変わるアメリカ、変わらぬ教会、その2
先週6月26日に、最高裁でその週二つ目の大きな裁定が下りました。(一つ目は、その1に書きました。)それはテキサス、オクラホマ、カンサス、ミシシッピーの4州で今でも残っているSodomy Law(本来は同性間、人獣間、または変質的異性間の性関係を禁ずる法律だが、現行では同性間の性行為に適応された法律で、聖書の神の裁きを受けたソドムとゴモラの町のSodomと同語源)が基本的人権を侵害する悪法であるというものです。この裁定は1986年にテキサス州、ヒューストンで警察にSodomy Law違反で捕まったゲイのカップルがそのまま最高裁でも罪とされたことに対し、その不当性を主張し控訴し、今年まで法廷で争い続け、それが実を結んだものでした。このゲイのカップルは彼らがが彼らのアパートで性行為をしている最中に、隣人の通報(しかも虚偽)で警察に捕まり罪に定められたケースです。86年当時には罪となりましたが、今回は一転、無罪。ゲイの基本的人権を守る裁定となりました。
翌日の新聞の一面にこの記事が掲載されていましたが、裁定の論点は、彼らが成人であること、彼らの一個人としての人権は守られるべきであること、でした。ですから誤解の無いように書いておきますが、これは決して未成年への性行為強要だとか、買春だとか、明らかに違法である行為、或いは無責任に相手をとっかえひっかえするような快楽至上主義的性行為を容認したものではありません。あくまで大人である二人の男性同士(或いは女性同士)が双方の任意(合意)で性的関係を持った場合ということです。
以前にも書きましたが、ただ同性愛者だというだけで白い目でみられるどころか、お互いにパートナーとして愛し、信じあい、結婚に相当する関係になっていてもSodomy Lawは罪と裁いてしまいました。この法律は上述の説明にありますように、旧約聖書、創世記13、18、19章に記してあります、神に滅ぼされた「淫らで腐敗したソドムの町」から来ていますが、聖書が同性愛や淫行、貪欲を裁いていることをそのまま裁定に使っているわけです。
今日、同性愛者が必ずしも不埒な或いは無責任な快楽主義から生まれたのではなく、彼らの多くが生まれつきであったり、様々な理由からそうなり、それ故に世間から人権を認められず苦しんでいる状況があるということを、心ある人達は知っています。ですから、ただ聖書に書いているからと言って、彼らの人権、真剣な思いを認めないことこそ裁かれるべきではないかと私は思います。その意味で今回の最高裁の裁定は大きな前進と言えます。
この裁定のお陰か、つい一昨日(7月1日)アメリカ最大のスーパーストアーのウォル・マートがゲイの人達に対する差別をなくすべく新しい社内規則を設けたとニュースで聞きました。同性同士でも本当に誓いを立て、パートナーとして共に生きていくのであれば、私は大いに祝福したいと思います。残念ながら、合同メソジスト教会では同性愛者の結婚は認められておらず、牧師達も同性愛者の結婚式の司式することは禁じられていますが…。






