どうやったら開かれた教会になれるか?

2008年4月25日 6:37 PM

 4月号のサーキット・ライダーと5月号のThe Link(英語の教会ニュースレター)に3月30日にNY Timesに載ったThe Evangelical Church Statement:The Evangelical Church and The Jewish Peopleと同新聞4月1日に載ったUnited Church of ChristのStatementを掲載、翻訳し私のコメントを少しだけ書きました。スペースの関係で誤解を招く表現になってしまったようで、お怒りの投稿がありました。そこでほんの少しだけ追記したいと思います。

 まずは「同じ信仰告白をし同じ聖餐式をしなければならない」と言って同胞を弾劾するのではなく、という表現で念頭に置いているのは、私の日本での教会籍がある日本基督教団内で起こった悲しい事実を挙げています。私の父の教会ではなく、他の教会でオープン・コミュニオンをしていた教会の幾つかが、日本基督教団の聖餐式、信者にのみ聖餐を与える、というやり方にそぐわないということで、教団から教団籍を剥奪するという勧告を受けました。本来日本基督教団は改革派もメソジストも長老派もまたそれ以外の諸教派が第二次大戦中に統一されてできた寄り合い所帯ですが、だからこそ違いを乗り越え、多様性を認めるという美徳がありました。が、それがある特定の教理だけが尊重されて、それ以外は異端、なんてことになっているのが昨今の現状です。今は米国メソジスト教団に属していますが、祖国日本の教団のそのような排他的な姿勢を非情に遺憾に思っています。ですから、サーキットに書きました。

 また現在同性愛者を受け入れず、同性愛者に按手礼を授けて牧師にしない教団は私が属している合同メソジスト教会です。これも残念でなりません。私たちは「ゲイ」だとか「レズビアン」だとかというレッテルを誰かに貼り付けた時、その人を例えばマークだとかジョンだとか、キャサリンだとかという名前を持ち、感情の通った一人の一個人として見ずに、自分の信条にしたがって、その人を同性愛は罪である、従ってゲイは罪だ。と言った具合に裁いてしまいます。その人がどのような思いで神の御言葉を受け入れているかも知らずに。何故自分はこのような苦しい思いまでして、人々の前にでて、牧師として仕えたいのか、自分はゲイであることは、自分の意志ではなく気が付いたらそういう自分がいただけなのに・・・といつも肩身の狭い思いをして人から差別されてきた人の思いを、一体誰が分かるというのでしょうか?私はゲイやレズビアンの友人ガ沢山いますが、彼らをそのようなレッテルで見る前に、彼らを一人の友人として見ています。彼らがレッテル付けされて見られたくない、差別されたくないという思いは、私が吉松純という一人の人間であり、人間吉松純を知って欲しい、一人の日本人、牧師、或いは高学歴の人などという風に見られたくないと思う以上の切なる願いです。

 さてもし私が誰かを友と呼びながら、その人の信仰、生き様を認めないとしたら、果たして私は本当にその人の友と言えるでしょうか?答えは否です。私が何故憤ってEvangelical Church and the Jewish Peopleを引用したかは、そこにあります。「ユダヤ人は友である。友だからこそ自分たちの信じているイエスだけが唯一の救い主であるので、私たちはユダヤ人にもイエス・キリストを述べ伝えることを模索している。」と書かれています。そこに欺瞞、また驕りがあると私は思いました。私たちクリスチャンが「主イエスだけが唯一の救いです。」と言うのは何も問題ありません。またそれを他者に伝えていくことが伝道であり、伝道はしなければならない。しかし伝道する相手も人間です。彼らには彼らの宗教、信仰がある。そういった相手に、あからさまに『主イエスだけが唯一の救いです。」と言ったら相手はどう思うでしょう? 例えば、あなたはクリスチャンだと想定して、そのあなたの前に仏教徒がやって来て「私たち仏教徒はクリスチャンを友だちだと思っています。でもお釈迦様だけが唯一の救いです。あなたは友達だからそのことを知って欲しい。」と言ってきたらどう思うでしょう?「何て不躾な人だろう」と思わないでしょうか?自分を友達と呼びながら自分の信仰は認めてくれないでいて、何が友達だろう、そう思わないでしょうか?それを私は感じ取りました。原文は勿論英語ですので私の解釈はもしかしたら間違いかもしれないと思って念のため、アメリカ人の教会員数人に確かめましたが、彼らは皆私の解釈に同意してくれました。

 ではどうやって伝道するか?私たちは人を裁くのではなく、自分がどれほど神様に恵を与えられたか、どれほど愛されているか、またどのように自分の人生が変えられたか、それを証しすれば良い。なるほど、あなたの信仰は素晴らしい。でもちょっと私の話を聞いてください。と自分が今喜びの内に生かされていることを相手に伝える。それだけです。あとは聖霊の働き、神の恩寵にお任せする。

  裁くのは神です。私たち人間ではない。そのことを間違えると、威圧的な恐怖感を与える伝道になりかねない。人には誰が神の国=天の国に行くとか、地獄に行くとか、罪人であるとか、間違っていると裁くことはできません。ただ同胞が何か危ない方向に進もうとしていたら、それを批判したり、意見を交換することは、何ら差し支えないと私は思っています。それが4月号のサーキットの主旨です。

美しい国日本と憲法第九条

2007年5月4日 6:22 PM

 このところTV-Japan(NHK)を見ていると連日のように憲法第九条:戦争の放棄、軍備武力を持たない、をめぐる番組が放送されています。この九条は第二次大戦に敗れた日本が「二度と戦争を起こさないように」というアメリカの政治的圧力の下、に掲げられた条項と言われています。日本は連合軍が「天皇制を残す」ということや、本当なら日本が支配した中国や韓国などアジア諸国に支払う莫大な補償金免除という条件を引き出すことによって、この平和憲法を受け入れました。

 その成立の過程はともかく、一切の武力を放棄するという憲法は人間の歴史が始まって以来、類稀なる法律です。オリジナルではどこか他の国が攻めて来ても自衛すらしないという徹底した平和法でした。しかしこれに不安を感じた戦後の右派タカ派の政治家、総理大臣は何とかこれを改憲しようと躍起になってきました。一方、敗戦に懲りた人々、左派の政治家達はこれを守ろうと必死に右派に対抗してきました。その後国際政治の動乱の中で、残念なことに私が生まれた昭和30年代には保安部隊、そして自衛隊が作られました。が、なんとか戦争放棄、核廃棄だけは守られてきました。

 今再び安倍内閣でこの九条を変えて、武力を拡張し参戦できるようにしようという動きが活発化しています。なんと愚かなことでしょう。一方、安倍氏が首相になった折に「美しい国、日本」というスローガンを掲げました。教育を見直し、国を愛する心を養う・・・云々。その考えは右傾化しなければ決して間違った概念ではないと私は思っています。

  私はアメリカに住んでもう27年になりますが、長く住めば住むほど自分の日本人であることを見出し、日本人として祖国の文化、伝統をもっと誇りに思い大切にすべきと考えるようになりました。そして大切にすべきものに憲法第九条があります。たとえ始まりはお仕着せの憲法だったとは言え、今や世界に唯一の平和憲法であり、戦争放棄、軍備を持たない国などは日本以外どこにもありません。まあ自衛隊がありますので軍備を持ってしまい、その点では野蛮人の域を脱していませんが。

 本当の意味で美しい日本とはこの平和憲法を持っていることなのではないでしょうか。平和があるからこそ、伝統文化、工芸、芸術を謳歌できる。戦争放棄の法律があるからこそ、世界に平和を訴え、醜い争いを繰り広げている大国、小国に「待った!」をかけられる。

 日本がこの法律を失うことは歴史の逆行です。人類は武力闘争の無い未来に進んでこそ進歩、発展と言えます。何故なら戦、人殺しは人類の歴史が始まって以来、これまで無くなったことがないのですから。本当の意味で「美しい国、日本」を考えてみませんか。

 

高慢と嫉妬

2006年9月22日 1:57 PM

 9月初めに開かれた東部合同ファミリー・キャンプで、メイン・スピーカーだった福島第一聖書バプテスト教会牧師、佐藤彰先生と牧師会や会期中の自由な交わりの時間に質問する機会が幾度か与えられ、佐藤先生に以下の質問をしました。「人がクリスチャンになる、信仰を持つにあたり、何が一番大きな障害ですか?」また「クリスチャンの霊的成長を邪魔するものは何ですか?」。これは実はどちらも同じ内容の質問です。

 「信仰を持つこと」「信仰者として成長すること」を邪魔するものとして、佐藤先生は男性は高慢、女性は嫉妬を挙げました。これは勿論、一般に男女平等ではない社会、男中心の社会でという前提でですが、男性は仕事をし、だんだん重い地位着くようになる、社会的にも責任ある立場になる。それ自体は悪いことではないが、だんだん「自惚れ」がその人の中に忍び込み、いつのまにか「自分は地位も名誉もある。」=「自分は偉い」と言う思いになる。そう言う人は「宗教なんて、弱い人間、ダメな人間が信じる物だ」と思い込む。確かに社会で活躍している人には、傲慢な感じを与える人、尊大に振舞う人が少なくありません。これは実は男性だけでなく、女性でも同じことが言えます。キャリア・ウーマン(やがて死語になると思いますが、何とも変な形容詞ですね。)としてもてはやされている女性はどことなく、横柄な態度、言葉遣いをする人が多いような気がします。自分は何でもできる。男とも対等にやれる、どころか、負けない。という思いを前面に出している。(絶えず男と比べられること自体、女性に不平等な社会ですが、そんなところで自分を出さなければいけないことが哀しい。)

 女性は嫉妬する。自分と比べて、他人の方が幸せそうに見えると悔しがったり、羨んだり。しかし、これは男性も同じ。自分と同期が会社で役職についた時、素直に「おめでとう」と言えるでしょうか? 自分と比べて、何でも判断する。これは人間の愚かな性です。見栄を張ることも同じ。自分がどれほど裕福か、お金が有るか、学歴、社会的身分があるかをひけらかす。ハッキリ言って、こういう人は、心貧しき人。夫が会社の役員で自分は会社の役員でもないのに、夫の部下、彼らの妻たちに、さも自分が役員(部長だったら、部長のように、専務だったら専務のように)振舞う。自分の夫がドクター(博士、医者)だと、さも自分がドクターかのように知ったかぶりをする妻。正に虎の威を借りる狐とはこういう人のことをいうのか、という見本です。そう言う人には「あなたは一体何ですか?」「あなたは何ができるのですか?」と問いただしたくなります。自分に自信のない人ほどそういう外的要素に頼る傾向があるように見えます。上述の高慢、傲慢になる人達も、実は本当に何ができるのか、自分に問いただしたら、案外何もないとたじろいでしまうような人が結構多いのではないでしょうか。

 確かにこうして考えてみると男性でも女性でも高慢、嫉妬はその人の信仰のみならず、人としての成長を妨げる要因ナンバー1,2かもしれません。 本当に自分に自信がある人はひけらかすようなことはしませんし、自慢するような愚考、野暮もしません。神様も同様に人の外見、外的に付いた肩書きやお品書きを見るのではなく、人の内面、中を見ます。

 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたし(神)は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主(神)は心によって見る。」(サムエル記上 16:7.)

 あなたは自分自身をどう見ていますか? 学歴や役職、肩書きを一切剥ぎ取った時、あなたは何ができますか? あなたは何者ですか?

 

 

イ・チソンさんをご存知ですか?

2006年9月14日 2:57 PM

 2週間半前のレイバーデーの週末2泊3日に渡り、初めてアメリカ東部の日本語教会が集まり合同修養会(ファミリー・キャンプ)が持たれました。参加教会、伝道所は合わせて14、東部では南はワシントンDC、メリーランド、デラウエア、北はボストン、コネチカット、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルバニアの各州から、西はカリフォルニアからの参加があり、日本からも参加があり、総勢360人(内子供、中高生100名)という大きな会になりました。中心となって下さいましたニュージャージー日本語教会の皆様、錦織先生、この企画を最初に持ってきてくださったブリンマー日本語教会の李先生にこの場をお借りしてお礼申し上げます。

 ファミリー・キャンプでは日本の福島から佐藤彰牧師をキーノート・スピーカー(メイン・ゲスト)にお招きしお話をうかがいとても恵まれたものになりました。先生から伺ったお話はまたおいおい紹介したいと思いますが、今回は特別ゲストとして9月3日日曜日の夜に証しをして下さいましたイ・チソン姉について書きたいと思います。

 まず質問。「もしあなたが事故で自分の顔を失ってしまったら、あなたはどうなりますか?」恐らくこのような質問は考えたこともない方が私を含めほとんどだと思います。チソンさんは今から6年前、2000年の7月にお兄さんと車で帰宅途中、酔っ払い運転の車に激突され、乗っていた車が炎上、頭から足まで全身の55%、自分の皮膚の再生能力を失う第3度の火傷をおい、顔を失ってしまいました。その時彼女は22歳(注:韓国では数え年なので本では23歳となっています。)、ごく普通の可愛らしい女子大生で卒業を控え、卒業後大学院に進み、その先は先生になり、いずれは結婚・・・と正に人生バラ色といった年頃でした。彼女の証しや本で紹介されている事故前の彼女の写真は彼女の笑顔がとても素敵でチャーミングな女の子であったことが分かります。

 最近、日本でも酔っ払い運転で尊い命を奪われてしまう痛ましい事故が続発していますが、夢見がちな女の子だったチソンさんは、酔っ払い運転によって顔や体の自由を奪われてしまいました。これが若い女性にとって(勿論、男でも同様ですが)どれほど辛かったことか。彼女の本にも心無い人達が「あんなになって生きていけるのか!?」という残酷なコメントを彼女に聞こえようと聞こえまいと構わずに言ってます。痛みを知らない人は本当に残忍になれるものだとつくづく思います。しかも言っている本人はそう言う積りも意識もないから性質(たち)が悪い。それでもチソンさんは自ら死を選びませんでした、神様に「どうか長生きさせないで下さい。」と祈ったことはあっても。

 何故なら彼女はクリスチャンだったから。そして彼女の両親も兄もクリスチャンだったから。家族も教会員も友だちも皆チソンさんが助かる為に祈り、その祈りが神に届き、チソンさんにも届いた。命が助かってからも、チソンさんの苦しみは続きます。手や体が引きつり思うように動かなかったり、両手の指先を失ったり、顔も10数回の皮膚の移植手術を受けても元の美しい顔には戻らない現実の中で彼女はそれでも生かし続ける神の御心を模索し、やがて同じ痛みをおった人達を励まし、更には一般クリスチャンに神の愛を証しする召命を確信します。

 こんな書き方をすると、チソンさんがさも聖人君子かクリスチャンの鑑、聖者のような特別な人間かのように思われますが(勿論、苦しみを耐え、顔を失った悲しみを背負い尚且つ前向きに生きるチソンさんは特別ですが)、彼女の証しやエッセイには彼女が純真な心を失うことなく、また同世代の女性がもつ夢や希望も持ち続けているごく普通の可愛らしい女性であることが分かります。私は「彼女の素晴らしさはそこかな」と合点がいきました。決して高ぶることなく、気取ることも無く、聖者ぶることもなく、いわゆる有名人にありがちな尊大、傲慢になることもない。いつも「神様が自分にこういわせて下さる。自分は何もできないけど、神様が自分を用いてくださる。」とそう信じているチソンさんの証しに私は心から感動し敬意を払わずにいられません。

 彼女の本「チソン、愛しているよ。」と続編「きょうも幸せです。」金重明訳は、東京千代田区神田3-18-3、錦三ビル3、株式会社アスペクトから出ています。また韓国語ができる方は彼女のホームページもご覧下さい。www.ezsun.net

 事故前からチソンさんにあった謙遜、素直な心、優しさが事故後更に強まり、神様に愛されている人は本当に幸せなんだなあ、美しいなと思えます。皆さんにも「本当に美しい人とは?」と問いたくなりました。勿論、いつの日か医学が進んでチソンさんの顔や体が元に戻ることを祈って止みませんが。

9・11への思い

2006年9月13日 10:37 AM

 2001年の9月11日は快晴で、真っ青な秋の空に残暑の太陽が眩しい日でした。私が住んでいるニュージャージー州のパークリッヂはいつもと変わらないのんびりした空気を漂わせ、車でたった40分のニューヨーク市内の騒乱など想像もできないような日でした。日本に帰国した教会員に頼まれ午前9時過ぎに家を見に行って帰り、さあニュースでも見ようかとテレビをつけたらどのチャンネルも映らないではありませんか。その頃はケーブルテレビをキャンセルし地上波だけでテレビを見ていたので、これは何事だろう?と思ってチャンネルを回すと2チャンネルだけつながり、そこには煙を吐いている世界貿易センタービルが映っていました。

 「あれ?何?何があったんだ!?」と突っ立ったままテレビを見ているところに、友人から電話があり「今、World Trade Centerで飛行機事故があって、大変なことになっている。」とのこと。「え~、飛行機が突っ込んだの?」と思っていたら「テレビではまた飛行機が今度はもう一つのビルに突っ込んだ。これは事故ではない。テロだ!」と報道しはじめました。ことの真相が掴めないまま、テレビを見続けていると、別な友人が「World Trade Centerが崩壊した!」と電話の向こうで叫んでいました。チャンネル2のでは、まだビルがその場にあって煙を吐いている状態でしたので「何ってるの?ビルはまだあるじゃない。」と返しましたが、テレビの画面はずっと同じ状態で止まっていることに数分して気付きました。

 当初犠牲者が5千人とも8千人とも言われ「大変なことになったぞ」とは思ったものの、まだ何となく実感が無く、どこか遠い国の話のようでした。しかし、ほんの数日でそれが一変し、自分の身近な現実の悲劇として関わることになりました。私がずっと関わっていた夏のキャンプ・プログラムに参加した元キャンパーのお父さん、Tさんが世界貿易センタービルで働いており9・11の惨劇以来、行方が分からなくなってしまったのです。早速私と友人でロングアイランドにあるTさんのお宅を訪問することにしました。事件後ニュージャージーからニューヨークに車で行くのは困難を極めましたが、ロングアイランドのTさんのお宅に行くにはジョージワシントン橋を渡りニューヨークを経由していくのが通常のルートでしたが、そのルートを避けて遠回りして行くことにしました。

 行って見ると今はすっかり成長し社会人になった兄と大学に通う妹、それにお母さんが安否が分なくなったTさんからの連絡を心細くまっていました。生きているのか死んでいるのか藻分からず何時帰ってくるか・・・と待っていることほど辛いことはありません。「居ても立ってもいられない」とは正にこういう状態を言うのでしょう。訪問した我々も、気が晴れるように雑談をするのですが、話がちぐはぐになるばかり。数時間後お祈りをして引き揚げました。これほど重苦しい経験をしたのは初めてでしたが、Tさんご一家はそれでも一縷の望みを持って懸命にこの苦境に耐えていました。事件から数週間が経ち、新聞でTさんの死亡が大々的に報道された日の家族の辛さは誰も察し得ないでしょう。

 それから慌しく火葬の手配、追悼式の準備が進められましたが全てを受け入れ気丈に振舞っている奥さんには心から敬服すると共に、それ故に悲しみが深まりました。あれから5年・・・。小学生の頃から知っている二人もすっかり大人になり自分の道を進んでいます。奥さんも昨年からマンハッタンで一人暮らしを始め、自分の生活を楽しんでいます。ご主人の、お父さんの思い出を大切にしつつ。

 9・11を政治的に利用し「テロと戦う」と掲げてアフガニスタン、イラクを攻め、次はイランか、シリアかと戦略構想が泥沼化している今日のアメリカを故人はどう思っているでしょう? 9・11になると大々的に騒ぐ人達、ほっとしておいて下さい。故人を偲ぶ追悼式を厳かにかつ静かにあげてください。式の場でも戦争ではなく平和を語って下さい。

 

 

聖書のつまみ食い

2006年8月23日 3:18 PM

 私が気になる聖書の読み方に「つまみ食い的読み方」があります。これは、例えば何か困難にぶつかった時、人生の分岐点に来てどちらを選択するか迷った時、辛い事があった時など、「自分に示されている御言葉は何かしら?」と聖書をあちこち開いて、自分にピンとくる聖句を選ぶやり方です。この読み方はテレビ伝道者や著名な説教者にも見られます。

 私も自分が何か迷っている最中に急に心の中に御言葉が湧き出ててきて慰められたり道を示された経験をしたことが何度もありますので、このやり方が必ずしもいつも間違っているとは言いません。しかし、それは啓示されたのであって、自分であちこち開いて自分にピンきた聖句を「これが与えられた!」と言うのとは違います。前者と後者の違いがお分かりでしょうか? 前者は聖書の言葉が直接示されたのに対して、後者は「神から示された」と言いながら実は自分で自分にピンと来る、もっとハッキリ言うと都合の良い御言葉を選んでいるのです。前者は直接的な神の慰め、啓示。後者は自分の思いに御言葉を当てはめている。

 聖書はおよそ1000年に渡り多くの著者、預言者、編集者が神の啓示を受けて書いています。その背景にはイスラエルの民が経験した出来事、繁栄、政治的混乱、亡国など様々な要因があり、時代によって神から受けた啓示も全く違います。一例を挙げます。出エジプトから40年経ち、約束の地に入ったばかりのヨシュアが率いるイスラエルは上昇気流に乗り、万軍の主に励まされ、もの凄い勢いがあります。その中で敵を打ち破り、滅ぼしていく。そこではイスラエル至上主義、繁栄を預言する言葉が与えられています。一方イスラエル王朝の滅亡に近い頃になると、イザヤ、エレミヤなど預言者達はイスラエルの人々の不信仰を諌める言葉が告げます。神の御言葉もそれを聞く人々のいた時代、受け止め方によって随分と違っています。ローマ帝国に支配され、ヘロデの傀儡政権下にあった新約聖書の時代もしかり。選民イスラエルだけが正しいと主張する代わりに、異邦人への宣教が始められた。イエスの時代ではもはやヨシュア記のような他民族を滅ぼせなどということは言えなくなります。現代の私たちがそういった時代背景を無視して、聖書の一節、例えばやある異端クリスチャンのようにヨハネの黙示録の7章を取り、救いは選ばれた民のみと主張し続けたらどうでしょう?恐らく多くの人が私たちの言葉を聞いて嫌な思いをしたり、躓いたりしてしまうのではないでしょうか?

 もう一つ例を挙げます。2000年の昔ローマ時代には奴隷制があり、裕福な人々は奴隷を所有していました。しかし奴隷制は本来罪であり存在してはならないものです。しかし19世紀の南北戦争までのアメリカ南部の裕福な家々(クリスチャン)は自分に都合の良い御言葉(ガラテヤ3:26-29、エフェソ6:5-9他)だけ選んで奴隷制を肯定しました。聖書は取りようによってはいくらでも自分の都合の良い解釈ができるのです。

 またクリスチャンの女性の中には恋愛や結婚、離婚、家庭などで悩んでいる方たちが結構いるようですが、アドヴァイスは同じ。聖書を学び、聖書の時代、歴史や女性の立場をより深く理解した上で御言葉を読んで下さい。旧約、新約の時代は女性の身分、地位が低く、女性は一人では生きられない時代であり、仕事をして自立するなんて考えられなかった時代です。そういった時代に未信者と結婚したクリスチャンの女性が、離婚した場合どうなったかを考えれば、夫が未信者でも離婚はなかなかできませんでしたし、指導者パウロも離婚を簡単には勧めていません。(1コリント7:8-16)何故なら離婚は即明日からの生活ができなくなることを意味していたから。しかし、信仰が無い人――自分の最も大事にしているもの、生き方、主義主張が異なる人――との結婚を勧めているわけではありません(1コリント6:12-20)。同じコリントの手紙でさえ、全く違う解釈、見解が書かれています。

 ですから聖書は最初から最後まで通して読むこと。主題学習的聖書研究、つまりあちこち取り上げて一つの主題を学ぶやり方も、入門編としは悪くはありませんが、いつまでもそのやり方ではやはり深い学びはできません。より聖書理解する為に歴史的、社会的背景をちゃんと学ぶことを心がけ、自分勝手な読み方、つまみ食いのような読み方は是非改めて下さい。

親のありがたさ

2006年4月1日 6:25 AM

「親思う心に勝る親心」或いは「親思う心以上の親心」だったでしょうか、いずれにしても良い川柳だとつくづく思います。最近、正にこのような体験をしました。

 今年の1月にキリスト新聞社から「キリストの復活」レントからイースターへ、という題で説教集が出ました。現役の牧師やチャプレン20名が説教を寄稿し作られた本ですが、私の説教も載りました。今まで大学、大学院では多くの論文、小論文を書いてきましたが本という形にしたことはなく、今回はアカデミックな論文ではありませんが、自分の書いたものが初めて本に載るというのは嬉しいものです、たとえ二十分の一の比率とはいえ。

 出版されてしばらくして、2月下旬だったでしょうか、キリスト新聞社の担当の方よりメールを頂き「原稿料をお払いしたいのですが、どうしたら宜しいでしょうか。」とのこと。他の寄稿者は皆日本にいるので、為替、書留などで問題ないが、私のように海外にいると、国際為替にしても、銀行振り込みにしても円をドルに変えなければならず、手数料や時間を取られ結構面倒な作業をしなければならない。それに二十分の一の原稿料なので、わざわざお送り頂く額でもなく、かえって申し訳ないと思い、担当の方に「実家の王子北教会、吉松繁牧師宛にお送り下さい。」とお願いしました。実家の両親には何も言わずサプライズ(驚かせる、ちっとオーバーですが)の献金にしようと思っていました。何しろ、あまり親孝行らしいことをしたことがないので、初めての本の稿料を献金しようと思ったのです。 

 それからさらに一ヶ月程たった先週、父母から国際電話(国際電話なんてもう旧い表現ですね…)がありました。父曰く「数日前にキリスト新聞社からあんた(父はよく私や周りの者を「あんた」と言う)の原稿料が届いたから、母さんと相談して、あんたのビザの口座に振り込んでおいたよ。だからいつでも自由に引き出せるよ。」とのこと。私は「しまった!」と思いました。慌てて「お父さん、あれは王子北教会への献金の積もりだったんだけど…」と言ったところ「まあ、良いから。せっかくの稿料だし」と言って母に電話を代わりました。母も「あなたの分の献金はしておいてあげるから、自分の為に遣いなさいな。」と言って一件落着。

 最初から「献金に」と言っておいても、同じ結果になったかもしれません。しかし、私も今年四順目の年男。もう五十路も視野に入ってきた年齢ですが、いつまでも親には子どもなのです。本当にありがたいなぁと思わずにはおれません。神の愛も正に親心。子どもの為なら何も惜しまない。十字架に架かり私たちの罪を神に取り成してくださったキリストの愛も親の愛と同じ無私の愛です。

 問題はその愛を知った私たち、子、がどのようにそれを受け止め報いるかです。これは一人一人に問われています。皆さんは親孝行をしていますか? それとも、親不孝を重ねている? いかがでしょうか。

後継者問題

2006年2月12日 3:19 PM

 時々(正しくは頻繁に)日本から入ってくるニュースに呆れてしまいます。皇族の後継者問題もその一つです。男系だけにするか女系も後継として認めるかが今行われている通常国会の重要議題の一つだったはず・・・が、紀子さんが妊娠した途端「生まれてくる赤ちゃんが男か女か見極めてからでも遅くない。男だったらこれまでの規定を変える必要がないから。」となって国会で話し合うのが見送に(先送り)なった。「どうして?」と首を傾げてしまいます。

 さて、この問題を考える前に、私の立場を明確にしておきます。私はそもそもこれまでも何回か発言してきましたが天皇制そのものの必要性を疑問視しています。それは天皇という前近代的支配者(今は国民の象徴だそうだが)が存在することにより階級が生まれ、歴史の中で多くの民が犠牲になってきたという事実があるからです。今日でもその犠牲者の中でも最も辛酸をなめた人々の末裔が被差別部落民として目に見えない差別を受け続けています。住井すゑ氏の小説「橋のない川」は実にそのへんの事情を明快に書いているので、是非読んで下さい。

 また明治以降、天皇を現人神(あらひとがみ)と称し「アジアの諸国を皆皇国の民にせん」と日本軍国主義による侵略、略奪、殺戮が行われた事実があります。天皇の名の下に多くの命が奪われました。中国や韓国の民だけでなく、「人生これから・・・」という若者が何十万人も犠牲になった。その兵士たちが祭られているのが靖国神社ですが、天皇の名の下に侵略を指揮した確信犯、A級戦犯と呼ばれる軍人指導者達も祭られています。ですから靖国神社への総理大臣の参拝に韓国や中国など侵略された国々が過敏に反応するのも当然のことです。さらにキリスト教をはじめ、多くの宗教団体が「現人神天皇が最高神であるから、その下に従属しなければならない」と弾圧を受けました。弾圧に屈しないキリスト者、牧師は投獄され拷問を受けました。それによって命を失った信仰者もいます。三浦綾子氏の小説やエッセイ、本多勝一氏の本などを是非読んで下さい。このへんの事情が良く分かります。

 また最近でこそ韓国ブームが起こり、韓国人、朝鮮民族への見方が変わりましたが、戦争中、労働力として強制的に連れてこられて、戦後も祖国へ戻れずに永住した韓国人たちは多年に渡り不当な差別を受けてきました。これもみな天皇制の副産物です。

 とまあ私の立場を明確にした上で、敢えて男系、女系の問題を語ると、これまで歴史上、男性に代わって女性の天皇が政を司った事が幾度もありました、特に初めの頃の女帝は力があったようです。歴史上10人の女帝が輩出しましたが、最後の女帝、後桜町帝(1762-1770、江戸時代下半期)以降女帝が出ていません。これは取り分け明治政府が天皇を現人神とし、男系に固執したからといえますが、21世紀の現在でも、男社会の構造そのままに、天皇も男系後継者のみ、とするのはあまりにも男尊女卑、差別社会肯定にほかなりません。どうして女性天皇ではいけないのか? イギリスの例を見ても、決して女王は王にひけを取っていません。男女の別なく第一子が後を継げば何も問題がないではありませんか? それでも「男が良い」と言うのは儒教思想、男性社会=(肉体的)力社会の愚劣な嗜好(思考)としか形容のしようがありあません。

 これでは本当の男女平等、機会均等法、DVの撲滅など先の先でしょう。私は全く理解できません。 ま、日本だけでなくアメリカもまだ女性の大統領は出ていませんが・・・。

よくある質問に答えます。その2

2006年2月10日 10:20 AM

 たまに「あの人はクリスチャンで信仰があるし真面目なのになんであんなことになってしまったんでしょう?」という類のコメントを聞きます。その方が難病にかかってしまったり、事故にあって本人、或いは家族が命を落としたりというような不幸があった時、周りの人達、友人、知人からでた言葉です。

 これはキリスト教(及び仏教、イスラム教などを含めた諸々の宗教)を御利益宗教と同一視しているところから来る誤解、謬見です。キリストを信じれば災いを防げる、仏陀を信じれば厄から逃れられるというのは「そうあって欲しい」という願望を利用した新興宗教や安っぽい御利益宗教の商売。

 では何故キリストを信じるか? 本来神と共にあるべき人間ですが、自己中心の罪に陥り、神から離れている。その状態を罪と呼びます。その罪をキリストの深い愛の故に神が許して下さる。だから信じる。と言うのが神学的な理由ですが、もっと直接的に言うと、信仰のある人は、たとえ何があってもそばにいてくれる方がいる、共に泣いてくれる方がいる、辛さ、痛みを知り、共に耐えてくれる方がいる、また喜びを分かち合って下さる方がいる・・・そう「自分は一人でヘない」ということを確信する。また「やがては神と共に住む、つまり御国(天国)に行く。」という終末思想もあります。

 が、いずれにしても信仰とは生きている者の為であり、どのように生きるかを問うものです。人として成長していく上で、自分と神と向き合うのが信仰であり厄除けではありません。

よくある質問に答えます。その1

2006年2月5日 6:18 PM

 この書き込みの一つ前に高校時代のクラブが愛好会となり、今でもその頃の仲間と交流があることを書きましたが、最近その愛好会の掲示板で宗教談義になりました。音楽愛好会、飲み会の掲示板という性格上、深く書き込めなかったので、この場で、その時の会話、疑問にお答えしたいと思います。

 どういう趣旨の疑問であったかというと、一人の先輩が「キリストは『礼拝に行け』なんて言っていない。」「『日曜日に礼拝しろ』とは言っていない。」と主張したことと「処女降誕は信じられない」というものでした。新約聖書だけ、更には福音書と呼ばれるイエスの物語の所だけを読んでいるとこう言った誤解、誤読も生じるのかな、と思いました。確かにイエスが「教会に行きなさい。」とか「礼拝を守りなさい。」という直接的表現はありません。でも、それは表面的な読み方で、ある程度の年月教会で礼拝を守っているクリスチャン、聖書の学びをしている信徒だったら即答できる初歩的な質問と言えます。

 聖書の世界をご存じない皆さんは、まず「イエスの時代のイスラエルは今日の中東の国々がイスラム教を厳格に守っているのと同様、戒律を守っていた」と理解して下さい。旧約聖書の出エジプト記20章と申命記5章に「十戒」というユダヤ教の根本となる戒めが書かれています。その第4戒に「安息日を守ってこれを聖別せよ。」というものがあります。これには更にもう少し細かい規制が続きますが、どういう戒めかと言うと、第七日(ユダヤ人には土曜日、クリスチャンには日曜日、イスラム教徒には金曜日)を聖日として、「その日は神の日であるから、いかなる仕事もせず礼拝しなさい。」というものです。現在でも真面目なユダヤ教徒は土曜日に礼拝を守っていますし、イスラム教徒は金曜日、クリスチャンは日曜日に礼拝をしています。

 イエスの時代、安息日(聖日)に礼拝をするのは当然の義務であり、大前提でしたので、敢えて「礼拝を守りなさい。」と言う必要も無かった。言えば「あいつ、何を言ってんの? そんな当たり前のことを。」と人々から思われました。礼拝を守らないことは戒律を破る不遜な行為でした。ですからイエスは「礼拝を守りなさい。」と言う必要も無かったわけです。これは日曜日が休日となって定着した今日「日曜日は休みです。」と言うくらい間の抜けたことです。さて「『教会に行け』とは言っていなかった。」という意見ですが、これは当然。イエスが教会という新しい組織を作ったのですから。しかしこの教会とはユダヤ教のシナゴーク(礼拝所)や寺院と同じ性格の物ですから当然「礼拝をする場所」を意図していたことは言うまでもありません。更に、補足するとイエス自身は安息日にはユダヤ教のシナゴークで礼拝を守っています。これも聖書を読むと書いてあります。ですから上述の「イエスは『教会に行け』『日曜日に礼拝をしろ』と言わなかった。」というのは全くの見当違いです。

 処女降誕は神を信じるか、信じないかという信仰の話なので、あくまで個人の信仰の問題になりますが、体外受精やクローン技術が発達した今日なら、ますます男と女の性行為が無くなって子供が産めると逆に思えそうな気がするのですが・・・。さて、処女降誕ですが、無から全てを創造された神が聖霊によって処女マリアを懐妊させ、そしてできた子供がイエスであったというこの物語は、神の無から有の創造ということを前提にしています。「神にはできないことは何一つない。」(ルカ 1:37)とクリスマス物語で御使い(天使)ガブリエルが言っていますが、正に信仰が問われています。「性交が無ければ子供が生まれるわけない」と言って信じないのは、信仰の領域ではなく、科学の検証、証拠を求めた一つの考え方であり、信仰ではありません。

 これは科学信奉者への挑戦ですが、今までに科学者、発明家で、あるいは誰でも構いませんが、全くの無から何かを創り出した人がいるでしょうか? 全ては、ただ人類が今まで知らなかった(無知だった)だけで、この宇宙、世界に存在していた。と言えないでしょうか? ノーベル賞ものの発見も同様。例えば、超微粒子、中性子、DNA、最近話題のたんぱく質、相対性理論、エイズ、鳥インフルエンザ(ウイルス)など等・・・。人間が発見したと言って威張っている物、どれをとっても、単にこれまで技術力、科学力が発達していなくて、見ることができなかったに過ぎず、人間が知らなかった時代にも確実に存在していた。誤解しないでいただきたいのですが、私は科学を否定する積りはありません。科学にはいつも興味があり、面白いと思っています。ただ何でも科学で証明できると思っているとしたら、勘違いして科学を万能だと思い込んだり、科学で証明できない物は否定するのは、人間の驕りとしか私には思えないのですが。如何なものでしょう。



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