開かれた教会
2003年6月24日既にご存知の方も多いかと思いますが、昨日のニューヨーク・タイムズの国際ニュースにイギリス国教会で新たにビショップになった同性愛者の神父の記事が載っていました。先週私が合同メソジスト教団、ニュージャージー教区の年次総会に出席している最中にも友人の牧師達や信徒代表の間でこのことが話題になっていました。私は正直「イギリス国教会は進んでいるな~。」と思う半面、合同メソジスト教団はまだまだ開かれた教会になっていないと思いました。
これをお読みの皆さんの中にはまだまだ同性愛者に対する反感や、同性愛者が牧師や教会指導者になることに反対される方もいられると思いますが、私は同性愛の方がちゃんと自分は同性愛者であると表明して、牧師になったりビショップに選出されることに何の異存もありません。そのことで彼らを裁きませんし、裁けません。何故なら、私は彼らの苦悩を見てきましたから。
私の学校の恩師の娘さんが同性愛者でそのことで本人も家族も悩んだことを恩師から聞きました。幼い頃から、男の子に興味が持てず、思春期になっても、周りの女の子達が男の子や、男性芸能人の話で夢中になっても、どうしても男性に恋愛感情が持てないことに本人がどれほど悩んだか、また親である教授がどれほどそれを見ていて何もできず辛い思いをしたかを聞きました。
他の恩師で夫の暴力に苦しみ、男性不信になり、同性愛者となった方もいます。また生まれながらの同性愛者である男女の友人が何人もおり、「どうしても異性を愛せない」という現実もあることも知りました。一部の快楽に溺れて混乱混交の性を求める人は別にして、多くの同性愛者が生まれつきであり、それ故に悩んでいる。それを聖書に「男色はいけない」と書いてあるからと言って、同性愛は罪だと断罪する権利が、一般キリスト者にあるでしょうか?私は無いと言い切ります。
合同メソジスト教団の中にも同性愛者の牧師が何人もいますが、その中の殆どが教会法規、聖書主義による裁きを恐れ、名乗りを上げていません。正式に表明しているのはごく一部です。
私は快楽至上主義的、性の混同は良しとしませんが、生まれつき同性しか愛せない人たちもいることをもっと認識すべきであり、そういう人たちの人権を奪ってはいけないと考えます。教会はどのような立場の人をも受け入れる開かれた教会であるべきと信じていますが、皆さんはどうお考えでしょうか。