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純愛とは何か?

2005年4月28日

 昨年、日本で「冬のソナタ」が流行ったのを切っ掛けに、韓国ドラマが流行ったり、日本でも「純愛」という言葉が持てはやされて、純愛ドラマなるものがブームだとか。今、アメリカのTV-JapanというNHK専門に放送を流している局でも、「冬のソナタ」を土曜日の午後11時過ぎに放映しています。試しにとビデオを撮って観たり、余裕がある時は直接観みたりしていますが、何を持って「純愛」と呼ぶのだろう?と考えさせられます。

 昨年、誰かが「いわゆるベッド・シーン、過激な性の描写がない、昔(40年~50年前)の日本を思い出す。一人の人をずっと思いつづけている主人公の健気さが良い。だから純愛。」と言っていました。なるほど確かに裸やセックスは出てきませんし、その意味では子供が居ても安心して観ていられるでしょう。けれどもだから純愛なのか、どうも疑問です。登場人物は自分の思いを押し通すため、それまで付き合ってきた人を捨てたり、或いは悲しい思いをさせたり、また精一杯我慢して、「彼女の為」と自分の身を引くくせに、彼女の好きになった男性を受け入れられない。まあ最後まで見ていませんので、何とも言えませんが、これだけグチャグチャしていても純愛なのかな・・・と思ってしまいます。

 そもそも純愛とは何か?自分の思い、欲、都合を一切捨て相手のことを思う。たとえ相手が振り向いてくれなくても、相手の幸せを望む。しかし、実際には人が誰かを好きになり付き合った時、相手の為と言い、またそう思って何かをするが、実は自分の利益を望み、相手に自分をもっと愛してもらいたいから、振り向いて欲しいから、その為に相手に尽くす。それが人間の本当の姿ではないでしょうか。だから関係がおかしくなると態度も豹変してしまう。時にはもう二度と会えなくなる。悲しい独り善がりの愛の結末です。

 聖書には愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真理を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(1コリント 13:4-7.)と書かれています。これに価するような愛を持っている人がいるでしょうか?恐らく居ないと思います。イエス・キリストを除いては。神の子イエスしかこのような純愛を貫けた方はいないでしょう。だから私は聖書に愛を学びつづけます。

 因みに私が好きな「純愛」に近い物語りは伊藤左千夫の「野菊の墓」です。お読みになっていない方には是非お勧めします。



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