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驕り高ぶった人

2005年7月21日

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富みを積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」

マルコ 10:17-23

 時折、自信に満ち溢れた人、また大っぴらにこそ言わないまでも「自分は絶対正しい。」と思い込んでいる人に出会います。特に20代~30代の人に多いような気がします。特に「これから自分の才能を活かしバリバリ仕事をしよう」と思っている20代半ばから後半、またある程度仕事をし、「自分には能力がある」と思っている30代、「仕事が出来る」と思っている30代後半から40代、勉強が「出来る」と思い込んでいる10代後半から20代前半の人々にこの傾向が顕著に見られます。中には本当は自信が全く無いのに,虚勢を張っている人もいますが。このような傾向は多かれ少なかれ誰にでもあります。私も若い頃は実力も無いのに自信過剰で思い上がっていたような気がします。今も実力は?マークなので、もしかしたらそのような嫌な面があるかもしれません。が、解っている事は自分は、それほどの人物ではないということ。

 以前もどこかで書きましたが、日本人に多く見られる傾向に「半端なインテリ」があります。大して深く物事を知らないのに、知識量だけは多く、自分が何でも知っている、だから自分は正しい、と勘違いしている人たちです。この手の人たちは始末に悪い。何せ自分が正しいから人の言う事を聞きません。また何でも直ぐに斜に構えて批判します。自信を持つことは悪い事ではありませんが、「深い洞察力」、「知識」、「経験」、「感性」、それに加えるなら「人を思いやる優しい心」がなければ、人はいつまでも半端なインテリで真の一人前の人間にはなれないような気がします。では「一人前の人間とは?」と訊かれたら、人の痛みがわかる人、話す前に聞く人、批判を簡単には口にしない人、和を尊び、平和、協調を善しとする人・・・などなど。円満に老いを迎えて、誰にでも優しいご近所のお爺さん、お婆さんなどは正に知者、尊敬されるべき人生の先輩でしょう。

 半端なインテリで何かと言うと人や物事を批判する人は負の力(ネガティブ・エネルギー)を回りに振りまき、一緒にいる人の正の力(ポジティブ・エネルギー)を吸い取ってしまいます。皆さんの中にもそういった人の話を聴いていて自分が知らず知らずのうちに疲れているといった経験をしたことがあるのではと思います。こういった人たちは、素直に聞く、素直に学ぶと言う姿勢がありません。学生だったら必ず自分の勉強が思うような成績が取れなかったり、学校が面白くないと、先生の批判をしたり、学校そのものを批判したり、会社員だったら自分の会社を批判したり、上司や同僚のことを悪く言ったり、或いは社会機構そのものを批判する。どの職種、職場に限らず、こういう人たちはいます。和を乱す人。厄介ですね、これらの人々は人の言う事を聞かないし、他の人から何か言われると、それが善意であっても、自分への批判として捉え、またその人達を批判する。この半端なインテリのひねた性格はどうしたら良くなるのか、正直なところ解りません。

 聖書でもこのような人の回心はなかなか難しいことが書かれています。冒頭の聖書はマルコによる福音書からの引用ですが、一人の青年が「永遠の命」=救いを求め、イエスにきました。この物語りは、貧しい人々がいても、飢えて死んでいる人がいても構わず、何もしない自己中心的な金持ち、資本家の救いの難しさとして解釈されますが、実は本当の問題はこの青年の奢り、自信過剰にあります。彼はイエスから何をすべきかを聞いたとき、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」とすかさず言い返しました。一体誰が本当にこれら一つ一つを全て守りとおす事ができるでしょうか?些細な嘘をついたり(偽証)、こっそりとおやつを食べたり(盗み)、人の悪口を言ったり(殺し)、兄弟で何かを取り合いをしたり(争奪)、父母に逆らったり(敬わない)・・・実は普段、私達がしていることは、よくよく考えると括弧内に書いた通り、イエスが引用した聖書の戒めを全て破る事につながるのです。それがわかれば自分は特別などと思ったり、人や物事を簡単に批判したりできなくなります。
 
 私はアメリカにかれこれ25年暮らしていますが、ニューヨーク周辺に居ますと、留学して来たり、駐在員として派遣されて来たり、青年海外やピース・コープで海外に行って働いて帰ってきたり、また今現在、貧しい人たちの中で活動している人たちとよく出会います。多くの人たちは人格的にも社会的にも優れ、彼らの仕事も尊敬でき、私は彼らから多くのことを学びますが、中には半端なインテリで「自分が正しい」と思っている人もいます。それらの半端な自信過剰のインテリには「海外に出ているから偉いの?」「貧しい人々の為に仕事をしているから偉いの?」「国の機関で働いているから偉いの?」と訊きたくなります。勿論、クリスチャンの中にもそういう人が結構います。牧師とて例外ではありません。

 海外に行かなくたって、上述のようなことをしなくたって、隣人と和を持って、日々一生懸命生きている人は沢山います。それらの人々は自分を何か特別などと思っていない。余程尊敬できます。

 奢り高ぶりを捨てて謙虚に生きることと、自信を持って生きることは両立しないのでしょうか?

 

第二次大戦後60年

2005年5月4日

 このところ中国で大規模な反日デモが幾度も起きているが、中国はその原因を日本側にあるとしている。しかしこのまま続くと双方への経済的打撃が大きいので取り締まりを強化したが、もし中国経済に何ら影響を与えないようなら、そのまま放置したような気もする。

 彼らの主張・問題提起は

  1. 日本の一部社会科教科書における、第二次大戦までの軍国日本の韓国、中国及び東南アジア侵略の正当化
  2. 小泉首相の靖国神社参拝
  3. 第二次大戦以降、日本が正式に謝罪をしていない

というもの。

 1は確かに侵略を他の言葉に置き換え、さも日本の軍事支配が中国や韓国に必要だったと読める、教科書の表現は歴史を歪め、誤った歴史観を捏造してしまうので、日本は素直に認め、是正すべきだと思う。

 2も同様。靖国は天皇が現人神と呼ばれ、天皇の為と称して、アジアを侵略した軍国日本の軍人を祭った神社だから、当然、そこに参拝することは、軍国日本の侵略を正当化するのみならず賛美することにもなる。一般に日本人は「宗教は云々・・・」と宗教を排除する傾向にあるくせに、こういう問題には疎い。特にキリスト教に対する偏見は強い。これは歴史の中で作られたものだがAまあまた別の機会に書くことにして、

 3の謝罪について。今回小泉首相が、10年前の村山首相の声明を引用して、真摯にこれからの日中関係を築いていくという演説をしたが、この村山首相の発言は全く知らなかった。10年前といえばは日本語テレビも入れていなかったし、牧師試験、新しい教会派遣などなどで、全く目が日本に向いていなかった。

 村山首相の声明は過去の日本の誤り=侵略の罪を認めた上で、より強い友好関係を日中、日韓、またアジア諸国と築いていこうという非常に素晴らしいものであった。にもかかわらず、中国や韓国がいまだに不満に思うのは何故か。それは正式に訪中、訪韓して謝罪し、保証金を支払うという目に見える形になっていないからだと思える。日本は中国や韓国にこれまでかなり財政援助してきた。その額は一度ニュースで聞いて「へ~!」と驚く額だった。しかし、それを中国、韓国の一般庶民は知らない。

 やはりここはそういった財政援助や経済協力などという名目を一度取っ払って、正式に見える形で謝罪し、無返済の保証金を出すということで納めれば良いように思う。さもなければ、今回のような問題はいつまでも続く。すれば良いという問題でもないが、しないで同じことを繰り返すよりは一度してスッキリとした形で前進する方が良い。

 聖書の中でも「和解」「許し」について教えている箇所が何箇所もあるが、それほど和解は難しい。日本も中国、韓国もいつまでも過去、禍根にとらわれないで、新しいアジアを作って欲しい、ヨーロッパが違いを乗り越え、過去の過ちを克服し、一つの経済協力機構として団結を始めたように。

純愛とは何か?

2005年4月28日

 昨年、日本で「冬のソナタ」が流行ったのを切っ掛けに、韓国ドラマが流行ったり、日本でも「純愛」という言葉が持てはやされて、純愛ドラマなるものがブームだとか。今、アメリカのTV-JapanというNHK専門に放送を流している局でも、「冬のソナタ」を土曜日の午後11時過ぎに放映しています。試しにとビデオを撮って観たり、余裕がある時は直接観みたりしていますが、何を持って「純愛」と呼ぶのだろう?と考えさせられます。

 昨年、誰かが「いわゆるベッド・シーン、過激な性の描写がない、昔(40年~50年前)の日本を思い出す。一人の人をずっと思いつづけている主人公の健気さが良い。だから純愛。」と言っていました。なるほど確かに裸やセックスは出てきませんし、その意味では子供が居ても安心して観ていられるでしょう。けれどもだから純愛なのか、どうも疑問です。登場人物は自分の思いを押し通すため、それまで付き合ってきた人を捨てたり、或いは悲しい思いをさせたり、また精一杯我慢して、「彼女の為」と自分の身を引くくせに、彼女の好きになった男性を受け入れられない。まあ最後まで見ていませんので、何とも言えませんが、これだけグチャグチャしていても純愛なのかな・・・と思ってしまいます。

 そもそも純愛とは何か?自分の思い、欲、都合を一切捨て相手のことを思う。たとえ相手が振り向いてくれなくても、相手の幸せを望む。しかし、実際には人が誰かを好きになり付き合った時、相手の為と言い、またそう思って何かをするが、実は自分の利益を望み、相手に自分をもっと愛してもらいたいから、振り向いて欲しいから、その為に相手に尽くす。それが人間の本当の姿ではないでしょうか。だから関係がおかしくなると態度も豹変してしまう。時にはもう二度と会えなくなる。悲しい独り善がりの愛の結末です。

 聖書には愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真理を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(1コリント 13:4-7.)と書かれています。これに価するような愛を持っている人がいるでしょうか?恐らく居ないと思います。イエス・キリストを除いては。神の子イエスしかこのような純愛を貫けた方はいないでしょう。だから私は聖書に愛を学びつづけます。

 因みに私が好きな「純愛」に近い物語りは伊藤左千夫の「野菊の墓」です。お読みになっていない方には是非お勧めします。

クリスマス嫌い

2004年12月20日

サーキットライダー本文にも書きましたし、説教でも触れましたが、私はクリスマス当日が過ぎるまでクリスマスをお祝いする気持ちになれません。とりわけコマーシャル思考のクリスマス、どこもクリスマス商戦で賑わい、日頃はキリスト教と全く無関係に生きてる人々が、我も我もとクリスマス・プレゼントを買い回る。人々の運転も殺気立ち、このシーズンも2度ほどぶつけられそうになりました。ようやくクリスマスが終わり、心から主イエスの聖誕を喜んでいます。

この時期ディプレスする人は結構多いようです。先日もラジオのトークショーを聴いていたら、「クリスマスの音楽ばかり流れるこの時期はうんざりする。」とか「自分はユダヤ人なのでクリスマスとは無関係でいたい」とか「自分はイギリス人クリスチャンだが、アメリカのクリスマスはケバケバしくてうんざりする。もっと質素に、主の聖誕をお祝いすることはできないのか?」と幾人もの人が電話で言っていました。全く同感です。
 
日頃「私は宗教は要らない。」とか「宗教はどうも・・・」と言っている方、中高年、若者に一言。曖昧な態度や、こう言う時だけ、クリスマスを利用してパーティーをしたり、高いレストランやホテルを予約して恋人と過ごすなどという愚行は止めて欲しい。信じていないのだったら、自分の信念を全うすべし。

この冬、アメリカ・ニュージャージーのある町で、ある一家が「うちはキリストを信じていないから、クリスマスの讃美歌は一切聴かせないで欲しい」と公立の学校、町に訴えを起こし、学校と町は、その一家と「クリスマス讃美歌は一切歌わない、流さない」ということで和解しました。その一家は非常に自己中心で独断的であると思います。自分達が嫌だったら自分達だけ他の人が讃美歌を歌っているのに交わらなければよいし、そのような場に行かなければよいし、耳栓をすればよい、と私は思うのですが。彼らは自分達は他の人と同等の権利、宗教色のある音楽を聴かない権利があると主張して譲りませんでした。しかし、見方を変えると彼らの方がある意味では、自分達の信念を守り通していると言えます。上述の日本人の多くの人たちより余程、小気味よい。

上述の人々はクリスマスの次はにわか神道信徒、仏教徒になって初詣。先日、その昔一世を風靡した牧伸二(失礼、漢字が間違えていたら御免なさい。)の「あ~あ~あん、やゃんなっちゃった、あ~あ~あん、驚いた」を久しぶりにTV-Japanで観ましが、まさにその心境です。

聖書を学ぶこと

2004年10月15日

 時折、「聖書が全く解らない」と言う方がいます。「キリスト教には興味があるけど、聖書は難しいから教会には行けない」という声も聞きます。はたして聖書は難解でしょうか?勿論、難しい面もあると思います。でも、それは往々にして、教えが難しいのではなく、イスラエルを舞台にして聖書が書かれているため、ユダヤ人の歴史、カルチャーを知らないということによるように思います。上述のような発言される方は教えそのものが理解できないのではなく、横文字表記の名前が沢山出てきたり、文化的、歴史的背景が解らないから、イコール聖書が解らないと誤解しているのではないでしょうか。

 例えば、旧約の箴言などを読むと、親、子への教訓が実に理路整然と書いてあります。論語、仏典よりもよっぽど解り易いと言っても良いくらいです。新約のイエスのたとえ話など、解釈が全く要らないくらいです。何故なら、イエスは学校にも行っていないような貧しい人たちにも解るように、神の国を語ったからです。であるなら中学、高校、大学を卒業しているような方たちが「聖書は難しい、解らない」と言うのはいったいどうしてなのでしょう?この疑問に対して以下、私なりの見解を書きます。

  1. 何か自分で「そう」思い込んでいるのではないかと思います。聖書は奥が深いので、確かに難解な箇所も沢山あります。そういった所だけを取り上げたら「難しい、解らない」になるでしょう。こういう方は、旧約ではまず創世記の物語やルツ記、ヨナ書、箴言を、新約ではルカ伝(ただし系図は飛ばして下さい。)をお勧めします。
  2. 「解らない」と言い訳にしていませんか?これは深く追求しません。
  3. 最もよくある誤解ですが、聖書を「完全に」理解できると思っていませんか?聖書を完全に理解した人はほとんどいません。だからこそ神学者や聖書学者という専門家が現代でも解釈に取り組んでいるのです。牧師も偉そうなことを言ってますが、本当に聖書を理解しているかどうかはなはだ疑問です。(まあこれは私の場合ですが・・・)
  4. 聖書は信仰生活を続けていくに従って理解が深まったり、変わったりします。これは人生経験を積み重ねたり、日々聖書を読み学ぶことによります。ですから、今は今の読み方、理解があります。一人の人をとって見ても10代は10代の、20代は20代、30代は30代の40代は40代の理解が、また60代はそれなりの理解があるはずです。自分の能力以上のものを求めても解りません。

 これで良しというのもありません。一度、解ったら「もうそれで良し」ということはないのです。もし「自分はもう聖書を何回も読んだから、もう読まなくてもよい」と言う人がいたら、その人は、聖書のみならず、人生、学び諸々が分かっていないということを吹聴しまくっているようなものです。こういう人を「愚か者」と呼びます。

 「聖書が難しい、理解できない」と思っている方へ。そういった先入観を捨てて改めて聖書を新鮮な目で読んでみることをお勧めします。

最近の教会 - お客さん

 最近のアメリカの教会で思うのはお客さん的参会が増えているということ。もう少し具体的に言うと、本来、教会に来るということは信仰告白をして教会員となり、一つの教会に確り自分の居場所、アイデンティティーを見出し、信仰生活に励むことであり、教会の中で色々な仕事をボランティアとしてするのではなく、ちゃんと役員としてすることであった。

 一方、「お客さん的」とは、そこの教会に深く関わるのではなく、お客さんのように教会に行くこと。お客さんのうちは、そこの教会で歓迎され、中々気持ちの良いものだ。献金も維持献金(教会を支える為、1年を通して決まった額をすること)もしなくてよいし、諸々の奉仕、教会の責任ある仕事に関わることもない。周りは「よくいらっしゃいました。」という接し方をしてくれる。

 この手の関わり方は「自己主体」であるから、教会が面白くなくなったり、自分に利益をもたらさないと感じたら、その教会から気軽に(手軽に)離れてしまう。良くあるのは、あの牧師の説教が良いからとか、あの牧師が好きだからとかいう理由。また「教会が霊的に熱い、燃えている」なんていうのもよく聞く。そういう理由もあって良いとは思うェ、こればかりを求めて教会に行く人は、その気に入った牧師が他教会に移ったら、自分もそちらに移ったり、或いは教会に行くのを辞めてしまう。

 本来、教会に連なるということは、上述の外的要素を主とする、或いは自分本位の考え方に根ざすのではなく、自分の信仰とはいったい何なのか、どこにちゃんと属して奉仕するのか、御言葉が確り入ってきているのかなど等、信仰を見つめ向上することと知って欲しい。

 勿論、教会は楽しい信徒の交わりの場であるべきで、その意味では「気軽に行ける教会」という面も失ってはいけないが、一方では教会は信仰の道場であるべきと思う。例えて言うなら禅寺で修行するように、教会で真実を求める姿勢で、信仰を磨く必要もあるのではないか。

 カルチャーとしてまた伝統としてあまりにも教会が世俗化しすぎたアメリカで、それを求めるの酷かもしれない。また修行の場を強調しすぎると、霊的な面ばかり求め、立法主義的聖書主義(簡単に言うと、堕胎、ゲイの問題等で直ぐにクレームを付ける保守福音的、裁きの信仰)に偏ってしまいやすい。

 最近、日系人、日本人の教会にもこの傾向が見られるような・・・。信仰生活とはこれほど難しいものだったのかと思わずにはいられない。

張りぼての家~外見満点、中身零点

2004年9月30日

 しばらく雑記帳から遠ざかっていました。今回はアメリカ、少なくともニューヨーク近郊に見られる土地バブル、建築バブルについての一考です。

 私が住んでいますパークリッヂはニューヨーク、ジョージワシントン橋から30分の距離にあるニュージャージー州の町で、中間型郊外と私は呼んでいます。郊外でもより都会に近く、都会のベッドタウンになっているところは都会型郊外。パークリッヂよりも更に郊外で農家が多く、敷地も広い地域を田舎方郊外とします。

 ここ数年パークリッヂをはじめ都会に通勤できる地域に敷地に合わない、不釣合いに大きな家が建ち始めました。業者が古い家を敷地ごと買い取って、その後、庭とのバランスを無視した大きな家を建て、若いカップルや家族持ちに売っています。つい5年ほど前まではパークリッヂでもそこそこ広い庭付き一軒家(リビング、ダイニング、キッチン、バス、トイレ、3ベッドルーム、ガレージ)が25万ドルから30万ドル(日本円で3000万円から4000万円)で買えました。今は庭のサイズは同じでも、馬鹿でかい家(広すぎるリビング、ダイニング、5~8〔時に10〕ベッドルーム、2~3バス、3~5トイレ、ガレージ)が100万ドル以上(日本円で1億円以上)で売り出されています。

 ここ数年、アメリカも不況だったため、超低金利政策を取って来ました。その結果、ローンを組んでも利子を殆ど支払わなくてもよくなり、建築業界は恩恵をこうむって宅地ブームになりました。郊外の家を買っているのは不況にあまり影響を受けない若手エリート達やITや株式で儲けている人たちですが、問題は家族の人数。上述のような部屋が幾つもある家に住んでいるのが夫婦2人きりであったり、日本ほどではないにしても少子化で一世帯3~4人という光景がごく普通に見られます。

 世界が資源を大切にしなくてはならない時代に、しかもアメリカが引き起こしたイラク戦争によって、原油価格が以前よりも更に高騰し石油の値段が上がる一方だというのに、暖房費がやたら高くつく大きな家に住む。またそういった家族にかぎってSUVのような大きく燃費の悪い車を乗り回している。自己中心の極みとしか言い様がありません。

 もっと滑稽なのは、家の外観です。近所のあちこちで家を建てていますが、基礎工事も地震の多い日本に比べると、いい加減。その上にまるでレゴのブロックを積み重ねるように木造屋を建てていく。その安っぽい建て方は、三匹の子豚、ブーフーウー?の藁の家、木の家、レンガの家を思い出します。狼が来て「フ~」と吹くと藁の家も木の家も吹き飛ばされてしまう。正にそんな感じです。しかしながら更に始末に悪いのは、その先で、木造で骨組み、壁が全部できたら、レンガとか石のパネル(出来合いの外壁)を張っていくことです。偽物のレンガが手際良く貼られ、出来上がってみると一見、豪華で堅固なレンガ作りの家に見える。驚く事にこの辺の1億円の家の殆どがそのような安っぽい作りなのです。

 一体、何故そのような偽物のレンガ、石の家に1億も出すのか、何故、木の仕上げにしないのか、そのような下らない見栄を張る必要があるのか、私には解りません。

 子供の時、「見かけ満点、中身零点!」という直接的な批判の言葉を親や友人から聞きましたが(私のことを言ってた訳ではありません、いや・・・もしかしたら、私の事だったのかも)、アメリカの建築バブルを見るにつけ、その言葉を思い出します。

 人の生き方も同じ。外見を気にするのは男も女もなく、人間の性質ですが、中身を磨かないと、若いうちは外見でちやほやされたり、皆から見られたりもしますが、歳を取ってくると、そういった要素はあまり重要ではなくなります。

 寧ろ、元々のルックスは世間の評価からすると地味、或いは全く目立たなかったが、中年になって、それまでの勤勉な生き方、物事に絶えず興味を持つ姿勢、新しい事を学ぶ意欲、また積み上げてきた様々な経験が中からジワッと出てきて、とても良い顔、ルックスになっている人によく出会います。そのような人は話をしたり、交流することによって他者をも豊かにしてくれます。

 小さくこじんまりとした家でも訪問すると快適で過ごしやすかったり、その家の主は客を温かく持て成してくれると心が温かくなります。これは家の大小ではなく、そこに住む人の人格、優しさだということは皆さんお分かりだと思います。大きな家でそうなら言う事はありませんが。とかく私達は大きいとか小さいとかサイズだけで目がふさがれ、価値を判断してしまいます。が、大切なのは中身、ではありませんか?

Fahrenheit(華氏)911を観て

2004年7月8日

 先日、カンヌでグランプリを取ったマイケル・ムーアの映画、Fahrenheit 911を観てきた。「でかした!」或いは「してやったり!」と観終わった時、殆どの観衆が思ったのではないだろうか。久しぶりに映画館で映画終了時の拍手を聞いた。思わず自分も拍手していた。

 この映画はブッシュ大統領がいかに思慮浅く大統領としての資質に欠けているか、また彼を含め今のホワイトハウスのスタッフがサウジアラビアの石油長者達と密接な関係があるかを驚くほどの手腕で描いている。映画の初めから4年前の大統領選挙では民主党の候補ゴア副大統領が実際には勝っていたであろうというブッシュ批判に始まり、ブッシュの若い頃から現在に至るまでの無能ぶりを「これでもか、これでもか」と訴えている。またイラク戦争が全く事実無根の民衆操作の上に成り立っているということも主張し、戦争で犠牲になったイラクの市民、アメリカの若い兵士達、その親の悲しみを描写し、観ている者を更なる憤り、悲しみへと誘う。

 映画の中では、以前読んだムーアの本(タイトルは忘れました)の中に書かれていた驚くべき事実も出てきた。911以降、アメリカがNationalismに走りA警備を厳重にしているが、実は巨大資本との癒着で、一方ではセキュリティーを厳重にし、飛行機に色々な物の持ち込みを禁じながら、一方では「これは危ないのでは?」と思われるタバコのライターとかを持ち込ませる・・・といった事実も皮肉タップリに描かれていた。彼の前作の映画Bowling・・・は観ていないが、改めて観たくなった。近所のビデオ屋に行こうと思う。

 マイケル・ムーアの作品は当初ディズニーが配給元として全国の映画館に出す予定だったそうだが、内容が余りにも政治色の強いブッシュ批判の為、配給を取り止め、一時はお蔵入りする危険もあったと聞いた。しかしカンヌでグランプリを取り、ヨーロッパで絶賛の嵐が巻き起こり、今回の全国上映に漕ぎ着けたとか。何かと話題を提供する。しかしよくよく考えればディズニーもマイケル・ムーアが作る映画なのだからミッキー・マウスやドナルド・ダック、或いはファンタジー映画でないことは解りそうなものだが・・・何故、彼と映画配給契約をしたのか?途中で降板するくらいなら、最初からしなければ良かったのに、と思うのは私だけではあるまい。アメリカではディズニー・ランド、ディズニー・ワールドはフロリダとカリフォルニアにあるがフロリダはブッシュの兄弟が知事をしているし、カリフォルニアはブッシュびいきのアーノルド・シュワルツネガーが知事をしているから、圧力でもかかったのかなァと勘ぐりたくなる。

 それにしてもアメリカは面白い国だ。一方ではブッシュを盲目的に支持し、戦争を肯定する人間が沢山いるかと思うと、一方では真っ向からそれを批判し、戦争反対を叫ぶ人間がいる。日本もそういった人間がいないとは思わないが、いまだに「お上」の国(1ヶ月くらい前ニューヨークタイムズに掲載された記事で日本及び日本人をそう形容した。)でお偉いさん(ブッシュに頭が上がらない政治家、総理大臣)が何か言うと皆猫も杓子も無思慮にそれに従い右に倣えになる。イラクで人質になった人達が救われて良かったと思ったのも束の間「自己反省」が足りないとか「自己責任」を取っていないなどと言って、針の筵に座らせるような「苛め」「精神的虐待」を平然とする。情けないこと甚だしい。

 日本でも体制に右へ倣えではない、マイケル・ムーアほどウイットに富んだ批評家、ドキュメンタリー作家、映画家が出てきて欲しい。既にいるのであればどなたか教えて下さい。

 因みに私の母校の一つエール大学のコミュニティーではブッシュを初めから批判し、馬鹿にしていた。彼が大統領になってすぐ2001年の5月(9・11事件の前だが)エール大学の卒業式に呼ばれたが、過半数の教授、学生はその事に反対した。彼が呼ばれたのは一部の栄誉好き、金権癒着している者たちの意向だったのではと思えてならない。

 昨日、ラジオを聴いていたら、偶然マイケル・ムーアがゲストだった。話はFahrenheit 911についてだったが、司会者が「ブレアー首相についての批判映画などもお考えですか?」と訊いたところ、ムーアは「考えていないでもないが、ブレアーはブッシュと違って賢いから、失敗の後、そのままそれを放置しないので、難しいかなァ・・・」とコメントしていた。ムーアはブッシュとブレアーを兄弟に喩えて、ブッシュを7歳の弟、ブレアーを12歳の兄とした。「同じいたずらをしてそれが発覚した時、7歳児はことの重大さ、意味が解らず同じ失敗をするが、12歳の兄はその事に気づいて、うまく責任を弟におっ被せるでしょう。だから難しい。皆、お馬鹿な弟のせいにしてしまうからね。」とコメントしていた。私は思わず「そうだなあ。」と頷いて苦笑した。

人一人の命一億一千万円なり

2004年4月23日

 今日のニューヨーク・タイムズの一面に最近日本で騒動になったイラクでの日本人人質事件が取り上げられていた。救われて無事生還した一般市民5名、取り分け最初に誘拐された3名が、ヒーローとして迎えられるどころか、「自省の念が足りない」と日本中で物議をかもし出していることに、ニューヨーク・タイムズの記者は驚き怪しんでいる。アメリカ人(少なくともニューヨーク・タイムズを読む人々)から見れば、彼らはイラクの市民支援の為にイラクに行き、そこで拉致され、解放されたのだから、もっと温かく迎えるべきではないかと書いている。しかし江戸時代から出来上がった、お上(為政者達)政治制度の中で、お上に迷惑をかけた人々は「国民の恥であり、国政にとって迷惑そのものである」と言わんばかりの政府高官、それに右へ倣えの多くの人々。誘拐された被害者はテロリストに監禁されていた時よりも、帰ってきてからの方が精神的疲労が高いということに、何とも言いがたい驚き、憤りを込めた記事であった。

 この話を聞くと、恐らく(敢えて差別用語で遣ってはいけない、この言葉を遣う)馬鹿な一部の人々(日本人)は「アメリカは自分達こそ戦争をしておいて何を言う!」と言うであろう。しかし私も日本人としてニューヨーク・タイムズの記事に賛成である。私は「裁くべきではない」と以前、このコラムで書いたが、このような被害者をいたわるどころか、更に傷を広げるような愚行、愚人どもには神の裁きを祈りたいくらいである。

 確かに人質となった3名は解放後、自分達の巻き込まれた(仕出かしたのではない、巻き込まれたのである。)事件の重み、日本中がそして海外のあちこちで彼らの解放の為に尽力を捧げた人たちのいたことを理解していなかった。その為、自分達だけが大変だったくらいに軽く考えていたのは事実であろう。しかし彼らは誘拐され、何も状況を把握していなかったのである。それなのに「反省が足りない」とか「自業自得」というのは、全く心無い、人の優しさ、配慮がない愚か者の言う事であろう。

 日本の文化、伝統、歴史、思想を形成してきた儒教、先祖からの教えに則って言えば、そもそも政府の役人及び為政者とは国民にとって親のような存在でなければならない。自分の子供が何か粗相しでかしたり失敗をして、その事の重大さに気が付いかず、周りから責められれば、身代わりになって謝罪し、子供にはそっと気づかせてあげるのが親心であろう。それをあからさまに不快な顔をして、叱責の言葉を公の場で発言すれば、愚人達は、いい気になって、追い討ちをかけよう。この愚人達はまだ被害者が解放されていない時から、家族に嫌がらせの電話を掛けたり、高遠さんのホーム・ページに悪口を書いたそうだが、全く赦せない行為である。

 昨日、日本の友人からメールが届き、今回の誘拐事件の解決にあたり、被害者一人につき1億1千万円、計5億5千万円が遣われ、更に飛行機のチャーター代に1億円を遣ったと書かれていた。人一人の命の代償として払われた額、1億1千万円に友人は憤慨していたが、私はこれですんで、自衛隊も引き返さないで済んだ日本政府は喜ぶべきであろうと思う。人の命は本来1億円では買えないし、価がつけられるものでもない。

 私は誘拐事件が起きた時、国際情勢、アメリカへの配慮などよりも、人命を尊重し、自衛隊の引き上げをすべきと思った。メンツがなんだ、テロに脅しに弱い国と思われるからなんだ、と思う。今のアメリカや日本のテロに対する姿勢を見れば、既に充分弱い姿勢をさらけ出しているではないか。だからこそ躍起になって「テロ撲滅!」と叫んで他国を侵略し、更に入国審査も異常なまでに厳しくしているではないか。

 疑心暗鬼であったり、弱者を虐めるような事を繰り返す限り、真の平和などありえない。一人一人がもっと労わる心を持つべきであろう。皮肉にも、テロリストが人質を解放する時に出した声明文に、彼ら3名がイラクの人民の為に働いたことを評価して解放する・・・ような文があったが、彼らの方が、まだ良心を持ち合わせているのではないだろうかとさえ思ってしまう。テロ、誘拐など絶対に赦せない行為のはずなのに・・・。現にニューヨーク・タイムズの記事に誘拐され監禁されていた時の精神的ダメージがレベル10だとすると、現在の日本での針の筵(ムシロ)状態がダメージレベルが12だという彼らを診察治療している精神科医の談話が紹介されていた。全くもってどうなっているのだろう、日本は、世の中は。

映画 Passion について

2004年4月1日

 アメリカでは封切り前から、この映画のプロデューサーがハリウッドの人気俳優メル・ギブソンであること、残虐な拷問シーンや、映画の中でのユダヤ人の描写が「反ユダヤ感情を煽る」と何かと話題になりました。しかしこれはクリスチャン、ユダヤ教徒、イスラム教徒、他が共存するアメリカ社会、絶えず人種が社会の問題になる文化だから理解できる面があり、日本でこの映画を観賞した場合、恐らくは残虐なシーンは話題になると思いますが、反ユダヤ感情は恐らく理解しがたいのではないかと思います。一部の被差別者を除いて。

 この映画を観ての感想ですが、正直、「良い」とも「悪い」とも言えない複雑な思いです。クリスチャンとしての私は聖書のイエスの受難を幾度となく読み、また映画もいくつも観て来ましたので、Passionの中でイエスが苦しむ姿には何度となく涙がでました。しかし「この映画が聖書や歴史に忠実であるか?」と問えば、それは否です。例えば映画はゲッセマネでの祈りに始まりますが、そこでのサタンとのやり取り、蛇を踏みつぶすところは、使徒パウロの十字架解釈、創世記の3章のアダムとエバの堕落の折に、神が言った言葉の成就を描いています。私は牧師として解釈そのものには異論はありませんが、これは勿論、パウロや後世の神学者の解釈であって、実際にゲッセマネで起こった事かどうかは分りません。聖書にはただひたすら祈るイエスの姿が、そして眠りこけてしまう弟子達の姿が描かれているのみです。まあ福音書によっては若干他の描写もありますが・・・。

 またイエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘に行く途中、倒れ、そこで一人の女性が差し出した布で顔を拭くシーンがありました。この布にイエスの顔が浮かんだということで、後世カトリックではこの布を女性の名にちなんで「ベロニカの布」と呼んで、「奇跡の布」と称していますが、これも史実にはありません。また美術をかじっている人ならお分りかと思いますが、映画の中の色々なシーン、例えば裁きの庭とかドロローサ(イエスが十字架を負って歩いた道)などにはイエス・キリストを題材にした西洋名画のシーンが色濃く反映しています。恐らくはこれはメル・ギブソンがこれまで観てきた絵の印象が彼の中でイメージとして固まったのでしょう。

 もう一つ、十字架の形ですが、近年、考古学上の発見から、実際には伝統的な「立ったままはり付け」ではなく、座部があり、座らせた状態ではり付け、拷問の苦しみを何日にも渡って与えたことが検証されています。その意味では十数年前にアメリカで話題騒然となった”The Last Temptation of Christ” 「キリストの最後の誘惑」の方の十字架描写の方が史実に近いと言えます。

 この映画は確かに部分的には聖書の言葉をそのまま引用して作っていますし、アラム語やラテン語が遣われていますが、やはり映画は映画、プロデューサーの思い、解釈がかなり色濃く出ています。ですからこれが史実に忠実だとか聖書通りだとは思っていただきたくありません。あくまで映画として楽しんで?いただければそれで良いのではないかと思います。何だかプロデューサーの言葉みたいになってしまいました。

 しかしながらどのような導入であれイエスの受難、十字架と復活の意味を少しでも多くの人に考えていただけるのならこの映画も良い映画なのかも・・・と思います。ご覧になられた方はどのように感じられたか興味津津です。



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