最も難しいこと

 私は夏に時々Berkshire Institute of Art and Theology(バークシャイヤー美術神学院)の宗教と美術のプログラムに参加します。そこは音楽や美術と宗教との関わりを掘り下げるプログラム、例えば「音楽の中に表現されているキリスト教」とか「絵画と宗教」とか非常に面白いプログラムをしています。主催している理事会はプリンストン神学校の教授だとか音楽家、芸術家で構成されており、世界的に有名な音楽家のヨーヨーマも理事に名を連ねています。バークシャイヤーはボストン・シンフォニーが毎夏主催している野外コンサートの会場があるタングル・ウッドも近いので、音楽を鑑賞して学ぶというプログラムは特に充実しています。

 さて何年か前の話ですが、そのバークシャイヤーでアメリカ人(白人)でインド音楽を専攻し、インドに留学をしてインドの伝統楽器シタールをマスターし演奏家として活動する傍ら大学で教鞭をとっている方の講演がありました。その先生のシタールの名演に感動をすると同時に、彼の深いインド哲学、文化理解にも感銘を受けました。講演会の終わりに、聴衆との質疑応答があり、様々な質問が出ましたが、その折に私も質問をいたしました。「博士(因みに彼はインド音楽で博士号を取っています。)、西洋人として全く違う文化風習の国で宗教や音楽を学ぶにあたり、もっとも難しかったことは何ですか?」と尋ねてみました。勿論、私は音楽的なこともですが、風習の違いとか、言語とか色々あるだろうな、、、と想像していましたが、その時に、返って来た答えが「謙虚になること」でした。英語でModestyと言われた後、更にTo Be Humble is,I believe,the most difficult task for the Westerners.と言われました。

 私はその答えに更に感銘を受けました。正にその通りだなと思いました。私も含め、一般的に人はどうも謙虚になるということが難しいようです。一見、謙虚を装っていながら実は傲慢な態度が目に付く方も結構多いような気がします。そういうのを慇懃無礼というのでしょうか。クリスチャンになるということは本来、イエスに倣い「謙(へりくだ)る者」になるといういうことだと私は思っていますが、なかなかこれが難しい。アメリカで言うメインライン(大きな古くからある諸派、例えば改革派とかメソジストとか、長老派)の人たちも、福音派と自称している人たちも傲慢、尊大になってしまいがちです。

 メインランドの人たちは信仰を知的に理解しようとする傾向がやや強く、牧師たちは神学校で小難しい勉強をします。そうすると知的に高いことを「良し」として、敬虔さや聖霊体験などをちょっと小ばかにしたり、「保守的」「独善的」と批判する。また福音派と呼ばれている人たちの中には、そう言ったメインラインの教会を「頭ばかり」とか「リベラル=急進的」「信仰が薄い」と非難したりする方がよくいます。私も出身学校の故にそういうお批判を頂くことがたまにあります。しかも私の説教や神学、人物を知らないはずの人たちから。それら批判をする方々の中には自分が正しいという思い上がりが潜んでいるわけですが、それは本人には分からない。

 先日、コロンビア大学の宗教の授業の後、クラス・メートの一人からいきなり「Are You Born Again?(あなたは、生まれ変わりを経験しましたか?)」と訊かれました。私は思わず「うわっ来た!」と思いました。誤解の無いように。私は本来、クリスチャンであるということはBorn Again(生まれ変わった者)であるべきと思っています。これについてはまた別な機会に、或いはサーキット・ライダーで述べたいと思いますが、何故私が上述のような反応をしたかと言うと、今「Born Again」を名乗っているクリスチャン達の多くが他者を裁く人たちだからです。

 彼らはヨハネの福音の3章3節「人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」と5節「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国を見ることはできない。」を根拠に生まれ変わり(Born Again)を主張します。それ自体は正しいことなのですが、問題はその後。「もしあなたがBorn Againを経験していなければ、あなたはまだ救われていない。」とか「あなたはまだ本当のクリスチャンではない」と既に洗礼を受け教会に連なり、信仰生活をしている人でさえ批判してきます。確かにキリスト教が文化、風習になってしまっている今日のアメリカの教会にあっては、本当に回心し信仰をもつに至っていないクリスチャンも多く存在します。しかしだからといって、彼らが他者にたいして「あなたはまだ救われていない」とか「本当のクリスチャンではない」と裁いていいことにはなりません。

 その姿勢に見られるのは彼らの傲慢、高ぶりであり、救われて「仕える者」になる代わりに神の座に着いて人を裁いている姿です。人(魂)の救い、誰が救われ、誰が裁かれるかは神の業であり、人のすべきことではありません。「自分達が聖霊体験をした。」それは神の恵なのですから、それを感謝しこそすれ、人を裁く為にそれを用いてはなりません。私は、そのクラス・メートに「あなたはイエス様に救われて、幸せでしょう?だったらあなたのすべきことはその喜びを隣人に分かち合うことであり証しすることではないですか?」と言って「私はそうしたいし、そうありたいと願っています。」と応答しました。

 家庭の裕福さ、学歴、地位、名誉、国籍、そして宗教体験でさえ人のあかになってしまい、人を傲慢にしてしまう、、、謙虚になるということはなんと難しいことでしょう。

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