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9・11への思い

2006年9月13日

 2001年の9月11日は快晴で、真っ青な秋の空に残暑の太陽が眩しい日でした。私が住んでいるニュージャージー州のパークリッヂはいつもと変わらないのんびりした空気を漂わせ、車でたった40分のニューヨーク市内の騒乱など想像もできないような日でした。日本に帰国した教会員に頼まれ午前9時過ぎに家を見に行って帰り、さあニュースでも見ようかとテレビをつけたらどのチャンネルも映らないではありませんか。その頃はケーブルテレビをキャンセルし地上波だけでテレビを見ていたので、これは何事だろう?と思ってチャンネルを回すと2チャンネルだけつながり、そこには煙を吐いている世界貿易センタービルが映っていました。

 「あれ?何?何があったんだ!?」と突っ立ったままテレビを見ているところに、友人から電話があり「今、World Trade Centerで飛行機事故があって、大変なことになっている。」とのこと。「え~、飛行機が突っ込んだの?」と思っていたら「テレビではまた飛行機が今度はもう一つのビルに突っ込んだ。これは事故ではない。テロだ!」と報道しはじめました。ことの真相が掴めないまま、テレビを見続けていると、別な友人が「World Trade Centerが崩壊した!」と電話の向こうで叫んでいました。チャンネル2のでは、まだビルがその場にあって煙を吐いている状態でしたので「何ってるの?ビルはまだあるじゃない。」と返しましたが、テレビの画面はずっと同じ状態で止まっていることに数分して気付きました。

 当初犠牲者が5千人とも8千人とも言われ「大変なことになったぞ」とは思ったものの、まだ何となく実感が無く、どこか遠い国の話のようでした。しかし、ほんの数日でそれが一変し、自分の身近な現実の悲劇として関わることになりました。私がずっと関わっていた夏のキャンプ・プログラムに参加した元キャンパーのお父さん、Tさんが世界貿易センタービルで働いており9・11の惨劇以来、行方が分からなくなってしまったのです。早速私と友人でロングアイランドにあるTさんのお宅を訪問することにしました。事件後ニュージャージーからニューヨークに車で行くのは困難を極めましたが、ロングアイランドのTさんのお宅に行くにはジョージワシントン橋を渡りニューヨークを経由していくのが通常のルートでしたが、そのルートを避けて遠回りして行くことにしました。

 行って見ると今はすっかり成長し社会人になった兄と大学に通う妹、それにお母さんが安否が分なくなったTさんからの連絡を心細くまっていました。生きているのか死んでいるのか藻分からず何時帰ってくるか・・・と待っていることほど辛いことはありません。「居ても立ってもいられない」とは正にこういう状態を言うのでしょう。訪問した我々も、気が晴れるように雑談をするのですが、話がちぐはぐになるばかり。数時間後お祈りをして引き揚げました。これほど重苦しい経験をしたのは初めてでしたが、Tさんご一家はそれでも一縷の望みを持って懸命にこの苦境に耐えていました。事件から数週間が経ち、新聞でTさんの死亡が大々的に報道された日の家族の辛さは誰も察し得ないでしょう。

 それから慌しく火葬の手配、追悼式の準備が進められましたが全てを受け入れ気丈に振舞っている奥さんには心から敬服すると共に、それ故に悲しみが深まりました。あれから5年・・・。小学生の頃から知っている二人もすっかり大人になり自分の道を進んでいます。奥さんも昨年からマンハッタンで一人暮らしを始め、自分の生活を楽しんでいます。ご主人の、お父さんの思い出を大切にしつつ。

 9・11を政治的に利用し「テロと戦う」と掲げてアフガニスタン、イラクを攻め、次はイランか、シリアかと戦略構想が泥沼化している今日のアメリカを故人はどう思っているでしょう? 9・11になると大々的に騒ぐ人達、ほっとしておいて下さい。故人を偲ぶ追悼式を厳かにかつ静かにあげてください。式の場でも戦争ではなく平和を語って下さい。

 

 

聖書のつまみ食い

2006年8月23日

 私が気になる聖書の読み方に「つまみ食い的読み方」があります。これは、例えば何か困難にぶつかった時、人生の分岐点に来てどちらを選択するか迷った時、辛い事があった時など、「自分に示されている御言葉は何かしら?」と聖書をあちこち開いて、自分にピンとくる聖句を選ぶやり方です。この読み方はテレビ伝道者や著名な説教者にも見られます。

 私も自分が何か迷っている最中に急に心の中に御言葉が湧き出ててきて慰められたり道を示された経験をしたことが何度もありますので、このやり方が必ずしもいつも間違っているとは言いません。しかし、それは啓示されたのであって、自分であちこち開いて自分にピンきた聖句を「これが与えられた!」と言うのとは違います。前者と後者の違いがお分かりでしょうか? 前者は聖書の言葉が直接示されたのに対して、後者は「神から示された」と言いながら実は自分で自分にピンと来る、もっとハッキリ言うと都合の良い御言葉を選んでいるのです。前者は直接的な神の慰め、啓示。後者は自分の思いに御言葉を当てはめている。

 聖書はおよそ1000年に渡り多くの著者、預言者、編集者が神の啓示を受けて書いています。その背景にはイスラエルの民が経験した出来事、繁栄、政治的混乱、亡国など様々な要因があり、時代によって神から受けた啓示も全く違います。一例を挙げます。出エジプトから40年経ち、約束の地に入ったばかりのヨシュアが率いるイスラエルは上昇気流に乗り、万軍の主に励まされ、もの凄い勢いがあります。その中で敵を打ち破り、滅ぼしていく。そこではイスラエル至上主義、繁栄を預言する言葉が与えられています。一方イスラエル王朝の滅亡に近い頃になると、イザヤ、エレミヤなど預言者達はイスラエルの人々の不信仰を諌める言葉が告げます。神の御言葉もそれを聞く人々のいた時代、受け止め方によって随分と違っています。ローマ帝国に支配され、ヘロデの傀儡政権下にあった新約聖書の時代もしかり。選民イスラエルだけが正しいと主張する代わりに、異邦人への宣教が始められた。イエスの時代ではもはやヨシュア記のような他民族を滅ぼせなどということは言えなくなります。現代の私たちがそういった時代背景を無視して、聖書の一節、例えばやある異端クリスチャンのようにヨハネの黙示録の7章を取り、救いは選ばれた民のみと主張し続けたらどうでしょう?恐らく多くの人が私たちの言葉を聞いて嫌な思いをしたり、躓いたりしてしまうのではないでしょうか?

 もう一つ例を挙げます。2000年の昔ローマ時代には奴隷制があり、裕福な人々は奴隷を所有していました。しかし奴隷制は本来罪であり存在してはならないものです。しかし19世紀の南北戦争までのアメリカ南部の裕福な家々(クリスチャン)は自分に都合の良い御言葉(ガラテヤ3:26-29、エフェソ6:5-9他)だけ選んで奴隷制を肯定しました。聖書は取りようによってはいくらでも自分の都合の良い解釈ができるのです。

 またクリスチャンの女性の中には恋愛や結婚、離婚、家庭などで悩んでいる方たちが結構いるようですが、アドヴァイスは同じ。聖書を学び、聖書の時代、歴史や女性の立場をより深く理解した上で御言葉を読んで下さい。旧約、新約の時代は女性の身分、地位が低く、女性は一人では生きられない時代であり、仕事をして自立するなんて考えられなかった時代です。そういった時代に未信者と結婚したクリスチャンの女性が、離婚した場合どうなったかを考えれば、夫が未信者でも離婚はなかなかできませんでしたし、指導者パウロも離婚を簡単には勧めていません。(1コリント7:8-16)何故なら離婚は即明日からの生活ができなくなることを意味していたから。しかし、信仰が無い人――自分の最も大事にしているもの、生き方、主義主張が異なる人――との結婚を勧めているわけではありません(1コリント6:12-20)。同じコリントの手紙でさえ、全く違う解釈、見解が書かれています。

 ですから聖書は最初から最後まで通して読むこと。主題学習的聖書研究、つまりあちこち取り上げて一つの主題を学ぶやり方も、入門編としは悪くはありませんが、いつまでもそのやり方ではやはり深い学びはできません。より聖書理解する為に歴史的、社会的背景をちゃんと学ぶことを心がけ、自分勝手な読み方、つまみ食いのような読み方は是非改めて下さい。

親のありがたさ

2006年4月1日

「親思う心に勝る親心」或いは「親思う心以上の親心」だったでしょうか、いずれにしても良い川柳だとつくづく思います。最近、正にこのような体験をしました。

 今年の1月にキリスト新聞社から「キリストの復活」レントからイースターへ、という題で説教集が出ました。現役の牧師やチャプレン20名が説教を寄稿し作られた本ですが、私の説教も載りました。今まで大学、大学院では多くの論文、小論文を書いてきましたが本という形にしたことはなく、今回はアカデミックな論文ではありませんが、自分の書いたものが初めて本に載るというのは嬉しいものです、たとえ二十分の一の比率とはいえ。

 出版されてしばらくして、2月下旬だったでしょうか、キリスト新聞社の担当の方よりメールを頂き「原稿料をお払いしたいのですが、どうしたら宜しいでしょうか。」とのこと。他の寄稿者は皆日本にいるので、為替、書留などで問題ないが、私のように海外にいると、国際為替にしても、銀行振り込みにしても円をドルに変えなければならず、手数料や時間を取られ結構面倒な作業をしなければならない。それに二十分の一の原稿料なので、わざわざお送り頂く額でもなく、かえって申し訳ないと思い、担当の方に「実家の王子北教会、吉松繁牧師宛にお送り下さい。」とお願いしました。実家の両親には何も言わずサプライズ(驚かせる、ちっとオーバーですが)の献金にしようと思っていました。何しろ、あまり親孝行らしいことをしたことがないので、初めての本の稿料を献金しようと思ったのです。 

 それからさらに一ヶ月程たった先週、父母から国際電話(国際電話なんてもう旧い表現ですね…)がありました。父曰く「数日前にキリスト新聞社からあんた(父はよく私や周りの者を「あんた」と言う)の原稿料が届いたから、母さんと相談して、あんたのビザの口座に振り込んでおいたよ。だからいつでも自由に引き出せるよ。」とのこと。私は「しまった!」と思いました。慌てて「お父さん、あれは王子北教会への献金の積もりだったんだけど…」と言ったところ「まあ、良いから。せっかくの稿料だし」と言って母に電話を代わりました。母も「あなたの分の献金はしておいてあげるから、自分の為に遣いなさいな。」と言って一件落着。

 最初から「献金に」と言っておいても、同じ結果になったかもしれません。しかし、私も今年四順目の年男。もう五十路も視野に入ってきた年齢ですが、いつまでも親には子どもなのです。本当にありがたいなぁと思わずにはおれません。神の愛も正に親心。子どもの為なら何も惜しまない。十字架に架かり私たちの罪を神に取り成してくださったキリストの愛も親の愛と同じ無私の愛です。

 問題はその愛を知った私たち、子、がどのようにそれを受け止め報いるかです。これは一人一人に問われています。皆さんは親孝行をしていますか? それとも、親不孝を重ねている? いかがでしょうか。

後継者問題

2006年2月12日

 時々(正しくは頻繁に)日本から入ってくるニュースに呆れてしまいます。皇族の後継者問題もその一つです。男系だけにするか女系も後継として認めるかが今行われている通常国会の重要議題の一つだったはず・・・が、紀子さんが妊娠した途端「生まれてくる赤ちゃんが男か女か見極めてからでも遅くない。男だったらこれまでの規定を変える必要がないから。」となって国会で話し合うのが見送に(先送り)なった。「どうして?」と首を傾げてしまいます。

 さて、この問題を考える前に、私の立場を明確にしておきます。私はそもそもこれまでも何回か発言してきましたが天皇制そのものの必要性を疑問視しています。それは天皇という前近代的支配者(今は国民の象徴だそうだが)が存在することにより階級が生まれ、歴史の中で多くの民が犠牲になってきたという事実があるからです。今日でもその犠牲者の中でも最も辛酸をなめた人々の末裔が被差別部落民として目に見えない差別を受け続けています。住井すゑ氏の小説「橋のない川」は実にそのへんの事情を明快に書いているので、是非読んで下さい。

 また明治以降、天皇を現人神(あらひとがみ)と称し「アジアの諸国を皆皇国の民にせん」と日本軍国主義による侵略、略奪、殺戮が行われた事実があります。天皇の名の下に多くの命が奪われました。中国や韓国の民だけでなく、「人生これから・・・」という若者が何十万人も犠牲になった。その兵士たちが祭られているのが靖国神社ですが、天皇の名の下に侵略を指揮した確信犯、A級戦犯と呼ばれる軍人指導者達も祭られています。ですから靖国神社への総理大臣の参拝に韓国や中国など侵略された国々が過敏に反応するのも当然のことです。さらにキリスト教をはじめ、多くの宗教団体が「現人神天皇が最高神であるから、その下に従属しなければならない」と弾圧を受けました。弾圧に屈しないキリスト者、牧師は投獄され拷問を受けました。それによって命を失った信仰者もいます。三浦綾子氏の小説やエッセイ、本多勝一氏の本などを是非読んで下さい。このへんの事情が良く分かります。

 また最近でこそ韓国ブームが起こり、韓国人、朝鮮民族への見方が変わりましたが、戦争中、労働力として強制的に連れてこられて、戦後も祖国へ戻れずに永住した韓国人たちは多年に渡り不当な差別を受けてきました。これもみな天皇制の副産物です。

 とまあ私の立場を明確にした上で、敢えて男系、女系の問題を語ると、これまで歴史上、男性に代わって女性の天皇が政を司った事が幾度もありました、特に初めの頃の女帝は力があったようです。歴史上10人の女帝が輩出しましたが、最後の女帝、後桜町帝(1762-1770、江戸時代下半期)以降女帝が出ていません。これは取り分け明治政府が天皇を現人神とし、男系に固執したからといえますが、21世紀の現在でも、男社会の構造そのままに、天皇も男系後継者のみ、とするのはあまりにも男尊女卑、差別社会肯定にほかなりません。どうして女性天皇ではいけないのか? イギリスの例を見ても、決して女王は王にひけを取っていません。男女の別なく第一子が後を継げば何も問題がないではありませんか? それでも「男が良い」と言うのは儒教思想、男性社会=(肉体的)力社会の愚劣な嗜好(思考)としか形容のしようがありあません。

 これでは本当の男女平等、機会均等法、DVの撲滅など先の先でしょう。私は全く理解できません。 ま、日本だけでなくアメリカもまだ女性の大統領は出ていませんが・・・。

よくある質問に答えます。その2

2006年2月10日

 たまに「あの人はクリスチャンで信仰があるし真面目なのになんであんなことになってしまったんでしょう?」という類のコメントを聞きます。その方が難病にかかってしまったり、事故にあって本人、或いは家族が命を落としたりというような不幸があった時、周りの人達、友人、知人からでた言葉です。

 これはキリスト教(及び仏教、イスラム教などを含めた諸々の宗教)を御利益宗教と同一視しているところから来る誤解、謬見です。キリストを信じれば災いを防げる、仏陀を信じれば厄から逃れられるというのは「そうあって欲しい」という願望を利用した新興宗教や安っぽい御利益宗教の商売。

 では何故キリストを信じるか? 本来神と共にあるべき人間ですが、自己中心の罪に陥り、神から離れている。その状態を罪と呼びます。その罪をキリストの深い愛の故に神が許して下さる。だから信じる。と言うのが神学的な理由ですが、もっと直接的に言うと、信仰のある人は、たとえ何があってもそばにいてくれる方がいる、共に泣いてくれる方がいる、辛さ、痛みを知り、共に耐えてくれる方がいる、また喜びを分かち合って下さる方がいる・・・そう「自分は一人でヘない」ということを確信する。また「やがては神と共に住む、つまり御国(天国)に行く。」という終末思想もあります。

 が、いずれにしても信仰とは生きている者の為であり、どのように生きるかを問うものです。人として成長していく上で、自分と神と向き合うのが信仰であり厄除けではありません。

よくある質問に答えます。その1

2006年2月5日

 この書き込みの一つ前に高校時代のクラブが愛好会となり、今でもその頃の仲間と交流があることを書きましたが、最近その愛好会の掲示板で宗教談義になりました。音楽愛好会、飲み会の掲示板という性格上、深く書き込めなかったので、この場で、その時の会話、疑問にお答えしたいと思います。

 どういう趣旨の疑問であったかというと、一人の先輩が「キリストは『礼拝に行け』なんて言っていない。」「『日曜日に礼拝しろ』とは言っていない。」と主張したことと「処女降誕は信じられない」というものでした。新約聖書だけ、更には福音書と呼ばれるイエスの物語の所だけを読んでいるとこう言った誤解、誤読も生じるのかな、と思いました。確かにイエスが「教会に行きなさい。」とか「礼拝を守りなさい。」という直接的表現はありません。でも、それは表面的な読み方で、ある程度の年月教会で礼拝を守っているクリスチャン、聖書の学びをしている信徒だったら即答できる初歩的な質問と言えます。

 聖書の世界をご存じない皆さんは、まず「イエスの時代のイスラエルは今日の中東の国々がイスラム教を厳格に守っているのと同様、戒律を守っていた」と理解して下さい。旧約聖書の出エジプト記20章と申命記5章に「十戒」というユダヤ教の根本となる戒めが書かれています。その第4戒に「安息日を守ってこれを聖別せよ。」というものがあります。これには更にもう少し細かい規制が続きますが、どういう戒めかと言うと、第七日(ユダヤ人には土曜日、クリスチャンには日曜日、イスラム教徒には金曜日)を聖日として、「その日は神の日であるから、いかなる仕事もせず礼拝しなさい。」というものです。現在でも真面目なユダヤ教徒は土曜日に礼拝を守っていますし、イスラム教徒は金曜日、クリスチャンは日曜日に礼拝をしています。

 イエスの時代、安息日(聖日)に礼拝をするのは当然の義務であり、大前提でしたので、敢えて「礼拝を守りなさい。」と言う必要も無かった。言えば「あいつ、何を言ってんの? そんな当たり前のことを。」と人々から思われました。礼拝を守らないことは戒律を破る不遜な行為でした。ですからイエスは「礼拝を守りなさい。」と言う必要も無かったわけです。これは日曜日が休日となって定着した今日「日曜日は休みです。」と言うくらい間の抜けたことです。さて「『教会に行け』とは言っていなかった。」という意見ですが、これは当然。イエスが教会という新しい組織を作ったのですから。しかしこの教会とはユダヤ教のシナゴーク(礼拝所)や寺院と同じ性格の物ですから当然「礼拝をする場所」を意図していたことは言うまでもありません。更に、補足するとイエス自身は安息日にはユダヤ教のシナゴークで礼拝を守っています。これも聖書を読むと書いてあります。ですから上述の「イエスは『教会に行け』『日曜日に礼拝をしろ』と言わなかった。」というのは全くの見当違いです。

 処女降誕は神を信じるか、信じないかという信仰の話なので、あくまで個人の信仰の問題になりますが、体外受精やクローン技術が発達した今日なら、ますます男と女の性行為が無くなって子供が産めると逆に思えそうな気がするのですが・・・。さて、処女降誕ですが、無から全てを創造された神が聖霊によって処女マリアを懐妊させ、そしてできた子供がイエスであったというこの物語は、神の無から有の創造ということを前提にしています。「神にはできないことは何一つない。」(ルカ 1:37)とクリスマス物語で御使い(天使)ガブリエルが言っていますが、正に信仰が問われています。「性交が無ければ子供が生まれるわけない」と言って信じないのは、信仰の領域ではなく、科学の検証、証拠を求めた一つの考え方であり、信仰ではありません。

 これは科学信奉者への挑戦ですが、今までに科学者、発明家で、あるいは誰でも構いませんが、全くの無から何かを創り出した人がいるでしょうか? 全ては、ただ人類が今まで知らなかった(無知だった)だけで、この宇宙、世界に存在していた。と言えないでしょうか? ノーベル賞ものの発見も同様。例えば、超微粒子、中性子、DNA、最近話題のたんぱく質、相対性理論、エイズ、鳥インフルエンザ(ウイルス)など等・・・。人間が発見したと言って威張っている物、どれをとっても、単にこれまで技術力、科学力が発達していなくて、見ることができなかったに過ぎず、人間が知らなかった時代にも確実に存在していた。誤解しないでいただきたいのですが、私は科学を否定する積りはありません。科学にはいつも興味があり、面白いと思っています。ただ何でも科学で証明できると思っているとしたら、勘違いして科学を万能だと思い込んだり、科学で証明できない物は否定するのは、人間の驕りとしか私には思えないのですが。如何なものでしょう。

何一つ無駄はなし。いつか芽が出る。

 私は高校の頃、フォーク・ソング・クラブに入っていました。フォーク・ソングなんて言うと何となく旧い感じですが、吉田拓郎、井上陽水、ユーミン、かぐや姫、アリス、チューリップ、オフコース等の日本のバンドに始まり、アメリカの60年代、70年代のグループ、PPM、キングストン・トリオ、ブラザーズ・フォー等を盛んにコピーしては歌っていました。下手なギターを片手に色々な歌を歌い、時にコンサート活動などもして、その頃、高校の勉強そっちのけでやっていたことと言えば、歌うことと、美術研究所に行って絵を描くことでした。

 ですから1979年にアメリカに留学する時、美術関係のの友人の一人は私が歌をやりにアメリカに行く、と思っていたようです。その後、美術も音楽も下手なりに続けていますが、高校のクラブはその後無くなってしまいました。しかし、当時の仲間たちとは今でも連絡を取り合い、日本では特に子育てが終わった、或いは終わりつつある私たちの年代が頻繁に会うようになり、飲み会等をしょっちゅうするようになり、数年前、愛好会復活となりました。卒業後数十年経った今でも先輩、同輩、後輩とつるんで、高校の同窓会に出て歌ったり、先輩の一人が経営しているライブ・ハウスで集まって歌ったりしていますが、本当に良いものです。大学からアメリカに来てしまった私にとって、日本の学校時代の貴重な繋がりです。

 アメリカの美大留学し、その後不思議な導きで神学校に進み、牧師になりましたが、高校の頃に情熱を傾けてやっていた歌、美術はその後、形が幾度と無く変わりはしましたが、今でも私の生活の一部となり、研究、仕事で使われています。ギターを持って歌うことは、教会でゴスペル・フォークというジャンルに代わり、今でも弾き語りをしています。黒人特有のゴスペルではなく、白人の教会、クリスチャンの間で弾き語りの讃美がフォーク全盛期から始まり、今ではプレイズというジャンルからクリスチャン・ロック、イージーリッスニング系の讃美までに広がりました。日本の教会でも福音派系で広まり、私も教会学校で歌ったり、キャンプで歌ったり、指導したりしています。

 美術も同様。神学校に行く時、神学校の学びはとても厳しく時間的にも他の事はできないと、美術を完全に諦めたのですが、その後、宗教と美術の接点を模索し研究することが「自分の道」として示されてから、現在に至るまで、美術と宗教という広い領域の中で勉強しています。牧師になるという選択をした時、フォーク・ソングや美術などと無関係の仕事・・・と思って、諦めねばと一大決心したのが嘘のようです。

 神の御心は私たち人間には解りません。皆さんの中にも、これまで躓いたり、辛い思いをしたりした時期があり、「あの頃は一体何だったんだろう?」なんて思うことがあるかもしれません。しかしどのような時期でも経験でも、必ず無駄にはならない。神のプロビデンス、御計画の中では無駄、無意味などは存在しない。全てが益に変えられます。ただ、だからと言って、それに甘えず日々一生懸命過ごしてください。皆さんの人生は皆さんの心がけ次第、生き方次第です。今やっていることは、今芽が出なくても必ず10年後、20年後、30年後には何かになります。

DV一考察 Part 2

2006年2月2日

以前、Domestic Violence(DV)について書きましたが、つい最近、日本語放送のNHKニュースを見ていたらDVの特集をやっていました。これまでDVというと既婚者の問題、夫の妻への家庭内暴力(肉体的、精神的虐待を含む)というイメージが定着していましたが、最近では結婚前のカップル、恋人間の暴力をも含んで考えるようになった、と報道していました。この報道は根本的な問題解決へ向けたかなりの前進と言えます。アメリカでも数年前、高校生、大学生、20代前半の若者のデート・レイプが問題として取り上げられ報道されたことがあります。初めてのデートでお互いまだ良く知り合ってもいない、本当に愛し合っているか分からない状況で、主に男の方から一方的に性行為を求められ、半強制的に性行為をしてしまうというケースが増えているとのことでした。女性は相手への思い、言葉や態度の暴力(力関係)で押し切られ、最悪の場合、性行為が済むとそれっきり相手にされないケースもあると報道していました。

アメリカでも一部の馬鹿な連中で男のマッチョイズムを強調し、肉体的力を誇示したり、女性を力で従わせたりする輩がいます。女性の中にも、少数ではありますが(と信じたい)、それを良しとして受けれいている人がいるのには驚かされます。たまたまテレビのチャンネルを回していると、時たまやっているプロレスとかモーターショーを見ると(勿論すぐチャンネルを替えますが)強靭な肉体を誇る男に、ブロンド(に染めた)セクシャルな格好をした女が付き添うシーンが多々見られます。「愚かなり!」と一笑にふしたいところですが、日本人にも「男は泣いてはならない」とか「男はこうあるべき」とかやたらに「男」「女」を強調した表現、考えがありすぎ、簡単にはできません。旧い男尊女卑の考え方が手を変え品を変え多くの日本人の中に生きている。しかも男性ばかりでなく女性の中にも。これを改革、改善してかない限りDVは無くなりません。

上述のテレビ特集では、日本の若者の実態として結婚前のカップル間での精神的、肉体的暴力行為が増えているとのことでしたが、私は単に隠れていたのが表面に出てきただけと解釈しています。それがようやく女性の意識が高まり、女性の権利の確立が叫ばれて半世紀過ぎ、問題として取り上げられるようになった。女性は相手を「好き」、「愛している」という感情に溺れずに次の点を見つめる必要があります。交際相手が力ずくで性行為を迫ったり、意見が異なると大声で自分を威圧したり、手を挙げる。そんなことは絶対許されてはいけません。勿論、人間ですから時に自分のパートナーと意見が合わず、言い合いになることもあるでしょうし、意思の疎通に欠け喧嘩をすることもあるでしょう。しかし、怒鳴ったり、周りの者、物に八つ当たりしたり、相手に手を挙げるのは人の道から外れている、正に外道の行為です。

この特集では結婚前の交際期間に手を挙げる男は結婚してからも十中八九手を暴力を振るうDVに繋がるとの統計を報告していました。以前にも書きましたが、「(相手が)結婚したら変わってくれる」、とか「私が彼を変えられる。」「変えてみせる。」などという甘い期待、発想はくれぐれも持たないことです。人が回心して変わるには、それ相当の体験が必要です。私は人を心底変えられるのは神の愛のみ、とさえ思っています。

今、もし貴方が結婚前で自分の交際相手からのDVで悩んでいたら、そっこく別れる事をお勧めします。既婚者の方は結婚カウンセリング、法的対応、別居、離婚など状況によって取るべき手段が変わりますが、「自分さえ我慢すれば良いんだ。」などと自分の人格を殺すようなまねだけはしないで下さい。勿論、喧嘩や関係のもつれは、相手だけが一方的に悪いとはいえません。貴方にも反省すべき点があったら直し、相手との関係の修復に努力する必要はあると思います。しかし、例え自分が100%悪くても、相手に暴力は絶対許してはいけません。

真の人間関係に暴力は不要です。

言葉の品性を守る

2005年10月27日

 アメリカに住んでいて気になることの一つに言葉遣いがある。過去30年以上に渡りポップ・カルチャーやラップ・カルチャーが流行、それに伴い、そこで遣われる言葉が一般化した。その言葉とは中、上流階級、あえて加えるならプロテスタント、カトリック白人文化(人によっては気取った感じがする)、階級制度の支配者層に対し、自分たちの文化、日常語を遣う、言わばスラングのオンパレード。

 元々、とりわけ黒人文化は50年代、一昨日なくなったローサ・パーク婦人のバス席譲渡拒否から始まった、シビル・ライツ(公民権運動)でブレークし、抑圧者である白人に対し被抑圧者の立場から見直すという真の解放が根底にあった。今のラップ・カルチャーにそこまで気骨があるとは思えない。人種差別抵抗運動がいつの間にか、ひねた反社会、犯罪容認、言葉の乱れお構いなしのていたらくに成り下がった面がある。

 汚い言葉遣いや粗悪、下品な態度が、50年代アメリカでジェームズ・ディーンやエルビスが青年に反社会的クール・ガイのシンボルとして受けたように、日本では三船や石原裕次郎の不良青年ぽい危なさが受けたように、今や「カッコいい」とされ、言葉は乱れに乱れ放題。

 昨日、シカゴ・ホワイト・ソックスが88年ぶりにワールド・シリーズを制覇して今年のアメリカプロ野球は終わったが、今年、幾度かヤンキー・スタジアムに行って、この言葉の乱れ、下品なマナーを痛感した。嘗て、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックが活躍した頃の、プライド・オブ・ヤンキーズは夢のまた夢。野球場は子供たちを連れて行く所ではなくなってしまった。

 心ある人達に言いたい。今のまま、下品なカルチャーが格好良い、FやSで始まるスラングが横行するようでは、心も文化も芸術も貧しくなるだけだ。今こそ力を合わせ、美しい言葉遣い、品性のある文化、芸術を創ろうではないか。

 何だか政治結社の呼びかけになってしまったが、今切実に思うことである。

DV一考察

2005年7月21日

 DV、Domestic Violence(家庭内暴力)が相変わらず増えつづけている。3、4年前のデータだが、ここアメリカ、ニュージャージーでは夫から暴力(激しく罵倒された、手を挙げられた、病院に行かねばならないほどの暴行を受けたなどなど)を受けた事があると回答した女性が8件に1件の割合だった。確かニュージャージーの家族、社会調査報告に載っていたと記憶しているが、もしかしたらこの数字はもっと高いかもしれない。これは既婚者を対象としたアンケート調査の結果であるから、未婚者で、現在交際中の男女も入れたら、この数字は更に高くなる可能性がある。

 DVやChild Abuse(児童虐待)が、21世紀になった今日、文明の進んだとされるアメリカ、日本でいまだに起こっている事、しかも増えていることには驚きを禁じえない。最も、その文明最先端の国、世界一金持ちの国が戦争をし続け、罪も無いイラクの市民を傷つけたり、愛国主義を焚きつけ何も知らない貧しい若者を志願兵として募り、戦地に送っているのだから、DVが増えても当たりまえかもしれない。が、だからと言ってDVを黙認してはならない。

 勿論、夫婦、恋人間には色々なことがあるだろう。私も離婚経験者だから、必ずしもいつもいつも夫が一方的に悪いとは言わないし、どの家庭も夫婦が喧嘩するにはそれ相応の理由があるとは思う。夫には夫の、妻には妻の言い分があるだろう。しかしいかなる理由があるにせよ自分の妻を殴ったり、恋人に手を挙げる行為は許されるものではない。私自身、かつて夫婦仲が悪くなり、お互いが罵倒しあい、妻も私も自制心が崩れてしまい、頻繁にではないが手を挙げてしまったことがあった。牧師になる前の事だが、その事を15年経った今でも後悔している。悔やんでも悔やみきれない。その後、更なる回心を経験し牧師になってからはなお更、暴力に対する嫌悪感が強まり、後悔の念も強くなった。
(ちょっと脱線しますが、私の心境を例え言うなら、以前タバコを吸っていた人が、タバコを止めてからしばらく経つと、全く吸ったことの無い人よりも、うんとタバコの臭いに敏感になり、タバコに嫌悪感を覚えるのに似ています。)
 
 知り合いにアメリカがイラク戦争に踏み切る前、反戦デモに参加した男がいます。その頃は彼の仕事、言っていたこと、デモに参加したことを私は立派だと思いました。しかしその後、彼が自分の交際相手に手を挙げたことを知りました。1度ならず何度も。そのような女性に手を挙げるような奴が反戦デモ?ちゃんちゃらおかしい。自分のガール・フレンドに暴力を振るうような人間がどうして「反戦」なんて言えますか?そういう人間には偽善者の称号が良く似合う。

 男達に言う。例え自分が100%正しくても、いかなる理由があるにせよ自分の妻、恋人に手を挙げるな。それは最低の行為である。自分が間違っていたら、くだらない面子なんか捨てて、妻(恋人)に謝罪せよ。いかに普段、かっこ良いことを言ったって、どれほど良い仕事をしていたって、女性を殴るような奴は最悪。人間の屑。

 女性に言う。自分の恋人が手を挙げる男なら、すぐ別れなさい。もし結婚しているなら、夫に手を挙げる事をしないことを誓わせなさい。さもなければ離婚も止む無し。勿論、あなたがいつも正しいとは思いません。自分が間違っていたら、素直に謝ること。因みに、自分がいないと相手(男)が駄目になる、とか自分だったら家庭内暴力癖を治してあげられるなどと思わないこと。

 アル中、薬中、ギャンブル狂の男と恋愛、結婚する女性の殆どが「自分が治してあげられる」「結婚したら止めてくれる」「変わってくれる」と思い込んでいるという傾向があることを社会福祉士から聞きました。しかし、それは幻想です。勿論、例外はありますので、全く無いとは言いません。そういう何かに依存症の男は、あなたの献身でも変わりません。暴力を振るうのも依存症です。あなたが毅然とした態度を取らないことによってそれを増長させていると思いましょう。

 そういった依存症の人が立ち直るのに必要なのは本人の意志です。本人が自分の過ちに気付き、回心して生まれ変わらない限り、アル中、薬中、ギャンブル狂、家庭内暴力癖がなおることはありません。幻想は抱かないこと。
 
 何事も話し合いで解決すること。これができないようなら二人はパートナーではありません。力による主従関係です。繰り返して言いますが力で自分よりも力の弱い者を従わせるなんぞ最低な男です。そんな人間ばかりだから、世の中良くならない。

 こういうことを言う自分にも自己嫌悪を感じます。神の国がまた遠くなりました。



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