小山晃佑博士の思い出1
ここ1週間、実に目まぐるしい日々を過ごしました。去る5月16日(土)に日本語補習校の教え子で私が過去20年以上御奉仕させていただいた合同メソジスト教会キャンプのキャンパーでもあった杉本健太郎君がテリー・タイ・イ・テンさんと6年越しの交際を実らせ結婚。その式の司式を私がさせていただきました。慶びのうちに式も披露宴も滞りなく済み、色々な思いを抱えながらも牧師をしていて良かったなぁ・・・と思いました。改めておめでとうございます。健太郎君とテリーさんの新たな人生に神の祝福がありますよう心から祈ります。
その2日後、若い頃から御教示を受けたニューヨーク・ユニオン神学校名誉教授、小山晃佑博士(今年の3月25日に逝去、享年79歳)のメモリアルに参列しました。
同じ日ニュージャージー・テナフライ町の高校生にお茶のデモンストレーションのお手伝いをし、翌日火曜日は合同メソジスト教団の教団按手礼委員会(次期牧師養成委員会)主催の指導委員トレーニングに参加、水曜日はDrew 神学校でのアポ、木曜日は教団の支区レベル・ミーティング、金曜日はメトロポリタン美術館ツアー、そして昨日5月23日土曜日は元教会員享年87歳の白人男性の葬儀と教会バザーなど、自分でも良くこれほどのスケジュールをこなせたなと思うほど忙しく過ごしました。
中でも1週間の間に結婚式、追悼式(参列しただけですが・・・)そして葬儀と冠婚葬祭に3度も関わり、改めて自分の仕事、召命を意識しました。死と生、喜びと悲しみはいつも隣り合わせであるという事実をどれほど多くの人が知っていることでしょう。この生と死の問題は改めてどこかで語ることにして、今回は小山晃佑博士の思い出を書き連ねたいと思います。
1980年からニューヨーク日米合同教会やSMJ(日本人特別牧会)の聖書研究会や特別集会のゲストで小山先生がお話しをされる度に、多くのことを学ばせていただき、その懐の大きいキリスト教神学に啓蒙、触発されキリスト教への見方、理解が変えられていきました。中でも小山先生の仏教やイスラム教、神道、ヒンズー教など等へのオープンな姿勢には心底敬服しました。若い頃、私は多くのキリスト教会が「主イエスだけが救いであり、他は一切救いはない。」と頑なに主張し、他宗教、或いは同じキリスト教の他教派でさえ批判して止まない狭い心に辟易していました。自分と違う信仰、哲学、思想を受け入れないその心根の狭さ、それはあたかも貧しい心根の学生運動家達が仲間同士で内ゲバを繰り返すような醜さでもあると思えくづく愛想が尽きていました。
そんな中、小山先生はお互いの違いを強調するよりも一致する点を見出すことの大切さを教えて下さいました。先生はエキュメニズム(超教派運動)が更にキリスト教のみならず、多宗教の中でも同じようにフェアーに接することであるとハッキリ教えて下さいました。その懐の大きな教えの虜になり、私は「キリスト教会や学校などで働きたい。」と献身するに至りました。今の私の神学、哲学、また倫理、及び人生訓の礎は小山先生の教えにあると言っても過言ではありません。
昨今、以前にも増して「自分達だけが正しくてそれ以外は皆救われず地獄に行く」という低レベルの教会や教派が多くて嘆かわしい限りです。「イエス・キリストのみが救い」であるという信仰の確信は私も同じですが、他の宗教の教えにも耳を傾け、学べることは学びつつ、更なる対話を持つ中でお互いに議論を交わしつつキリスト教の真理を伝えていく、という方法があっても良いのではないかと思います。
小山先生の訃報はニューヨーク・タイムズ(4月1日付け)にも載りました。それほど小山先生の神学、愛、平和を唱える姿勢は多くのアメリカ人や海外のキリスト者に影響を与えました。が、日本の知人から日本で小山先生ゆかりの方々が朝日新聞や読売新聞、毎日新聞などの大手新聞社の訃報欄に小山先生の記事をお願いしたところ「誰?」「そのような人は載せられません。」と一蹴されたとうかがいました。
今更ながら日本の余りにも小さな島国根性に情けなくなり(ハッキリ言ってけつの穴の小さい国民性に)愛想が尽きる思いでした。だから日本を背負って立つような人材が海外に流出して止まないんだ!と思いました。
まあしかし当の小山晃佑先生は「吉松君、そんなことはまあいいから、良き物、慈愛、ヘツェッドについて語ろう。」と言って笑われるだろうな、と想像し、自分も可笑しくなりました。