々なコメントをしており、そのどれもがある意味では正しいので、私がことさら事件に対してコメントを書くこともないと思います。しかしこれらの問題を見聞するにつけ、何か大切なものを忘れてきてしまった社会に問わずにはおれなくなります。その何かとは数字とか形に見えるものではない物「思いやり」とか「触れ合い」とか自己主張ではなく「他者を敬う心、姿勢」、つまり愛であり優しい心です。今更ながら「心の教育」の大切さを実感しています。

 初めてニューヨーク日米合同教会のサマーキャンプに参加したのが1981年。もう22年も前の話です。そのキャンプで受けた恵みが私の人生を変えました。私はキャンプという触れ合いの場の中で鮮烈な思いに打たれ教育を志しました。それ以来、ずっと数字や目に見える物ではなく成績で評価できない教育、心の教育を考え目指してきました。牧師になった今もその思いは変わりません。昨年(2002年)から教育学博士課程に籍を置いていますが、大学院に学ぶ現在もその思いを新たにしています。

 私がキャンプで学んだものは子供や大人という年齢に関係なく「他者と交わることの大切さ」と「キリスト教の愛を教えることの大切さ」です。近頃の傾向として、学校でも塾でも、近所でも同じ歳の子とばかり関わりあうことが多いように思います。或いはコンピューター・ゲーム、インターネットの発達で全く他者と交わらない青少年も増加しています。家庭にあっても核家族化が進み、特に都会では祖父母や自分の親以外の大人との交わりが無い家族が多くなっています。私は力による先輩後輩の関係が必ずしも良いとは思いませんが、歳の違う子達が交わり、上の子は下の子をいたわり、下の子は上の子を敬い頼るという関係が無くなりつつあるように見えます。

 小3から中3男女が参加したキャンプでは横の関係だけでなく上下の関係も様々な展開が見られ、共に何週間か過ごした子供たちは、大学生や大人のカウンセラーやディレクターも含め大きな家族のような関係になりました。22年経った今でも私は合同メソジスト教会のキャンプ運営委員をしたり、YMCAのキャンプに関わったりしていますが、それは忘れられつつある本当の教育=心の教育がそこにあると確信しているからです。

 今日の青少年の問題も、一部の先天的精神病或いは知的発達障害の子供たちを除き、この年齢を超えた交わりや分かち合いの中に解決の糸口があるのではないかと思うのですが、皆さんはどうお考えでしょうか。

変わるアメリカ、変わらぬ教会、その2

2003年7月3日

 先週6月26日に、最高裁でその週二つ目の大きな裁定が下りました。(一つ目は、その1に書きました。)それはテキサス、オクラホマ、カンサス、ミシシッピーの4州で今でも残っているSodomy Law(本来は同性間、人獣間、または変質的異性間の性関係を禁ずる法律だが、現行では同性間の性行為に適応された法律で、聖書の神の裁きを受けたソドムとゴモラの町のSodomと同語源)が基本的人権を侵害する悪法であるというものです。この裁定は1986年にテキサス州、ヒューストンで警察にSodomy Law違反で捕まったゲイのカップルがそのまま最高裁でも罪とされたことに対し、その不当性を主張し控訴し、今年まで法廷で争い続け、それが実を結んだものでした。このゲイのカップルは彼らがが彼らのアパートで性行為をしている最中に、隣人の通報(しかも虚偽)で警察に捕まり罪に定められたケースです。86年当時には罪となりましたが、今回は一転、無罪。ゲイの基本的人権を守る裁定となりました。

 翌日の新聞の一面にこの記事が掲載されていましたが、裁定の論点は、彼らが成人であること、彼らの一個人としての人権は守られるべきであること、でした。ですから誤解の無いように書いておきますが、これは決して未成年への性行為強要だとか、買春だとか、明らかに違法である行為、或いは無責任に相手をとっかえひっかえするような快楽至上主義的性行為を容認したものではありません。あくまで大人である二人の男性同士(或いは女性同士)が双方の任意(合意)で性的関係を持った場合ということです。

 以前にも書きましたが、ただ同性愛者だというだけで白い目でみられるどころか、お互いにパートナーとして愛し、信じあい、結婚に相当する関係になっていてもSodomy Lawは罪と裁いてしまいました。この法律は上述の説明にありますように、旧約聖書、創世記13、18、19章に記してあります、神に滅ぼされた「淫らで腐敗したソドムの町」から来ていますが、聖書が同性愛や淫行、貪欲を裁いていることをそのまま裁定に使っているわけです。

 今日、同性愛者が必ずしも不埒な或いは無責任な快楽主義から生まれたのではなく、彼らの多くが生まれつきであったり、様々な理由からそうなり、それ故に世間から人権を認められず苦しんでいる状況があるということを、心ある人達は知っています。ですから、ただ聖書に書いているからと言って、彼らの人権、真剣な思いを認めないことこそ裁かれるべきではないかと私は思います。その意味で今回の最高裁の裁定は大きな前進と言えます。

 この裁定のお陰か、つい一昨日(7月1日)アメリカ最大のスーパーストアーのウォル・マートがゲイの人達に対する差別をなくすべく新しい社内規則を設けたとニュースで聞きました。同性同士でも本当に誓いを立て、パートナーとして共に生きていくのであれば、私は大いに祝福したいと思います。残念ながら、合同メソジスト教会では同性愛者の結婚は認められておらず、牧師達も同性愛者の結婚式の司式することは禁じられていますが…。

変わるアメリカ、変わらぬ教会、その1

2003年7月2日

 先週、アメリカの最高裁で下した裁定のうち2つが大きくクローズアップされました。一つは高等教育機関(主に大学、大学院)でのマイノリティー(少数民族)優遇政策(Affirmative Action)の継続、もう一つはテキサス州など一部の州法で同性愛者が共に住み、夫婦あるいはカップルとして暮らすことを、不道徳、違法として取り締まる規制の廃棄です。後者はその2で触れることにして、ここではマイノリティー優遇政策について考えてみたいと思います。

 日本以上に貧富の格差があるアメリカでは教育にも当然貧富の差が反映されます。2003年現在でもアフリカ系、ラテン系、アジア系、ヨーロッパ系で職種や学歴に開きがあり、やはり白人が裕福な階層をしめる率が圧倒的に高く、アジア系が学歴では頑張っていますが、アジア系の人々が会社や諸機関で取締役や高い役職につくことはまだまだ少ないようです。因みに私が卒業した大学、神学校、現在通っている大学院(FIT、Pratt, Drew, Yale, Columbia)などを比較してもアイビー・リーグでは人種差別を無くそうとはしていますが、結果的に白人が圧倒的に多く、アジア系の学生が20~30%、アフリカ系、ラテン系は10%未満で注意して見ないと気付かない時さえあります。

 こういった差別社会の中で貧しい階層や中産階級でも下の方の人達が日本のように教育費をふんだんにかけて子供を有名大学に送るのは至難の業と言えます。ですから学校によってははっきりと、白人、何パーセント、マイノリティー(アフリカ系、ラテン系、アジア系)の学生何パーセントを毎年入れるとうたっているところがあります。ミシガン大学などはその代表です。この制度ですとマイノリティーの学生が受験してきた時、白人の学生と比べ、例えばSAT(大学受験学力テスト)やGRE(大学院受験学力テスト)の点がやや低くても入れる可能性が高くなります。

 ブッシュ大統領がこの制度に対しクレームを付け、今回の最高裁での裁定になったわけですが、そのクレームとは、大学にトップで合格する学生は問題ないが、合格圏すれすれで同じ点数を取った白人学生と黒人学生がいたら、マイノリティーの枠がまだ空いていれば黒人学生が合格し、白人は落ちてしまう。これは逆差別になる。といったものです。この主張は以前から白人内にはありました。確かに一見正論のようにも聞こえます。しかし私はやはりマジョリティー(多数派)のマイノリティーに対する無理解と本当に実力が無い者の言い訳のように思えてなりません。

 白人で不合格だった人が「黒人やアジア系の学生が自分よりも学力が無いのに入って不公平だ」と言うこと自体、何と情け無いことだと本人が思わないのでしょうか?そんなことを言わないでも入れるだけの実力、学力を身に付け、周りに有無を言わさないようでなければならないと思うのですが、、、。有名校に入りたいという思いだけで、人格的なことが取り沙汰されない結果、こういう了見の狭い人間(親も?)を作り出してしまうのはアメリカも日本も同じようです。

 そして何よりも財政的に恵まれないマイノリティーの学生が、少々、学力テストの点数が低かったとしても、一応、そこの大学を受験するだけの実力があるから、受験しているということへの評価をもっとすべきでしょう。日本と違い(同じ?)アメリカでは受験前にSATの点数、学校の成績などで、受験する学校が絞られてしまいます。例えばアイビーリーグだとSAT1300点が目安で、それに満たない点数をとった学生は最初から受験を諦めざるを得ないようになっています。その意味では共通一次テストと同じかもしれません。

 ですから白人であれ、黒人であれある大学を受験してきたとしたら、SATなどは基準を満たしているわけです。その中で10点や20点の違い、あるいは50点違ったとしても、それが何だと言うのか。また、黒人など恵まれない環境で育ってきた学生が、有名校を受験してきたとしたら、そこには金持ちで教育環境も恵まれた学生とは比べ物にならないほど努力してきたと言えます。私も留学生としてアメリカに来ましたから、分かりますが、ハンディ(私の場合は言葉、マイノリティーの学生の場合、それまでの教育環境の不備など)があるほど努力しなくてはなりません。私はいつもこう思って努力しました。私のBはアメリカ人のB+、私のB+は彼らのA-、私のA-は彼らのAに匹敵すると。では、AとかA+はと考えると限がありませんね。あくまで一つの考え方です。

 貧しい環境で育ったアフリカ系の学生が有名校を受験してきたとしたら、それだけでも合格するに足ると私は思います。彼らがSATで1250点取ったら、それは白人の1300点に等しいと思えます。これらの理由、状況を考えれば、5対4の僅差だったとはいえ「マイノリティー優遇措置が違法にならない」として守られたことは実に価値があると言えます。いつの日か、そのような措置が本当に要らなくなる時代が来るとは思いますが、今はまだ時期尚早、まだまだ社会を改善してかなければならないところにいます。

 私の所属している、米国合同メソジスト教団のニュージャージー教区でも、現在のビショップ(監督官)になってから、マイノリティーの登用が目立ちます。ビショップがアフリカ系といこともあり、上述の優遇措置を取り入れているかのように見えます。彼の下に9人のスーパーインテンデント(補佐官みたいなものでしょうか)が彼の任命でいますが、白人男性が2名であとは、白人女性、黒人女性、ヒスパニック系、韓国人と様々です。私自身は日本人ということでマイノリティーに属すので、それほど感じませんでしたが、長年牧師をしてきた白人男性達の中には、出世が閉ざされたような感じがするようで、今のビショップが就任してから2~3年、結構あちこちで不平を言っているのを耳にしました。なにしろスーパーインテンデントや役職につくと年収が倍近くになります。聖職の道も金次第ではありませんが、まあ牧師も普通の人間、多少は楽な生活がしたいと思っても仕方ないのでしょう。

 確かに役についている人の全部が実力者かというと疑問もありますが、一人一人の牧師は自分の信仰をもっと強め、牧師としての奉仕を全うすることに勤めることの方が大切だと思うのは私だけではないと思います。教会のような世俗とは関係なくあるべき所でもまだまだ人種や階級の隔て、偏見が残っており、これらを一掃していかなければ、真の開かれた教会にはなれないと私は思います。まだまだ長い道のりです。



© 2003 - 2006 Park Ridge United Methodist Church