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DV一考察

2005年7月21日

 DV、Domestic Violence(家庭内暴力)が相変わらず増えつづけている。3、4年前のデータだが、ここアメリカ、ニュージャージーでは夫から暴力(激しく罵倒された、手を挙げられた、病院に行かねばならないほどの暴行を受けたなどなど)を受けた事があると回答した女性が8件に1件の割合だった。確かニュージャージーの家族、社会調査報告に載っていたと記憶しているが、もしかしたらこの数字はもっと高いかもしれない。これは既婚者を対象としたアンケート調査の結果であるから、未婚者で、現在交際中の男女も入れたら、この数字は更に高くなる可能性がある。

 DVやChild Abuse(児童虐待)が、21世紀になった今日、文明の進んだとされるアメリカ、日本でいまだに起こっている事、しかも増えていることには驚きを禁じえない。最も、その文明最先端の国、世界一金持ちの国が戦争をし続け、罪も無いイラクの市民を傷つけたり、愛国主義を焚きつけ何も知らない貧しい若者を志願兵として募り、戦地に送っているのだから、DVが増えても当たりまえかもしれない。が、だからと言ってDVを黙認してはならない。

 勿論、夫婦、恋人間には色々なことがあるだろう。私も離婚経験者だから、必ずしもいつもいつも夫が一方的に悪いとは言わないし、どの家庭も夫婦が喧嘩するにはそれ相応の理由があるとは思う。夫には夫の、妻には妻の言い分があるだろう。しかしいかなる理由があるにせよ自分の妻を殴ったり、恋人に手を挙げる行為は許されるものではない。私自身、かつて夫婦仲が悪くなり、お互いが罵倒しあい、妻も私も自制心が崩れてしまい、頻繁にではないが手を挙げてしまったことがあった。牧師になる前の事だが、その事を15年経った今でも後悔している。悔やんでも悔やみきれない。その後、更なる回心を経験し牧師になってからはなお更、暴力に対する嫌悪感が強まり、後悔の念も強くなった。
(ちょっと脱線しますが、私の心境を例え言うなら、以前タバコを吸っていた人が、タバコを止めてからしばらく経つと、全く吸ったことの無い人よりも、うんとタバコの臭いに敏感になり、タバコに嫌悪感を覚えるのに似ています。)
 
 知り合いにアメリカがイラク戦争に踏み切る前、反戦デモに参加した男がいます。その頃は彼の仕事、言っていたこと、デモに参加したことを私は立派だと思いました。しかしその後、彼が自分の交際相手に手を挙げたことを知りました。1度ならず何度も。そのような女性に手を挙げるような奴が反戦デモ?ちゃんちゃらおかしい。自分のガール・フレンドに暴力を振るうような人間がどうして「反戦」なんて言えますか?そういう人間には偽善者の称号が良く似合う。

 男達に言う。例え自分が100%正しくても、いかなる理由があるにせよ自分の妻、恋人に手を挙げるな。それは最低の行為である。自分が間違っていたら、くだらない面子なんか捨てて、妻(恋人)に謝罪せよ。いかに普段、かっこ良いことを言ったって、どれほど良い仕事をしていたって、女性を殴るような奴は最悪。人間の屑。

 女性に言う。自分の恋人が手を挙げる男なら、すぐ別れなさい。もし結婚しているなら、夫に手を挙げる事をしないことを誓わせなさい。さもなければ離婚も止む無し。勿論、あなたがいつも正しいとは思いません。自分が間違っていたら、素直に謝ること。因みに、自分がいないと相手(男)が駄目になる、とか自分だったら家庭内暴力癖を治してあげられるなどと思わないこと。

 アル中、薬中、ギャンブル狂の男と恋愛、結婚する女性の殆どが「自分が治してあげられる」「結婚したら止めてくれる」「変わってくれる」と思い込んでいるという傾向があることを社会福祉士から聞きました。しかし、それは幻想です。勿論、例外はありますので、全く無いとは言いません。そういう何かに依存症の男は、あなたの献身でも変わりません。暴力を振るうのも依存症です。あなたが毅然とした態度を取らないことによってそれを増長させていると思いましょう。

 そういった依存症の人が立ち直るのに必要なのは本人の意志です。本人が自分の過ちに気付き、回心して生まれ変わらない限り、アル中、薬中、ギャンブル狂、家庭内暴力癖がなおることはありません。幻想は抱かないこと。
 
 何事も話し合いで解決すること。これができないようなら二人はパートナーではありません。力による主従関係です。繰り返して言いますが力で自分よりも力の弱い者を従わせるなんぞ最低な男です。そんな人間ばかりだから、世の中良くならない。

 こういうことを言う自分にも自己嫌悪を感じます。神の国がまた遠くなりました。

驕り高ぶった人

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富みを積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」

マルコ 10:17-23

 時折、自信に満ち溢れた人、また大っぴらにこそ言わないまでも「自分は絶対正しい。」と思い込んでいる人に出会います。特に20代~30代の人に多いような気がします。特に「これから自分の才能を活かしバリバリ仕事をしよう」と思っている20代半ばから後半、またある程度仕事をし、「自分には能力がある」と思っている30代、「仕事が出来る」と思っている30代後半から40代、勉強が「出来る」と思い込んでいる10代後半から20代前半の人々にこの傾向が顕著に見られます。中には本当は自信が全く無いのに,虚勢を張っている人もいますが。このような傾向は多かれ少なかれ誰にでもあります。私も若い頃は実力も無いのに自信過剰で思い上がっていたような気がします。今も実力は?マークなので、もしかしたらそのような嫌な面があるかもしれません。が、解っている事は自分は、それほどの人物ではないということ。

 以前もどこかで書きましたが、日本人に多く見られる傾向に「半端なインテリ」があります。大して深く物事を知らないのに、知識量だけは多く、自分が何でも知っている、だから自分は正しい、と勘違いしている人たちです。この手の人たちは始末に悪い。何せ自分が正しいから人の言う事を聞きません。また何でも直ぐに斜に構えて批判します。自信を持つことは悪い事ではありませんが、「深い洞察力」、「知識」、「経験」、「感性」、それに加えるなら「人を思いやる優しい心」がなければ、人はいつまでも半端なインテリで真の一人前の人間にはなれないような気がします。では「一人前の人間とは?」と訊かれたら、人の痛みがわかる人、話す前に聞く人、批判を簡単には口にしない人、和を尊び、平和、協調を善しとする人・・・などなど。円満に老いを迎えて、誰にでも優しいご近所のお爺さん、お婆さんなどは正に知者、尊敬されるべき人生の先輩でしょう。

 半端なインテリで何かと言うと人や物事を批判する人は負の力(ネガティブ・エネルギー)を回りに振りまき、一緒にいる人の正の力(ポジティブ・エネルギー)を吸い取ってしまいます。皆さんの中にもそういった人の話を聴いていて自分が知らず知らずのうちに疲れているといった経験をしたことがあるのではと思います。こういった人たちは、素直に聞く、素直に学ぶと言う姿勢がありません。学生だったら必ず自分の勉強が思うような成績が取れなかったり、学校が面白くないと、先生の批判をしたり、学校そのものを批判したり、会社員だったら自分の会社を批判したり、上司や同僚のことを悪く言ったり、或いは社会機構そのものを批判する。どの職種、職場に限らず、こういう人たちはいます。和を乱す人。厄介ですね、これらの人々は人の言う事を聞かないし、他の人から何か言われると、それが善意であっても、自分への批判として捉え、またその人達を批判する。この半端なインテリのひねた性格はどうしたら良くなるのか、正直なところ解りません。

 聖書でもこのような人の回心はなかなか難しいことが書かれています。冒頭の聖書はマルコによる福音書からの引用ですが、一人の青年が「永遠の命」=救いを求め、イエスにきました。この物語りは、貧しい人々がいても、飢えて死んでいる人がいても構わず、何もしない自己中心的な金持ち、資本家の救いの難しさとして解釈されますが、実は本当の問題はこの青年の奢り、自信過剰にあります。彼はイエスから何をすべきかを聞いたとき、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」とすかさず言い返しました。一体誰が本当にこれら一つ一つを全て守りとおす事ができるでしょうか?些細な嘘をついたり(偽証)、こっそりとおやつを食べたり(盗み)、人の悪口を言ったり(殺し)、兄弟で何かを取り合いをしたり(争奪)、父母に逆らったり(敬わない)・・・実は普段、私達がしていることは、よくよく考えると括弧内に書いた通り、イエスが引用した聖書の戒めを全て破る事につながるのです。それがわかれば自分は特別などと思ったり、人や物事を簡単に批判したりできなくなります。
 
 私はアメリカにかれこれ25年暮らしていますが、ニューヨーク周辺に居ますと、留学して来たり、駐在員として派遣されて来たり、青年海外やピース・コープで海外に行って働いて帰ってきたり、また今現在、貧しい人たちの中で活動している人たちとよく出会います。多くの人たちは人格的にも社会的にも優れ、彼らの仕事も尊敬でき、私は彼らから多くのことを学びますが、中には半端なインテリで「自分が正しい」と思っている人もいます。それらの半端な自信過剰のインテリには「海外に出ているから偉いの?」「貧しい人々の為に仕事をしているから偉いの?」「国の機関で働いているから偉いの?」と訊きたくなります。勿論、クリスチャンの中にもそういう人が結構います。牧師とて例外ではありません。

 海外に行かなくたって、上述のようなことをしなくたって、隣人と和を持って、日々一生懸命生きている人は沢山います。それらの人々は自分を何か特別などと思っていない。余程尊敬できます。

 奢り高ぶりを捨てて謙虚に生きることと、自信を持って生きることは両立しないのでしょうか?

 



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