政教分離?
子供の頃、21世紀はどのような時代になるだろうと想像して、さぞ高度の文明を築き上げ、貧しい人もなく戦争など全く過去の話になっているだろうなと思っていました。そこでは人々は楽しく、自分の夢を追い求めるような生活ができる、、、と信じていました。まあナイーブな思いでした。
実際には21世紀になって時代が逆行しています。中東も平和協定に何度も達すると思いきやそれが破棄され、パレスチナ人の自爆テロ、それに対してイスラエルは制裁を繰り返している。2001年9月11日のテロ以来、ブッシュ大統領は元々好戦的だったところへもってきて、恐怖心から逆上してしまい更に戦争によって世界を治めようという姿をさらけ出しています。アフガニスタン侵攻から今度はイラク。昨年のState Of Union Address(何故か訳は「一般教書」)では、悪の中枢としてイラク、イラン、北朝鮮を挙げてしまった。イラクは今攻撃準備中。恐らくは北朝鮮は色々な政治取引などの思惑はあるものの、次は「我々がやられるのでは」と窮鼠猫を噛む式に逆上、原発、原爆開発を急遽再開したのでは、、、。それぞれの指導者を見ると「愚かな為政者は国を滅ぼす」という格言を地で行っているようです。
さて、ここからが本題。このような状況にあって教会はどうあるべきか。牧師、信徒の立場は。アメリカでは法律で政教分離が制定されており、宗教は公的機関、公立学校や公の場では語られないことになっています。また教会の中でも色々な立場、思想の人たちが集まっているので、政治的な話、特に民主党或いは共和党にどちらかに偏る内容はタブーとなっています。共和党はブッシュ大統領の出た党ですから好戦的。民主党も今は骨抜き状態で真っ向から反戦をうたっていない。
このような状況の中でどのように自分の反戦という信念を伝えるか。私はいつも「あくまで私個人の考えであり、立場である。」ということを強調した上で、反戦をかたり、政治的なことを語ります。牧師=教会と思われがちなので、「個人の」を明言します。特に個人主義の国アメリカだから、尚更そうしなくてはならないと思っています。
教会の中心は礼拝です。礼拝は神を讃美し、聖書の話を聞き、自分の生き方、信仰を考える、言わば神と信徒との交わりの場です。その意味では、礼拝を牧師個人の考えで、政治の場、社会問題を語るだけの場にしてはいけません。ただ敢えて言わせて頂ければ礼拝は礼拝としてきちんと守った上で、上述のように「個人的に」憂うることを伝えるのは構わないと思っています。報告の場や交わりの場で。また雑談の時に。私は時々説教の中でも、反戦、貧困、富める国アメリカ、日本の問題を語りますが、一応、「これは私の思いである」と前置きします。本当はそんなまどろっこしいことを一々しなくてもいいのではと思いつつ。
イエスの説いた愛、平和、正義、神の国などを考えていけば、当然、反戦が出てきますし、貧困に対して、富める人が何をすべきかも書かれています。牧師はそれを語らなければならない。信徒はそれを受け止め自分の生活の中で実践していかなければならない。子供たちにも物事の善悪を教える。殺人がいけないということを教える。戦争も殺人に他ならないと教える。そうすることによってより良い社会作りに参加していく。気の長い話です。キリスト教の理想とはこうした草の根的な展開によってしか実現できないのではと思います。






