何一つ無駄はなし。いつか芽が出る。

2006年2月5日 5:25 PM

 私は高校の頃、フォーク・ソング・クラブに入っていました。フォーク・ソングなんて言うと何となく旧い感じですが、吉田拓郎、井上陽水、ユーミン、かぐや姫、アリス、チューリップ、オフコース等の日本のバンドに始まり、アメリカの60年代、70年代のグループ、PPM、キングストン・トリオ、ブラザーズ・フォー等を盛んにコピーしては歌っていました。下手なギターを片手に色々な歌を歌い、時にコンサート活動などもして、その頃、高校の勉強そっちのけでやっていたことと言えば、歌うことと、美術研究所に行って絵を描くことでした。

 ですから1979年にアメリカに留学する時、美術関係のの友人の一人は私が歌をやりにアメリカに行く、と思っていたようです。その後、美術も音楽も下手なりに続けていますが、高校のクラブはその後無くなってしまいました。しかし、当時の仲間たちとは今でも連絡を取り合い、日本では特に子育てが終わった、或いは終わりつつある私たちの年代が頻繁に会うようになり、飲み会等をしょっちゅうするようになり、数年前、愛好会復活となりました。卒業後数十年経った今でも先輩、同輩、後輩とつるんで、高校の同窓会に出て歌ったり、先輩の一人が経営しているライブ・ハウスで集まって歌ったりしていますが、本当に良いものです。大学からアメリカに来てしまった私にとって、日本の学校時代の貴重な繋がりです。

 アメリカの美大留学し、その後不思議な導きで神学校に進み、牧師になりましたが、高校の頃に情熱を傾けてやっていた歌、美術はその後、形が幾度と無く変わりはしましたが、今でも私の生活の一部となり、研究、仕事で使われています。ギターを持って歌うことは、教会でゴスペル・フォークというジャンルに代わり、今でも弾き語りをしています。黒人特有のゴスペルではなく、白人の教会、クリスチャンの間で弾き語りの讃美がフォーク全盛期から始まり、今ではプレイズというジャンルからクリスチャン・ロック、イージーリッスニング系の讃美までに広がりました。日本の教会でも福音派系で広まり、私も教会学校で歌ったり、キャンプで歌ったり、指導したりしています。

 美術も同様。神学校に行く時、神学校の学びはとても厳しく時間的にも他の事はできないと、美術を完全に諦めたのですが、その後、宗教と美術の接点を模索し研究することが「自分の道」として示されてから、現在に至るまで、美術と宗教という広い領域の中で勉強しています。牧師になるという選択をした時、フォーク・ソングや美術などと無関係の仕事・・・と思って、諦めねばと一大決心したのが嘘のようです。

 神の御心は私たち人間には解りません。皆さんの中にも、これまで躓いたり、辛い思いをしたりした時期があり、「あの頃は一体何だったんだろう?」なんて思うことがあるかもしれません。しかしどのような時期でも経験でも、必ず無駄にはならない。神のプロビデンス、御計画の中では無駄、無意味などは存在しない。全てが益に変えられます。ただ、だからと言って、それに甘えず日々一生懸命過ごしてください。皆さんの人生は皆さんの心がけ次第、生き方次第です。今やっていることは、今芽が出なくても必ず10年後、20年後、30年後には何かになります。

DV一考察 Part 2

2006年2月2日 12:18 PM

以前、Domestic Violence(DV)について書きましたが、つい最近、日本語放送のNHKニュースを見ていたらDVの特集をやっていました。これまでDVというと既婚者の問題、夫の妻への家庭内暴力(肉体的、精神的虐待を含む)というイメージが定着していましたが、最近では結婚前のカップル、恋人間の暴力をも含んで考えるようになった、と報道していました。この報道は根本的な問題解決へ向けたかなりの前進と言えます。アメリカでも数年前、高校生、大学生、20代前半の若者のデート・レイプが問題として取り上げられ報道されたことがあります。初めてのデートでお互いまだ良く知り合ってもいない、本当に愛し合っているか分からない状況で、主に男の方から一方的に性行為を求められ、半強制的に性行為をしてしまうというケースが増えているとのことでした。女性は相手への思い、言葉や態度の暴力(力関係)で押し切られ、最悪の場合、性行為が済むとそれっきり相手にされないケースもあると報道していました。

アメリカでも一部の馬鹿な連中で男のマッチョイズムを強調し、肉体的力を誇示したり、女性を力で従わせたりする輩がいます。女性の中にも、少数ではありますが(と信じたい)、それを良しとして受けれいている人がいるのには驚かされます。たまたまテレビのチャンネルを回していると、時たまやっているプロレスとかモーターショーを見ると(勿論すぐチャンネルを替えますが)強靭な肉体を誇る男に、ブロンド(に染めた)セクシャルな格好をした女が付き添うシーンが多々見られます。「愚かなり!」と一笑にふしたいところですが、日本人にも「男は泣いてはならない」とか「男はこうあるべき」とかやたらに「男」「女」を強調した表現、考えがありすぎ、簡単にはできません。旧い男尊女卑の考え方が手を変え品を変え多くの日本人の中に生きている。しかも男性ばかりでなく女性の中にも。これを改革、改善してかない限りDVは無くなりません。

上述のテレビ特集では、日本の若者の実態として結婚前のカップル間での精神的、肉体的暴力行為が増えているとのことでしたが、私は単に隠れていたのが表面に出てきただけと解釈しています。それがようやく女性の意識が高まり、女性の権利の確立が叫ばれて半世紀過ぎ、問題として取り上げられるようになった。女性は相手を「好き」、「愛している」という感情に溺れずに次の点を見つめる必要があります。交際相手が力ずくで性行為を迫ったり、意見が異なると大声で自分を威圧したり、手を挙げる。そんなことは絶対許されてはいけません。勿論、人間ですから時に自分のパートナーと意見が合わず、言い合いになることもあるでしょうし、意思の疎通に欠け喧嘩をすることもあるでしょう。しかし、怒鳴ったり、周りの者、物に八つ当たりしたり、相手に手を挙げるのは人の道から外れている、正に外道の行為です。

この特集では結婚前の交際期間に手を挙げる男は結婚してからも十中八九手を暴力を振るうDVに繋がるとの統計を報告していました。以前にも書きましたが、「(相手が)結婚したら変わってくれる」、とか「私が彼を変えられる。」「変えてみせる。」などという甘い期待、発想はくれぐれも持たないことです。人が回心して変わるには、それ相当の体験が必要です。私は人を心底変えられるのは神の愛のみ、とさえ思っています。

今、もし貴方が結婚前で自分の交際相手からのDVで悩んでいたら、そっこく別れる事をお勧めします。既婚者の方は結婚カウンセリング、法的対応、別居、離婚など状況によって取るべき手段が変わりますが、「自分さえ我慢すれば良いんだ。」などと自分の人格を殺すようなまねだけはしないで下さい。勿論、喧嘩や関係のもつれは、相手だけが一方的に悪いとはいえません。貴方にも反省すべき点があったら直し、相手との関係の修復に努力する必要はあると思います。しかし、例え自分が100%悪くても、相手に暴力は絶対許してはいけません。

真の人間関係に暴力は不要です。

言葉の品性を守る

2005年10月27日 10:11 PM

 アメリカに住んでいて気になることの一つに言葉遣いがある。過去30年以上に渡りポップ・カルチャーやラップ・カルチャーが流行、それに伴い、そこで遣われる言葉が一般化した。その言葉とは中、上流階級、あえて加えるならプロテスタント、カトリック白人文化(人によっては気取った感じがする)、階級制度の支配者層に対し、自分たちの文化、日常語を遣う、言わばスラングのオンパレード。

 元々、とりわけ黒人文化は50年代、一昨日なくなったローサ・パーク婦人のバス席譲渡拒否から始まった、シビル・ライツ(公民権運動)でブレークし、抑圧者である白人に対し被抑圧者の立場から見直すという真の解放が根底にあった。今のラップ・カルチャーにそこまで気骨があるとは思えない。人種差別抵抗運動がいつの間にか、ひねた反社会、犯罪容認、言葉の乱れお構いなしのていたらくに成り下がった面がある。

 汚い言葉遣いや粗悪、下品な態度が、50年代アメリカでジェームズ・ディーンやエルビスが青年に反社会的クール・ガイのシンボルとして受けたように、日本では三船や石原裕次郎の不良青年ぽい危なさが受けたように、今や「カッコいい」とされ、言葉は乱れに乱れ放題。

 昨日、シカゴ・ホワイト・ソックスが88年ぶりにワールド・シリーズを制覇して今年のアメリカプロ野球は終わったが、今年、幾度かヤンキー・スタジアムに行って、この言葉の乱れ、下品なマナーを痛感した。嘗て、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックが活躍した頃の、プライド・オブ・ヤンキーズは夢のまた夢。野球場は子供たちを連れて行く所ではなくなってしまった。

 心ある人達に言いたい。今のまま、下品なカルチャーが格好良い、FやSで始まるスラングが横行するようでは、心も文化も芸術も貧しくなるだけだ。今こそ力を合わせ、美しい言葉遣い、品性のある文化、芸術を創ろうではないか。

 何だか政治結社の呼びかけになってしまったが、今切実に思うことである。

DV一考察

2005年7月21日 11:11 PM

 DV、Domestic Violence(家庭内暴力)が相変わらず増えつづけている。3、4年前のデータだが、ここアメリカ、ニュージャージーでは夫から暴力(激しく罵倒された、手を挙げられた、病院に行かねばならないほどの暴行を受けたなどなど)を受けた事があると回答した女性が8件に1件の割合だった。確かニュージャージーの家族、社会調査報告に載っていたと記憶しているが、もしかしたらこの数字はもっと高いかもしれない。これは既婚者を対象としたアンケート調査の結果であるから、未婚者で、現在交際中の男女も入れたら、この数字は更に高くなる可能性がある。

 DVやChild Abuse(児童虐待)が、21世紀になった今日、文明の進んだとされるアメリカ、日本でいまだに起こっている事、しかも増えていることには驚きを禁じえない。最も、その文明最先端の国、世界一金持ちの国が戦争をし続け、罪も無いイラクの市民を傷つけたり、愛国主義を焚きつけ何も知らない貧しい若者を志願兵として募り、戦地に送っているのだから、DVが増えても当たりまえかもしれない。が、だからと言ってDVを黙認してはならない。

 勿論、夫婦、恋人間には色々なことがあるだろう。私も離婚経験者だから、必ずしもいつもいつも夫が一方的に悪いとは言わないし、どの家庭も夫婦が喧嘩するにはそれ相応の理由があるとは思う。夫には夫の、妻には妻の言い分があるだろう。しかしいかなる理由があるにせよ自分の妻を殴ったり、恋人に手を挙げる行為は許されるものではない。私自身、かつて夫婦仲が悪くなり、お互いが罵倒しあい、妻も私も自制心が崩れてしまい、頻繁にではないが手を挙げてしまったことがあった。牧師になる前の事だが、その事を15年経った今でも後悔している。悔やんでも悔やみきれない。その後、更なる回心を経験し牧師になってからはなお更、暴力に対する嫌悪感が強まり、後悔の念も強くなった。
(ちょっと脱線しますが、私の心境を例え言うなら、以前タバコを吸っていた人が、タバコを止めてからしばらく経つと、全く吸ったことの無い人よりも、うんとタバコの臭いに敏感になり、タバコに嫌悪感を覚えるのに似ています。)
 
 知り合いにアメリカがイラク戦争に踏み切る前、反戦デモに参加した男がいます。その頃は彼の仕事、言っていたこと、デモに参加したことを私は立派だと思いました。しかしその後、彼が自分の交際相手に手を挙げたことを知りました。1度ならず何度も。そのような女性に手を挙げるような奴が反戦デモ?ちゃんちゃらおかしい。自分のガール・フレンドに暴力を振るうような人間がどうして「反戦」なんて言えますか?そういう人間には偽善者の称号が良く似合う。

 男達に言う。例え自分が100%正しくても、いかなる理由があるにせよ自分の妻、恋人に手を挙げるな。それは最低の行為である。自分が間違っていたら、くだらない面子なんか捨てて、妻(恋人)に謝罪せよ。いかに普段、かっこ良いことを言ったって、どれほど良い仕事をしていたって、女性を殴るような奴は最悪。人間の屑。

 女性に言う。自分の恋人が手を挙げる男なら、すぐ別れなさい。もし結婚しているなら、夫に手を挙げる事をしないことを誓わせなさい。さもなければ離婚も止む無し。勿論、あなたがいつも正しいとは思いません。自分が間違っていたら、素直に謝ること。因みに、自分がいないと相手(男)が駄目になる、とか自分だったら家庭内暴力癖を治してあげられるなどと思わないこと。

 アル中、薬中、ギャンブル狂の男と恋愛、結婚する女性の殆どが「自分が治してあげられる」「結婚したら止めてくれる」「変わってくれる」と思い込んでいるという傾向があることを社会福祉士から聞きました。しかし、それは幻想です。勿論、例外はありますので、全く無いとは言いません。そういう何かに依存症の男は、あなたの献身でも変わりません。暴力を振るうのも依存症です。あなたが毅然とした態度を取らないことによってそれを増長させていると思いましょう。

 そういった依存症の人が立ち直るのに必要なのは本人の意志です。本人が自分の過ちに気付き、回心して生まれ変わらない限り、アル中、薬中、ギャンブル狂、家庭内暴力癖がなおることはありません。幻想は抱かないこと。
 
 何事も話し合いで解決すること。これができないようなら二人はパートナーではありません。力による主従関係です。繰り返して言いますが力で自分よりも力の弱い者を従わせるなんぞ最低な男です。そんな人間ばかりだから、世の中良くならない。

 こういうことを言う自分にも自己嫌悪を感じます。神の国がまた遠くなりました。

驕り高ぶった人

11:10 PM

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富みを積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」

マルコ 10:17-23

 時折、自信に満ち溢れた人、また大っぴらにこそ言わないまでも「自分は絶対正しい。」と思い込んでいる人に出会います。特に20代~30代の人に多いような気がします。特に「これから自分の才能を活かしバリバリ仕事をしよう」と思っている20代半ばから後半、またある程度仕事をし、「自分には能力がある」と思っている30代、「仕事が出来る」と思っている30代後半から40代、勉強が「出来る」と思い込んでいる10代後半から20代前半の人々にこの傾向が顕著に見られます。中には本当は自信が全く無いのに,虚勢を張っている人もいますが。このような傾向は多かれ少なかれ誰にでもあります。私も若い頃は実力も無いのに自信過剰で思い上がっていたような気がします。今も実力は?マークなので、もしかしたらそのような嫌な面があるかもしれません。が、解っている事は自分は、それほどの人物ではないということ。

 以前もどこかで書きましたが、日本人に多く見られる傾向に「半端なインテリ」があります。大して深く物事を知らないのに、知識量だけは多く、自分が何でも知っている、だから自分は正しい、と勘違いしている人たちです。この手の人たちは始末に悪い。何せ自分が正しいから人の言う事を聞きません。また何でも直ぐに斜に構えて批判します。自信を持つことは悪い事ではありませんが、「深い洞察力」、「知識」、「経験」、「感性」、それに加えるなら「人を思いやる優しい心」がなければ、人はいつまでも半端なインテリで真の一人前の人間にはなれないような気がします。では「一人前の人間とは?」と訊かれたら、人の痛みがわかる人、話す前に聞く人、批判を簡単には口にしない人、和を尊び、平和、協調を善しとする人・・・などなど。円満に老いを迎えて、誰にでも優しいご近所のお爺さん、お婆さんなどは正に知者、尊敬されるべき人生の先輩でしょう。

 半端なインテリで何かと言うと人や物事を批判する人は負の力(ネガティブ・エネルギー)を回りに振りまき、一緒にいる人の正の力(ポジティブ・エネルギー)を吸い取ってしまいます。皆さんの中にもそういった人の話を聴いていて自分が知らず知らずのうちに疲れているといった経験をしたことがあるのではと思います。こういった人たちは、素直に聞く、素直に学ぶと言う姿勢がありません。学生だったら必ず自分の勉強が思うような成績が取れなかったり、学校が面白くないと、先生の批判をしたり、学校そのものを批判したり、会社員だったら自分の会社を批判したり、上司や同僚のことを悪く言ったり、或いは社会機構そのものを批判する。どの職種、職場に限らず、こういう人たちはいます。和を乱す人。厄介ですね、これらの人々は人の言う事を聞かないし、他の人から何か言われると、それが善意であっても、自分への批判として捉え、またその人達を批判する。この半端なインテリのひねた性格はどうしたら良くなるのか、正直なところ解りません。

 聖書でもこのような人の回心はなかなか難しいことが書かれています。冒頭の聖書はマルコによる福音書からの引用ですが、一人の青年が「永遠の命」=救いを求め、イエスにきました。この物語りは、貧しい人々がいても、飢えて死んでいる人がいても構わず、何もしない自己中心的な金持ち、資本家の救いの難しさとして解釈されますが、実は本当の問題はこの青年の奢り、自信過剰にあります。彼はイエスから何をすべきかを聞いたとき、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」とすかさず言い返しました。一体誰が本当にこれら一つ一つを全て守りとおす事ができるでしょうか?些細な嘘をついたり(偽証)、こっそりとおやつを食べたり(盗み)、人の悪口を言ったり(殺し)、兄弟で何かを取り合いをしたり(争奪)、父母に逆らったり(敬わない)・・・実は普段、私達がしていることは、よくよく考えると括弧内に書いた通り、イエスが引用した聖書の戒めを全て破る事につながるのです。それがわかれば自分は特別などと思ったり、人や物事を簡単に批判したりできなくなります。
 
 私はアメリカにかれこれ25年暮らしていますが、ニューヨーク周辺に居ますと、留学して来たり、駐在員として派遣されて来たり、青年海外やピース・コープで海外に行って働いて帰ってきたり、また今現在、貧しい人たちの中で活動している人たちとよく出会います。多くの人たちは人格的にも社会的にも優れ、彼らの仕事も尊敬でき、私は彼らから多くのことを学びますが、中には半端なインテリで「自分が正しい」と思っている人もいます。それらの半端な自信過剰のインテリには「海外に出ているから偉いの?」「貧しい人々の為に仕事をしているから偉いの?」「国の機関で働いているから偉いの?」と訊きたくなります。勿論、クリスチャンの中にもそういう人が結構います。牧師とて例外ではありません。

 海外に行かなくたって、上述のようなことをしなくたって、隣人と和を持って、日々一生懸命生きている人は沢山います。それらの人々は自分を何か特別などと思っていない。余程尊敬できます。

 奢り高ぶりを捨てて謙虚に生きることと、自信を持って生きることは両立しないのでしょうか?

 

第二次大戦後60年

2005年5月4日 9:46 AM

 このところ中国で大規模な反日デモが幾度も起きているが、中国はその原因を日本側にあるとしている。しかしこのまま続くと双方への経済的打撃が大きいので取り締まりを強化したが、もし中国経済に何ら影響を与えないようなら、そのまま放置したような気もする。

 彼らの主張・問題提起は

  1. 日本の一部社会科教科書における、第二次大戦までの軍国日本の韓国、中国及び東南アジア侵略の正当化
  2. 小泉首相の靖国神社参拝
  3. 第二次大戦以降、日本が正式に謝罪をしていない

というもの。

 1は確かに侵略を他の言葉に置き換え、さも日本の軍事支配が中国や韓国に必要だったと読める、教科書の表現は歴史を歪め、誤った歴史観を捏造してしまうので、日本は素直に認め、是正すべきだと思う。

 2も同様。靖国は天皇が現人神と呼ばれ、天皇の為と称して、アジアを侵略した軍国日本の軍人を祭った神社だから、当然、そこに参拝することは、軍国日本の侵略を正当化するのみならず賛美することにもなる。一般に日本人は「宗教は云々・・・」と宗教を排除する傾向にあるくせに、こういう問題には疎い。特にキリスト教に対する偏見は強い。これは歴史の中で作られたものだがAまあまた別の機会に書くことにして、

 3の謝罪について。今回小泉首相が、10年前の村山首相の声明を引用して、真摯にこれからの日中関係を築いていくという演説をしたが、この村山首相の発言は全く知らなかった。10年前といえばは日本語テレビも入れていなかったし、牧師試験、新しい教会派遣などなどで、全く目が日本に向いていなかった。

 村山首相の声明は過去の日本の誤り=侵略の罪を認めた上で、より強い友好関係を日中、日韓、またアジア諸国と築いていこうという非常に素晴らしいものであった。にもかかわらず、中国や韓国がいまだに不満に思うのは何故か。それは正式に訪中、訪韓して謝罪し、保証金を支払うという目に見える形になっていないからだと思える。日本は中国や韓国にこれまでかなり財政援助してきた。その額は一度ニュースで聞いて「へ~!」と驚く額だった。しかし、それを中国、韓国の一般庶民は知らない。

 やはりここはそういった財政援助や経済協力などという名目を一度取っ払って、正式に見える形で謝罪し、無返済の保証金を出すということで納めれば良いように思う。さもなければ、今回のような問題はいつまでも続く。すれば良いという問題でもないが、しないで同じことを繰り返すよりは一度してスッキリとした形で前進する方が良い。

 聖書の中でも「和解」「許し」について教えている箇所が何箇所もあるが、それほど和解は難しい。日本も中国、韓国もいつまでも過去、禍根にとらわれないで、新しいアジアを作って欲しい、ヨーロッパが違いを乗り越え、過去の過ちを克服し、一つの経済協力機構として団結を始めたように。

純愛とは何か?

2005年4月28日 10:04 AM

 昨年、日本で「冬のソナタ」が流行ったのを切っ掛けに、韓国ドラマが流行ったり、日本でも「純愛」という言葉が持てはやされて、純愛ドラマなるものがブームだとか。今、アメリカのTV-JapanというNHK専門に放送を流している局でも、「冬のソナタ」を土曜日の午後11時過ぎに放映しています。試しにとビデオを撮って観たり、余裕がある時は直接観みたりしていますが、何を持って「純愛」と呼ぶのだろう?と考えさせられます。

 昨年、誰かが「いわゆるベッド・シーン、過激な性の描写がない、昔(40年~50年前)の日本を思い出す。一人の人をずっと思いつづけている主人公の健気さが良い。だから純愛。」と言っていました。なるほど確かに裸やセックスは出てきませんし、その意味では子供が居ても安心して観ていられるでしょう。けれどもだから純愛なのか、どうも疑問です。登場人物は自分の思いを押し通すため、それまで付き合ってきた人を捨てたり、或いは悲しい思いをさせたり、また精一杯我慢して、「彼女の為」と自分の身を引くくせに、彼女の好きになった男性を受け入れられない。まあ最後まで見ていませんので、何とも言えませんが、これだけグチャグチャしていても純愛なのかな・・・と思ってしまいます。

 そもそも純愛とは何か?自分の思い、欲、都合を一切捨て相手のことを思う。たとえ相手が振り向いてくれなくても、相手の幸せを望む。しかし、実際には人が誰かを好きになり付き合った時、相手の為と言い、またそう思って何かをするが、実は自分の利益を望み、相手に自分をもっと愛してもらいたいから、振り向いて欲しいから、その為に相手に尽くす。それが人間の本当の姿ではないでしょうか。だから関係がおかしくなると態度も豹変してしまう。時にはもう二度と会えなくなる。悲しい独り善がりの愛の結末です。

 聖書には愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真理を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(1コリント 13:4-7.)と書かれています。これに価するような愛を持っている人がいるでしょうか?恐らく居ないと思います。イエス・キリストを除いては。神の子イエスしかこのような純愛を貫けた方はいないでしょう。だから私は聖書に愛を学びつづけます。

 因みに私が好きな「純愛」に近い物語りは伊藤左千夫の「野菊の墓」です。お読みになっていない方には是非お勧めします。

クリスマス嫌い

2004年12月20日 9:08 AM

サーキットライダー本文にも書きましたし、説教でも触れましたが、私はクリスマス当日が過ぎるまでクリスマスをお祝いする気持ちになれません。とりわけコマーシャル思考のクリスマス、どこもクリスマス商戦で賑わい、日頃はキリスト教と全く無関係に生きてる人々が、我も我もとクリスマス・プレゼントを買い回る。人々の運転も殺気立ち、このシーズンも2度ほどぶつけられそうになりました。ようやくクリスマスが終わり、心から主イエスの聖誕を喜んでいます。

この時期ディプレスする人は結構多いようです。先日もラジオのトークショーを聴いていたら、「クリスマスの音楽ばかり流れるこの時期はうんざりする。」とか「自分はユダヤ人なのでクリスマスとは無関係でいたい」とか「自分はイギリス人クリスチャンだが、アメリカのクリスマスはケバケバしくてうんざりする。もっと質素に、主の聖誕をお祝いすることはできないのか?」と幾人もの人が電話で言っていました。全く同感です。
 
日頃「私は宗教は要らない。」とか「宗教はどうも・・・」と言っている方、中高年、若者に一言。曖昧な態度や、こう言う時だけ、クリスマスを利用してパーティーをしたり、高いレストランやホテルを予約して恋人と過ごすなどという愚行は止めて欲しい。信じていないのだったら、自分の信念を全うすべし。

この冬、アメリカ・ニュージャージーのある町で、ある一家が「うちはキリストを信じていないから、クリスマスの讃美歌は一切聴かせないで欲しい」と公立の学校、町に訴えを起こし、学校と町は、その一家と「クリスマス讃美歌は一切歌わない、流さない」ということで和解しました。その一家は非常に自己中心で独断的であると思います。自分達が嫌だったら自分達だけ他の人が讃美歌を歌っているのに交わらなければよいし、そのような場に行かなければよいし、耳栓をすればよい、と私は思うのですが。彼らは自分達は他の人と同等の権利、宗教色のある音楽を聴かない権利があると主張して譲りませんでした。しかし、見方を変えると彼らの方がある意味では、自分達の信念を守り通していると言えます。上述の日本人の多くの人たちより余程、小気味よい。

上述の人々はクリスマスの次はにわか神道信徒、仏教徒になって初詣。先日、その昔一世を風靡した牧伸二(失礼、漢字が間違えていたら御免なさい。)の「あ~あ~あん、やゃんなっちゃった、あ~あ~あん、驚いた」を久しぶりにTV-Japanで観ましが、まさにその心境です。

聖書を学ぶこと

2004年10月15日 4:19 AM

 時折、「聖書が全く解らない」と言う方がいます。「キリスト教には興味があるけど、聖書は難しいから教会には行けない」という声も聞きます。はたして聖書は難解でしょうか?勿論、難しい面もあると思います。でも、それは往々にして、教えが難しいのではなく、イスラエルを舞台にして聖書が書かれているため、ユダヤ人の歴史、カルチャーを知らないということによるように思います。上述のような発言される方は教えそのものが理解できないのではなく、横文字表記の名前が沢山出てきたり、文化的、歴史的背景が解らないから、イコール聖書が解らないと誤解しているのではないでしょうか。

 例えば、旧約の箴言などを読むと、親、子への教訓が実に理路整然と書いてあります。論語、仏典よりもよっぽど解り易いと言っても良いくらいです。新約のイエスのたとえ話など、解釈が全く要らないくらいです。何故なら、イエスは学校にも行っていないような貧しい人たちにも解るように、神の国を語ったからです。であるなら中学、高校、大学を卒業しているような方たちが「聖書は難しい、解らない」と言うのはいったいどうしてなのでしょう?この疑問に対して以下、私なりの見解を書きます。

  1. 何か自分で「そう」思い込んでいるのではないかと思います。聖書は奥が深いので、確かに難解な箇所も沢山あります。そういった所だけを取り上げたら「難しい、解らない」になるでしょう。こういう方は、旧約ではまず創世記の物語やルツ記、ヨナ書、箴言を、新約ではルカ伝(ただし系図は飛ばして下さい。)をお勧めします。
  2. 「解らない」と言い訳にしていませんか?これは深く追求しません。
  3. 最もよくある誤解ですが、聖書を「完全に」理解できると思っていませんか?聖書を完全に理解した人はほとんどいません。だからこそ神学者や聖書学者という専門家が現代でも解釈に取り組んでいるのです。牧師も偉そうなことを言ってますが、本当に聖書を理解しているかどうかはなはだ疑問です。(まあこれは私の場合ですが・・・)
  4. 聖書は信仰生活を続けていくに従って理解が深まったり、変わったりします。これは人生経験を積み重ねたり、日々聖書を読み学ぶことによります。ですから、今は今の読み方、理解があります。一人の人をとって見ても10代は10代の、20代は20代、30代は30代の40代は40代の理解が、また60代はそれなりの理解があるはずです。自分の能力以上のものを求めても解りません。

 これで良しというのもありません。一度、解ったら「もうそれで良し」ということはないのです。もし「自分はもう聖書を何回も読んだから、もう読まなくてもよい」と言う人がいたら、その人は、聖書のみならず、人生、学び諸々が分かっていないということを吹聴しまくっているようなものです。こういう人を「愚か者」と呼びます。

 「聖書が難しい、理解できない」と思っている方へ。そういった先入観を捨てて改めて聖書を新鮮な目で読んでみることをお勧めします。

最近の教会 - お客さん

4:11 AM

 最近のアメリカの教会で思うのはお客さん的参会が増えているということ。もう少し具体的に言うと、本来、教会に来るということは信仰告白をして教会員となり、一つの教会に確り自分の居場所、アイデンティティーを見出し、信仰生活に励むことであり、教会の中で色々な仕事をボランティアとしてするのではなく、ちゃんと役員としてすることであった。

 一方、「お客さん的」とは、そこの教会に深く関わるのではなく、お客さんのように教会に行くこと。お客さんのうちは、そこの教会で歓迎され、中々気持ちの良いものだ。献金も維持献金(教会を支える為、1年を通して決まった額をすること)もしなくてよいし、諸々の奉仕、教会の責任ある仕事に関わることもない。周りは「よくいらっしゃいました。」という接し方をしてくれる。

 この手の関わり方は「自己主体」であるから、教会が面白くなくなったり、自分に利益をもたらさないと感じたら、その教会から気軽に(手軽に)離れてしまう。良くあるのは、あの牧師の説教が良いからとか、あの牧師が好きだからとかいう理由。また「教会が霊的に熱い、燃えている」なんていうのもよく聞く。そういう理由もあって良いとは思うェ、こればかりを求めて教会に行く人は、その気に入った牧師が他教会に移ったら、自分もそちらに移ったり、或いは教会に行くのを辞めてしまう。

 本来、教会に連なるということは、上述の外的要素を主とする、或いは自分本位の考え方に根ざすのではなく、自分の信仰とはいったい何なのか、どこにちゃんと属して奉仕するのか、御言葉が確り入ってきているのかなど等、信仰を見つめ向上することと知って欲しい。

 勿論、教会は楽しい信徒の交わりの場であるべきで、その意味では「気軽に行ける教会」という面も失ってはいけないが、一方では教会は信仰の道場であるべきと思う。例えて言うなら禅寺で修行するように、教会で真実を求める姿勢で、信仰を磨く必要もあるのではないか。

 カルチャーとしてまた伝統としてあまりにも教会が世俗化しすぎたアメリカで、それを求めるの酷かもしれない。また修行の場を強調しすぎると、霊的な面ばかり求め、立法主義的聖書主義(簡単に言うと、堕胎、ゲイの問題等で直ぐにクレームを付ける保守福音的、裁きの信仰)に偏ってしまいやすい。

 最近、日系人、日本人の教会にもこの傾向が見られるような・・・。信仰生活とはこれほど難しいものだったのかと思わずにはいられない。



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