驕り高ぶった人

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富みを積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」

マルコ 10:17-23

 時折、自信に満ち溢れた人、また大っぴらにこそ言わないまでも「自分は絶対正しい。」と思い込んでいる人に出会います。特に20代~30代の人に多いような気がします。特に「これから自分の才能を活かしバリバリ仕事をしよう」と思っている20代半ばから後半、またある程度仕事をし、「自分には能力がある」と思っている30代、「仕事が出来る」と思っている30代後半から40代、勉強が「出来る」と思い込んでいる10代後半から20代前半の人々にこの傾向が顕著に見られます。中には本当は自信が全く無いのに,虚勢を張っている人もいますが。このような傾向は多かれ少なかれ誰にでもあります。私も若い頃は実力も無いのに自信過剰で思い上がっていたような気がします。今も実力は?マークなので、もしかしたらそのような嫌な面があるかもしれません。が、解っている事は自分は、それほどの人物ではないということ。

 以前もどこかで書きましたが、日本人に多く見られる傾向に「半端なインテリ」があります。大して深く物事を知らないのに、知識量だけは多く、自分が何でも知っている、だから自分は正しい、と勘違いしている人たちです。この手の人たちは始末に悪い。何せ自分が正しいから人の言う事を聞きません。また何でも直ぐに斜に構えて批判します。自信を持つことは悪い事ではありませんが、「深い洞察力」、「知識」、「経験」、「感性」、それに加えるなら「人を思いやる優しい心」がなければ、人はいつまでも半端なインテリで真の一人前の人間にはなれないような気がします。では「一人前の人間とは?」と訊かれたら、人の痛みがわかる人、話す前に聞く人、批判を簡単には口にしない人、和を尊び、平和、協調を善しとする人・・・などなど。円満に老いを迎えて、誰にでも優しいご近所のお爺さん、お婆さんなどは正に知者、尊敬されるべき人生の先輩でしょう。

 半端なインテリで何かと言うと人や物事を批判する人は負の力(ネガティブ・エネルギー)を回りに振りまき、一緒にいる人の正の力(ポジティブ・エネルギー)を吸い取ってしまいます。皆さんの中にもそういった人の話を聴いていて自分が知らず知らずのうちに疲れているといった経験をしたことがあるのではと思います。こういった人たちは、素直に聞く、素直に学ぶと言う姿勢がありません。学生だったら必ず自分の勉強が思うような成績が取れなかったり、学校が面白くないと、先生の批判をしたり、学校そのものを批判したり、会社員だったら自分の会社を批判したり、上司や同僚のことを悪く言ったり、或いは社会機構そのものを批判する。どの職種、職場に限らず、こういう人たちはいます。和を乱す人。厄介ですね、これらの人々は人の言う事を聞かないし、他の人から何か言われると、それが善意であっても、自分への批判として捉え、またその人達を批判する。この半端なインテリのひねた性格はどうしたら良くなるのか、正直なところ解りません。

 聖書でもこのような人の回心はなかなか難しいことが書かれています。冒頭の聖書はマルコによる福音書からの引用ですが、一人の青年が「永遠の命」=救いを求め、イエスにきました。この物語りは、貧しい人々がいても、飢えて死んでいる人がいても構わず、何もしない自己中心的な金持ち、資本家の救いの難しさとして解釈されますが、実は本当の問題はこの青年の奢り、自信過剰にあります。彼はイエスから何をすべきかを聞いたとき、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」とすかさず言い返しました。一体誰が本当にこれら一つ一つを全て守りとおす事ができるでしょうか?些細な嘘をついたり(偽証)、こっそりとおやつを食べたり(盗み)、人の悪口を言ったり(殺し)、兄弟で何かを取り合いをしたり(争奪)、父母に逆らったり(敬わない)・・・実は普段、私達がしていることは、よくよく考えると括弧内に書いた通り、イエスが引用した聖書の戒めを全て破る事につながるのです。それがわかれば自分は特別などと思ったり、人や物事を簡単に批判したりできなくなります。
 
 私はアメリカにかれこれ25年暮らしていますが、ニューヨーク周辺に居ますと、留学して来たり、駐在員として派遣されて来たり、青年海外やピース・コープで海外に行って働いて帰ってきたり、また今現在、貧しい人たちの中で活動している人たちとよく出会います。多くの人たちは人格的にも社会的にも優れ、彼らの仕事も尊敬でき、私は彼らから多くのことを学びますが、中には半端なインテリで「自分が正しい」と思っている人もいます。それらの半端な自信過剰のインテリには「海外に出ているから偉いの?」「貧しい人々の為に仕事をしているから偉いの?」「国の機関で働いているから偉いの?」と訊きたくなります。勿論、クリスチャンの中にもそういう人が結構います。牧師とて例外ではありません。

 海外に行かなくたって、上述のようなことをしなくたって、隣人と和を持って、日々一生懸命生きている人は沢山います。それらの人々は自分を何か特別などと思っていない。余程尊敬できます。

 奢り高ぶりを捨てて謙虚に生きることと、自信を持って生きることは両立しないのでしょうか?

 

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