9・11への思い
2001年の9月11日は快晴で、真っ青な秋の空に残暑の太陽が眩しい日でした。私が住んでいるニュージャージー州のパークリッヂはいつもと変わらないのんびりした空気を漂わせ、車でたった40分のニューヨーク市内の騒乱など想像もできないような日でした。日本に帰国した教会員に頼まれ午前9時過ぎに家を見に行って帰り、さあニュースでも見ようかとテレビをつけたらどのチャンネルも映らないではありませんか。その頃はケーブルテレビをキャンセルし地上波だけでテレビを見ていたので、これは何事だろう?と思ってチャンネルを回すと2チャンネルだけつながり、そこには煙を吐いている世界貿易センタービルが映っていました。
「あれ?何?何があったんだ!?」と突っ立ったままテレビを見ているところに、友人から電話があり「今、World Trade Centerで飛行機事故があって、大変なことになっている。」とのこと。「え~、飛行機が突っ込んだの?」と思っていたら「テレビではまた飛行機が今度はもう一つのビルに突っ込んだ。これは事故ではない。テロだ!」と報道しはじめました。ことの真相が掴めないまま、テレビを見続けていると、別な友人が「World Trade Centerが崩壊した!」と電話の向こうで叫んでいました。チャンネル2のでは、まだビルがその場にあって煙を吐いている状態でしたので「何ってるの?ビルはまだあるじゃない。」と返しましたが、テレビの画面はずっと同じ状態で止まっていることに数分して気付きました。
当初犠牲者が5千人とも8千人とも言われ「大変なことになったぞ」とは思ったものの、まだ何となく実感が無く、どこか遠い国の話のようでした。しかし、ほんの数日でそれが一変し、自分の身近な現実の悲劇として関わることになりました。私がずっと関わっていた夏のキャンプ・プログラムに参加した元キャンパーのお父さん、Tさんが世界貿易センタービルで働いており9・11の惨劇以来、行方が分からなくなってしまったのです。早速私と友人でロングアイランドにあるTさんのお宅を訪問することにしました。事件後ニュージャージーからニューヨークに車で行くのは困難を極めましたが、ロングアイランドのTさんのお宅に行くにはジョージワシントン橋を渡りニューヨークを経由していくのが通常のルートでしたが、そのルートを避けて遠回りして行くことにしました。
行って見ると今はすっかり成長し社会人になった兄と大学に通う妹、それにお母さんが安否が分なくなったTさんからの連絡を心細くまっていました。生きているのか死んでいるのか藻分からず何時帰ってくるか・・・と待っていることほど辛いことはありません。「居ても立ってもいられない」とは正にこういう状態を言うのでしょう。訪問した我々も、気が晴れるように雑談をするのですが、話がちぐはぐになるばかり。数時間後お祈りをして引き揚げました。これほど重苦しい経験をしたのは初めてでしたが、Tさんご一家はそれでも一縷の望みを持って懸命にこの苦境に耐えていました。事件から数週間が経ち、新聞でTさんの死亡が大々的に報道された日の家族の辛さは誰も察し得ないでしょう。
それから慌しく火葬の手配、追悼式の準備が進められましたが全てを受け入れ気丈に振舞っている奥さんには心から敬服すると共に、それ故に悲しみが深まりました。あれから5年・・・。小学生の頃から知っている二人もすっかり大人になり自分の道を進んでいます。奥さんも昨年からマンハッタンで一人暮らしを始め、自分の生活を楽しんでいます。ご主人の、お父さんの思い出を大切にしつつ。
9・11を政治的に利用し「テロと戦う」と掲げてアフガニスタン、イラクを攻め、次はイランか、シリアかと戦略構想が泥沼化している今日のアメリカを故人はどう思っているでしょう? 9・11になると大々的に騒ぐ人達、ほっとしておいて下さい。故人を偲ぶ追悼式を厳かにかつ静かにあげてください。式の場でも戦争ではなく平和を語って下さい。