なぜ良く見せようとするんでしょう。
昨年の初夏以来です。いつも色々書きたいことはあるのですが、仕事や勉強に追われ、その折、その折書きたいと思ったトピックの時を逸したり、こんなこと書いては良くないかな、と思い止めてしまったり・・・。まあしかし徒然なるままに・・・とまた書きたくなってきました。
最近、つくづく気になるのは、自分も含めほとんどの人は皆本当の自分よりも良く見せようとしたり、自分の器を実物以上に大きく見せようとしていること。要はカッコウつけているわけです。関西弁では「エエかっこしい」と言うと以前聞いたような。自分のサイズに合わない高給でピカピカの靴を履いている人や、ブランド品というだけで不似合いなドレスを着ている人、情報ばかり収集し本当の教養になっていないのに自分は有識者と勘違いしている(そう思いたい)人、社会の一線で働いていると思っている人、大きな会社の肩書きで自分はさも偉いんだと言いたげな人、(最近は不思議とすごく減ったけど)一国の大統領、総理大臣のような顔をした大使館、領事館の職員(くどいですが、昔はこの手合いが多かったけど、最近は本当に皆さん親切です!)、アメリカに来て日本人のコミュニティーに閉じ篭り、一般アメリカ人の社会で暮らしていないのにアメリカを知っている積りになってアメリカ批判をする人、アメリカ人の社会に住んでいるからと言って、日本とアメリカをむやみに比較し、文化論をぶつ人など等、精一杯無理している人に出会うと、もっと肩の力を抜けば良いのに・・・と思ってしまいます。みんなが皆蘊蓄(うんちく)オヤジ、物知り女史である必要はないのです。見栄を張るのも、威張るのも、高慢に振舞うのも浅ましい。自戒の念も含めて、皆さん、もっと自分の身の丈に合った生き方をしましょう。「人の一生はたかだか70年、健やかにして80年」とは聖書の中の言葉(詩篇90篇、他、意訳)ですが、どんなに頑張ったって人間が知り得ることには限りがあります。また成し得ることにも限りある。限られた時間と知れば、あなたにとって、私にとってもっと大切なこと、やるべき事があるのではないですか。
私にとってキリスト教は禅道場であり、哲学の道です。自分の道を模索する場、それが教会です。 安っぽい救いを得る場所ではないのです。教会も時に自分達の姿を見つめ直さなければならない。人の目、要求を気にするのか、神の御心、御言葉を気にするのか・・・と。