どうやったら開かれた教会になれるか?

2008/4/25 (金) 18:37:47

 4月号のサーキット・ライダーと5月号のThe Link(英語の教会ニュースレター)に3月30日にNY Timesに載ったThe Evangelical Church Statement:The Evangelical Church and The Jewish Peopleと同新聞4月1日に載ったUnited Church of ChristのStatementを掲載、翻訳し私のコメントを少しだけ書きました。スペースの関係で誤解を招く表現になってしまったようで、お怒りの投稿がありました。そこでほんの少しだけ追記したいと思います。

 まずは「同じ信仰告白をし同じ聖餐式をしなければならない」と言って同胞を弾劾するのではなく、という表現で念頭に置いているのは、私の日本での教会籍がある日本基督教団内で起こった悲しい事実を挙げています。私の父の教会ではなく、他の教会でオープン・コミュニオンをしていた教会の幾つかが、日本基督教団の聖餐式、信者にのみ聖餐を与える、というやり方にそぐわないということで、教団から教団籍を剥奪するという勧告を受けました。本来日本基督教団は改革派もメソジストも長老派もまたそれ以外の諸教派が第二次大戦中に統一されてできた寄り合い所帯ですが、だからこそ違いを乗り越え、多様性を認めるという美徳がありました。が、それがある特定の教理だけが尊重されて、それ以外は異端、なんてことになっているのが昨今の現状です。今は米国メソジスト教団に属していますが、祖国日本の教団のそのような排他的な姿勢を非情に遺憾に思っています。ですから、サーキットに書きました。

 また現在同性愛者を受け入れず、同性愛者に按手礼を授けて牧師にしない教団は私が属している合同メソジスト教会です。これも残念でなりません。私たちは「ゲイ」だとか「レズビアン」だとかというレッテルを誰かに貼り付けた時、その人を例えばマークだとかジョンだとか、キャサリンだとかという名前を持ち、感情の通った一人の一個人として見ずに、自分の信条にしたがって、その人を同性愛は罪である、従ってゲイは罪だ。と言った具合に裁いてしまいます。その人がどのような思いで神の御言葉を受け入れているかも知らずに。何故自分はこのような苦しい思いまでして、人々の前にでて、牧師として仕えたいのか、自分はゲイであることは、自分の意志ではなく気が付いたらそういう自分がいただけなのに・・・といつも肩身の狭い思いをして人から差別されてきた人の思いを、一体誰が分かるというのでしょうか?私はゲイやレズビアンの友人ガ沢山いますが、彼らをそのようなレッテルで見る前に、彼らを一人の友人として見ています。彼らがレッテル付けされて見られたくない、差別されたくないという思いは、私が吉松純という一人の人間であり、人間吉松純を知って欲しい、一人の日本人、牧師、或いは高学歴の人などという風に見られたくないと思う以上の切なる願いです。

 さてもし私が誰かを友と呼びながら、その人の信仰、生き様を認めないとしたら、果たして私は本当にその人の友と言えるでしょうか?答えは否です。私が何故憤ってEvangelical Church and the Jewish Peopleを引用したかは、そこにあります。「ユダヤ人は友である。友だからこそ自分たちの信じているイエスだけが唯一の救い主であるので、私たちはユダヤ人にもイエス・キリストを述べ伝えることを模索している。」と書かれています。そこに欺瞞、また驕りがあると私は思いました。私たちクリスチャンが「主イエスだけが唯一の救いです。」と言うのは何も問題ありません。またそれを他者に伝えていくことが伝道であり、伝道はしなければならない。しかし伝道する相手も人間です。彼らには彼らの宗教、信仰がある。そういった相手に、あからさまに『主イエスだけが唯一の救いです。」と言ったら相手はどう思うでしょう? 例えば、あなたはクリスチャンだと想定して、そのあなたの前に仏教徒がやって来て「私たち仏教徒はクリスチャンを友だちだと思っています。でもお釈迦様だけが唯一の救いです。あなたは友達だからそのことを知って欲しい。」と言ってきたらどう思うでしょう?「何て不躾な人だろう」と思わないでしょうか?自分を友達と呼びながら自分の信仰は認めてくれないでいて、何が友達だろう、そう思わないでしょうか?それを私は感じ取りました。原文は勿論英語ですので私の解釈はもしかしたら間違いかもしれないと思って念のため、アメリカ人の教会員数人に確かめましたが、彼らは皆私の解釈に同意してくれました。

 ではどうやって伝道するか?私たちは人を裁くのではなく、自分がどれほど神様に恵を与えられたか、どれほど愛されているか、またどのように自分の人生が変えられたか、それを証しすれば良い。なるほど、あなたの信仰は素晴らしい。でもちょっと私の話を聞いてください。と自分が今喜びの内に生かされていることを相手に伝える。それだけです。あとは聖霊の働き、神の恩寵にお任せする。

  裁くのは神です。私たち人間ではない。そのことを間違えると、威圧的な恐怖感を与える伝道になりかねない。人には誰が神の国=天の国に行くとか、地獄に行くとか、罪人であるとか、間違っていると裁くことはできません。ただ同胞が何か危ない方向に進もうとしていたら、それを批判したり、意見を交換することは、何ら差し支えないと私は思っています。それが4月号のサーキットの主旨です。

美しい国日本と憲法第九条

2007/5/4 (金) 18:22:49

 このところTV-Japan(NHK)を見ていると連日のように憲法第九条:戦争の放棄、軍備武力を持たない、をめぐる番組が放送されています。この九条は第二次大戦に敗れた日本が「二度と戦争を起こさないように」というアメリカの政治的圧力の下、に掲げられた条項と言われています。日本は連合軍が「天皇制を残す」ということや、本当なら日本が支配した中国や韓国などアジア諸国に支払う莫大な補償金免除という条件を引き出すことによって、この平和憲法を受け入れました。

 その成立の過程はともかく、一切の武力を放棄するという憲法は人間の歴史が始まって以来、類稀なる法律です。オリジナルではどこか他の国が攻めて来ても自衛すらしないという徹底した平和法でした。しかしこれに不安を感じた戦後の右派タカ派の政治家、総理大臣は何とかこれを改憲しようと躍起になってきました。一方、敗戦に懲りた人々、左派の政治家達はこれを守ろうと必死に右派に対抗してきました。その後国際政治の動乱の中で、残念なことに私が生まれた昭和30年代には保安部隊、そして自衛隊が作られました。が、なんとか戦争放棄、核廃棄だけは守られてきました。

 今再び安倍内閣でこの九条を変えて、武力を拡張し参戦できるようにしようという動きが活発化しています。なんと愚かなことでしょう。一方、安倍氏が首相になった折に「美しい国、日本」というスローガンを掲げました。教育を見直し、国を愛する心を養う・・・云々。その考えは右傾化しなければ決して間違った概念ではないと私は思っています。

  私はアメリカに住んでもう27年になりますが、長く住めば住むほど自分の日本人であることを見出し、日本人として祖国の文化、伝統をもっと誇りに思い大切にすべきと考えるようになりました。そして大切にすべきものに憲法第九条があります。たとえ始まりはお仕着せの憲法だったとは言え、今や世界に唯一の平和憲法であり、戦争放棄、軍備を持たない国などは日本以外どこにもありません。まあ自衛隊がありますので軍備を持ってしまい、その点では野蛮人の域を脱していませんが。

 本当の意味で美しい日本とはこの平和憲法を持っていることなのではないでしょうか。平和があるからこそ、伝統文化、工芸、芸術を謳歌できる。戦争放棄の法律があるからこそ、世界に平和を訴え、醜い争いを繰り広げている大国、小国に「待った!」をかけられる。

 日本がこの法律を失うことは歴史の逆行です。人類は武力闘争の無い未来に進んでこそ進歩、発展と言えます。何故なら戦、人殺しは人類の歴史が始まって以来、これまで無くなったことがないのですから。本当の意味で「美しい国、日本」を考えてみませんか。

 

高慢と嫉妬

2006/9/22 (金) 13:57:16

 9月初めに開かれた東部合同ファミリー・キャンプで、メイン・スピーカーだった福島第一聖書バプテスト教会牧師、佐藤彰先生と牧師会や会期中の自由な交わりの時間に質問する機会が幾度か与えられ、佐藤先生に以下の質問をしました。「人がクリスチャンになる、信仰を持つにあたり、何が一番大きな障害ですか?」また「クリスチャンの霊的成長を邪魔するものは何ですか?」。これは実はどちらも同じ内容の質問です。

 「信仰を持つこと」「信仰者として成長すること」を邪魔するものとして、佐藤先生は男性は高慢、女性は嫉妬を挙げました。これは勿論、一般に男女平等ではない社会、男中心の社会でという前提でですが、男性は仕事をし、だんだん重い地位着くようになる、社会的にも責任ある立場になる。それ自体は悪いことではないが、だんだん「自惚れ」がその人の中に忍び込み、いつのまにか「自分は地位も名誉もある。」=「自分は偉い」と言う思いになる。そう言う人は「宗教なんて、弱い人間、ダメな人間が信じる物だ」と思い込む。確かに社会で活躍している人には、傲慢な感じを与える人、尊大に振舞う人が少なくありません。これは実は男性だけでなく、女性でも同じことが言えます。キャリア・ウーマン(やがて死語になると思いますが、何とも変な形容詞ですね。)としてもてはやされている女性はどことなく、横柄な態度、言葉遣いをする人が多いような気がします。自分は何でもできる。男とも対等にやれる、どころか、負けない。という思いを前面に出している。(絶えず男と比べられること自体、女性に不平等な社会ですが、そんなところで自分を出さなければいけないことが哀しい。)

 女性は嫉妬する。自分と比べて、他人の方が幸せそうに見えると悔しがったり、羨んだり。しかし、これは男性も同じ。自分と同期が会社で役職についた時、素直に「おめでとう」と言えるでしょうか? 自分と比べて、何でも判断する。これは人間の愚かな性です。見栄を張ることも同じ。自分がどれほど裕福か、お金が有るか、学歴、社会的身分があるかをひけらかす。ハッキリ言って、こういう人は、心貧しき人。夫が会社の役員で自分は会社の役員でもないのに、夫の部下、彼らの妻たちに、さも自分が役員(部長だったら、部長のように、専務だったら専務のように)振舞う。自分の夫がドクター(博士、医者)だと、さも自分がドクターかのように知ったかぶりをする妻。正に虎の威を借りる狐とはこういう人のことをいうのか、という見本です。そう言う人には「あなたは一体何ですか?」「あなたは何ができるのですか?」と問いただしたくなります。自分に自信のない人ほどそういう外的要素に頼る傾向があるように見えます。上述の高慢、傲慢になる人達も、実は本当に何ができるのか、自分に問いただしたら、案外何もないとたじろいでしまうような人が結構多いのではないでしょうか。

 確かにこうして考えてみると男性でも女性でも高慢、嫉妬はその人の信仰のみならず、人としての成長を妨げる要因ナンバー1,2かもしれません。 本当に自分に自信がある人はひけらかすようなことはしませんし、自慢するような愚考、野暮もしません。神様も同様に人の外見、外的に付いた肩書きやお品書きを見るのではなく、人の内面、中を見ます。

 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたし(神)は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主(神)は心によって見る。」(サムエル記上 16:7.)

 あなたは自分自身をどう見ていますか? 学歴や役職、肩書きを一切剥ぎ取った時、あなたは何ができますか? あなたは何者ですか?

 

 



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